ジャージー姿の久保尚志は阪神電車内の中吊り広告を見ていた。金メダルに紫紺のリボン、銀メダルに深紅のリボンが並ぶそのポスターを、仲間たちも眺めているようだった。

「どうせなら持って帰ろうよ、これ」

 そのうちのひとりが言った。「これ」と指したのは金メダル。すなわち優勝だ。決勝まで勝ち進んだ観音寺中央の選手たちは、日本一を意識するようになっていた。

28年前のセンバツ…あの快進撃

 1995年、春のセンバツ。

 この年の1月17日に起きた阪神・淡路大震災によって、甲子園球場のある西宮市も大きな被害を受けた。球場はスタンドの一部に亀裂が生じる程度で事なきを得たが、阪神高速の橋げたが落下するなど交通網が寸断された影響で、本来、専用バスで球場入りする出場校の選手たちは、公共交通機関での移動を余儀なくされた。大会も自粛ムードが漂う世間に倣い、開会式は簡素化、チームの応援もブラスバンドなどの鳴り物の使用を控えた。

 少し萎縮したムードのなか開幕したセンバツを沸かせたのが、観音寺中央だった。

 初出場の県立高校。そんな無名のチームが、全国に名だたる強豪校を次々と撃破し、遂には頂点まで上り詰めたのである。

「本当に『1回、勝てればいいな』と出たセンバツで優勝ですから。まさか、でしたよね」

 優勝の原動力となったエースの久保は、28年前の快進撃を短く噛みしめる。

「3年計画」の中身

 観音寺中央がセンバツに出場するまで、観音寺市のある香川県の西部、西讃地区から甲子園に出た高校はなく「なんとか西讃から」は、地域の悲願でもあった。

 高校野球途上の地での「まさか」の第一歩。それは、橋野純の監督就任である。

 母校である丸亀商(現丸亀城西)を20年間指揮し、チームを春夏合計7度の甲子園へと導いた。80年のセンバツではベスト4と、経験、実績ともに豊富な橋野が92年から観音寺中央の前身である観音寺商に赴任。「3年計画」と位置づけたチーム作りに着手したのが、久保たちの世代だった。

 彼らが入学した当初は、まだ観音寺商だった。関西や関東からも有望選手が集まるなか、同じように橋野から声をかけられた久保は当初、逡巡していた。というのも、成長痛で腰に不安を抱えていたからである。

「全国を飛び回ってでもいい医者を見つけて、腰を治すから来てほしい」

 真っ直ぐな口説き文句に惹かれた久保は、観音寺商への進学を決意する。

「鬼」から「仏」に。監督の変化

 橋野という指導者は「当たり前」から逆行していた。久保たちが入学して最初に橋野から課せられたのは、学校周辺の清掃。その時の監督の言葉は、今も胸に焼き付いている。

「野球で日本一になるのは難しいけど、私生活の日本一は誰でも目指せるんだからな」

 橋野がこの方針に辿り着いたのは、「鬼」の時代があったからだという。

 丸亀商での青年監督時代、選手を力で抑圧するような前時代的指導をしていた橋野は、「自分の息子にも同じことができるのか? された親の気持ちを考えたことはあるのだろうか?」と、自問自答するようになっていた。そして、観音寺商に赴任する頃には指導法を改め、体罰は論外、練習中の水分補給も自由とした。なにより、合理的な見地から選手の自主性を尊重するようになった。

 鬼から仏に。そんな橋野の寵愛を受けて育ったのが、久保たちだったのだ。

「甲子園を狙えるかもしれない」

 ピッチャーとして入学しながら、監督からの「打てるキャッチャーがいない」という助言でコンバートし、チーム事情によって2年生の夏前に再びピッチャーとなった久保は、橋野によって生かされた選手だった。

 まず、キャッチャーをしたことによってスローイング技術が向上した。強く腕を振り切りながらも各ベースへ正確に投げるための練習が、ピッチャーに再転向後も役立ったのだ。

 練習の効率化もそうだ。ブルペンでの投げ込みは1日100球程度で、3日に1回はノースロー調整。ウエートトレーニングや走り込みも重量やタイムなど設定値を決め、しっかりと段階を踏んでいけたと、久保は言う。

「気合いだ、根性だって感じではなかったです。当時としては科学的なトレーニングだったというか、練習からチームとして目指すべきものが明確でした」

 観音寺商から観音寺中央に校名が変更された94年夏。久保たち2年生8人がレギュラーのチームが香川大会ベスト4となったことが自信となり、「甲子園を狙えるかもしれない」と聖地を現実的に見られるようになった。

プロ入り多数の強豪を完封

 センバツの出場権を懸けた94年秋。

 観音寺中央は新チームの始動から四国大会の準決勝で今治西に敗けるまで、27連勝と破竹の勢いを持続させた。公式戦ではエースの久保がほとんどの試合を投げ抜き、チーム打率はセンバツ出場校中トップの3割9分7厘。初出場ながら実力のあるチーム。それが、観音寺中央の評判となっていった。

「初戦が一番きつかった」

 噂の初出場校のマウンドを託された久保が言った。甲子園に初めて足を踏み入れた者だけが味わえる魔物の洗礼。緊張感で支配されたのが藤蔭との初戦だ。3回までの4安打2失点を「ほとんど覚えていない」という発言がその証拠であり、平常心を取り戻してきた中盤以降の6イニングは3安打無失点に抑えている。

 久保は高校時代のピッチングで、このセンバツが「一番よかった」と振り返る。なかでも「野球人生のベストピッチ」に挙げたのが、東海大相模との2回戦だ。巨人にドラフト1位で入団する原俊介、中日2位の2年生・森野将彦が名を連ねる強力打線を相手に、久保は140キロを超えるストレートにスライダーを効果的に織り交ぜ凡打の山を築く。4安打、109球の完封劇。「全部がハマっていました。純粋にパフォーマンスがよかったです」と自画自賛できるほど、圧巻の投球内容だった。

 そのベストを体現した久保が肩の異変に気付いたのは、東海大相模戦の直後だった。

肩に異変…なぜ「すぐ消えた」?

 監督の橋野に告げながらも登板を志願し、翌日の星稜との準々決勝のマウンドに上がったものの調子が上がらない。「天才」と呼ばれる2年生エースで、のちに慶應大を経て近鉄に1位入団する山本省吾とも自信を持って投げ合ったとは言い切れず、7回途中4失点で降板した。

 関西との準決勝では、広島に2位で入団することとなる左の好投手、吉年滝徳を打線が捉えて13得点と爆発した一方で、久保は5回途中4失点でノックアウトされていた。

 満身創痍とも言える状態だった久保に、またも「突然」が訪れたのは決勝前夜だった。「不甲斐ない」と久保を悩ませていた肩の不安は、いきなり解消されたのである。

 悩めるエースを案じたチームが地元で世話になる整体師を大阪の宿舎まで呼び、久保が肩の状態を診てもらうと、治療はあっという間に終わった。どうやら亜脱臼のような症状で、痛みはすぐに消えた。

「『投げられるかどうか? でも、投げなきゃダメだ』って状態だったのが、『あれ?』っていうくらいすぐに治って。決勝は疲労度がマックスでしたけど、投げられるようになっただけで『いけるな』って思えました」

銚子商を撃破…公立校が甲子園V

 決勝の相手である銚子商には、初戦のPL学園戦でホームランを放っている4番の澤井良輔がいた。この、のちにロッテに1位指名されるスター選手を久保はノーヒットに抑え、7安打完封。蘇ったエースの面目躍如だった。

 かくして観音寺中央の「まさか」は結実し、金メダルと紫紺の大旗を香川に持ち帰った。プロに上位指名される逸材を擁する名門校をことごとく退けた、文句なしの日本一だった。

 あまりにもセンセーショナルな偉業だったが故に、凋落の色もまた、濃くなる。

 2回戦で敗れた夏を最後に、西讃地区から甲子園の足音は遠のいていった。観音寺中央の名も、今は観音寺総合に変更されている。

「社会人野球コーチ」の今…

「商業から中央に変わった時は抵抗感なかったですけど、今は校歌も変わっちゃったんで」

 久保が寂寥感をにじませる。でも……。

「土井が監督を続けてくれているんです。県で上に行けることも何回かあったし、あと一歩だと思うんで、頑張ってほしいです」

 母校を指揮する当時のキャプテン、土井裕介に久保は再建を託す。同時に、自分も指導者となった今だからこそ、見えるものがある。

 社会人野球の鷺宮製作所でコーチとなり、今年で5年目。選手と汗を流す日々で、つくづく感じるのは観音寺中央での学びだ。

「自分も現役を上がって33歳で本格的に社業に入って……社会人になったわけです。そこでの苦労というのを、現役の選手たちにも伝えていけたらいいな、と。今なら『野球人である前に、社会人であれ』ですね」

 それが、久保が高校生から大事にしている成功体験。橋野の、仏の教えである。

文=田口元義

photograph by JIJI PRESS