2022-23の期間内(対象:2022年12月〜2023年4月)まで、NumberWebで反響の大きかった記事ベスト5を発表します。格闘技・ボクシング部門部門の第3位は、こちら!(初公開日 2023年2月12日/肩書などはすべて当時)。

「ワンサイドで終わってしまい、自分が期待した試合は見せられなかった。ただ、すごく幸せな気持ちです。みんなが応援してくれ、20年以上の選手人生をともに歩んだ猛者たちがここに集ってくれた。コーチやチームメイトたちも、みなさんありがとう」

 青いオープンフィンガーグローブをマットに置いて引退セレモニーに臨んだエメリヤーエンコ・ヒョードルは、いつもの落ち着いた口調で語り始めた。現地時間2月4日に米カルフォルニア州イングルウッドのキア・フォーラムで開催された『Bellator 290』。王者ライアン・ベイダーにヒョードルが挑んだBellator世界ヘビー級タイトルマッチは、ベイダーが1RTKO勝ちで3度目の王座防衛に成功するとともに、リベンジに燃えるヒョードルを返り討ちにした。

ロシア人のヒョードルに捧げられた絶大なリスペクト

 両者は2019年1月にBellatorで初めて拳を交わし、ベイダーが1RでKO勝ちを収めている。以前からベイダーとの再戦をファイナルマッチとして見据えていたヒョードルは、大会前日の会見でも「勝っても負けても終わりにする」と宣言していた。とはいえ、かつて“60億分の1の男”といわれたヒョードルも46歳。肉体的な衰えは隠せない。ヒョードルが右フックを繰り出しても、空を切るばかり。対照的にベイダーの右を被弾してよろける姿に、時の流れを感じずにはいられなかった。

 時間が経つにつれ弱っていく一方のヒョードルに、とどめを刺したのはベイダーのパウンドだった。ほぼ無抵抗のままそれを浴び続けたため、最後はレフェリーに試合を止められた。その瞬間、MMAファイターとしてのヒョードルの23年に及ぶヒストリーにピリオドが打たれた。

 もっとも、この日のハイライトは一方的だった試合内容よりも、そのままケージの中で行われた引退セレモニーだったように思う。マーク・コールマン、ホイス・グレイシー、ダン・ヘンダーソン、ジョシュ・バーネットらヒョードルとともに黎明期のMMAシーンを築き上げた往年のレジェンドたちが勢ぞろいしたシーンは、壮観というしかなかった。

 ロシアがウクライナに侵攻を開始して、もうすぐ1年が経とうとしている。ロシアが西側諸国から猛烈に非難される中、ヒョードルはアメリカのケージに入り、同国のベイダーと闘った。映画『ロッキー4/炎の友情』で描かれたドラゴのように、西側ではアメリカ人と戦うロシア人は完全なヒールと見なされる傾向がある。

 しかし、引退試合を終えたロシア人ヒョードルに対するレジェンドたちの視線は温かく、リスペクトしか感じられなかった(コールマン、ヘンダーソン、バーネットはアメリカ人だ)。加えて、観客たちのスタンディングオベーション。「スポーツの世界に政治を持ち込んではいけない」という主張もあるが、実際に大きな武力衝突が起こる時代に、スポーツが政治と無関係でいることは不可能に近い。

 ナショナリズムを煽る道具になりやすい格闘技であれば、なおさらそうだ。世界のMMAシーンの礎を築いた男は、政治をも超越した存在になったのだろうか。

「ボロボロの柔道衣を買い換えるお金もなかった」

 最後まで穏やかだった表情とは裏腹に、ヒョードルの現役生活はまさに波瀾万丈だった。そもそもMMAファイターに転向する以前はロシアでも屈指の柔道家でありサンビスト(サンボは柔道とレスリングを掛け合わせた、旧ソ連生まれの格闘技)だったが、母国の代表として大きな国際大会の舞台に立つことはほとんどなかった。代表決定戦でどんなに優位に試合を進めても、ヒョードルに旗が挙がることはなかったからだ。

 当時のロシアでは、主要なクラブに所属する選手が代表として選出されることが当たり前で、ヒョードルのように地方の弱小クラブに所属している選手が実力で代表の座を勝ち取るのは至難の業だった。国の強化指定選手に選出されても経済的な支援はほとんどなく、競技だけで生活することは不可能だった。

 それだけではない。社会主義国家体制を敷いていたソ連は1991年に崩壊した。当時ヒョードルはまだ15歳。瞬く間に混乱期を迎えた社会では、力や知恵のある者だけが生き残れた。激動の中、ヒョードルは初恋の人オクサーナと結婚しロシア代表を目指したが、狭いアパートでの新婚生活を余儀なくされる。

 かつて彼のコーチは筆者にこんな話を打ち明けてくれた。

「あの頃のヒョードルには、ボロボロになった柔道衣を買い換えるだけのお金もなかった」

 MMA転向は貧困から脱出する唯一の手段だった。2000年9月5日、MMAファイターとしての3戦目。海外での初ファイトとなったリングス後楽園ホール大会の高田浩也戦で初めて得た20万円程度のファイトマネーも、プロが何たるかもわからないヒョードルにとっては大金で、生まれたばかりの愛娘のために全額を持ち帰った。

なぜヒョードルはUFCと契約しなかったのか?

 ちなみに同年5月21日にヒョードルは母国ロシアでデビューしているが、奇しくもその5日後、ヒクソン・グレイシーが東京ドームで船木誠勝戦を行っている。結果的にこの試合が、ヒクソンのラストファイトとなった。MMA界を引っ張るリーダーとしてのタスキは、このタイミングでヒクソンからヒョードルへと受け渡されたのだろうか。2001年4月から、ヒョードルは約10年間無敗という金字塔を打ち立てている。

 わけても日本のファンにとって鮮烈なのは、PRIDE黄金時代の記憶だろう。アントニオ・ホドリゴ・ノゲイラとの3度に渡る死闘、いまだヒョードルのベストバウトに推す声が多いミルコ・クロコップとの名勝負……。PRIDEで活動した期間は2002年から2006年までのわずか5年ながら、なんと密度の濃かったことか! 少なくともその期間の世界のヘビー級はPRIDEを中心に回っており、その舞台でヒョードルは無敵を誇っていたのだから、当然といえば当然かもしれない。

 一連の不祥事を経てPRIDEがUFCを運営するズッファ社に買収されると、UFCはヘビー級のトップ3だったヒョードル、ノゲイラ、ミルコの獲得に動いた。その結果、ノゲイラとミルコは契約に合意した。ヒョードルも一度は交渉の席についたが、目の前に置かれた契約書にサインすることはなかった。MMAの本戦以外にもさまざまな制約を受ける、UFCの契約上の“縛り”の強さに納得できなかったのだ。

 結局、引退するまでオクタゴンに足を踏み入れることはなかった。BodogFight、Affliction、Strikeforce、M-1 Global、RIZIN、そしてBellatorと数々のプロモーションを渡り歩いたことを、ヒョードルは運命だったと捉えている。

 日本でのデビュー当初は20万円だったファイトマネーも、数年間で一気に高騰した。少なくとも2007年にM-1 Globalと2年6試合の契約を結んだ時点で、1試合あたりの基本給は200万ドル(当時のレートで約2億3800万円)だったといわれている。

 ファイトマネーだけではない。柔道家としてロシア国内の地域格差に泣かされたことも、プロとして大成功を収めた時点で「かつての苦労話」になってしまった。アマチュア時代のヒョードルに不利な判定をした審判たちは、ベルゴロド州のコネのない元代表選手の立身出世をどんな目で見ていたのだろうか。2009年、ヒョードルはテニスのスベトラーナ・クズネツォワとともに、ロシアのベストアスリートに選出された。

 2011年にモスクワで行われたジェフ・モンソン戦では、ウラジミール・プーチン首相(当時/現大統領)がリングサイドで観戦する中、勝利を収めた。プーチン大統領にとって“強いロシア”のイメージを植え付けるために、ヒョードルほどうってつけの存在はない。

穏やかな表情の奥に隠された“ヒョードルの激情”

 引退後もヒョードルはロシアの象徴であり続けるのか、あるいは……。きわめてデリケートな問題だが、ヒョードルの両親はウクライナ人で、彼自身の出生地もウクライナであることを忘れてはいけない。

 私は知っている。ヒョードルの穏やかな表情の奥には爆発的な感情が隠されており、一度スイッチが入ったら誰も止められなくなることを。かつて弟のエメリヤーエンコ・アレキサンダーがマフィアに入ったときは、足を洗うと約束するまで殴り続けた。また1995年から2年ほどロシア軍に入隊したときには、どうしても許せない先輩に対して激情をぶつけてしまったという(明言はしなかったが、たぶん“やってしまった”のだろう)。そうした逸話は、“もうひとりのヒョードル”がいることを如実に物語っている。

 再び訪れた激動の時代をヒョードルはどう生き抜くのか。戦争はまだ終わりそうにない。

文=布施鋼治

photograph by Susumu Nagao