2022-23の期間内(対象:2022年12月〜2023年4月)まで、NumberWebで反響の大きかった記事ベスト5を発表します。インタビュー部門の第2位は、こちら!(初公開日 2023年2月13日/肩書などはすべて当時)。

 一瞬で泡と消えた契約金、鬼の西本監督に「テメエ!」と激怒、漁師との格闘、朝7時まで飲んで猛打賞、他人への貸付金は数千万円……筋骨隆々とした肉体からギリシャ神話の英雄“ヘラクレス”に例えられた近鉄バファローズの4番・栗橋茂には数々の伝説が残っている。これらの話は本当なのか――。NumberWebのインタビューに応じた。(全4回の1回目/#2へ) ※敬称略。名前や肩書き、記録などは当時

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 栗橋茂のプロ野球人生は混乱と戸惑いから始まった。

 作新学院の江川卓が目玉だった1973年のドラフト会議当日、駒澤大学は学校近くの神社で秋季リーグの優勝祝賀会を開いていた。指名の情報を聞いたマネージャーがピリピリした表情で太田誠監督の元に駆け寄って「栗橋、近鉄1位です」と伝えた。不人気球団の指名に部員はザワつき、男は落胆して仲間の輪から離れて縁側に向かった。その姿を見た監督は「こっち来い! 何を落ち込んでるんだ」と声を掛けた後、まさかの一言を発した。

「おまえ、1曲歌え」

 栗橋は仕方なく立ち上がった。

「なんで、こんな時にマイクを握るのかと思ったよ。『網走番外地』を歌わされた。しかも、アカペラだよ。歌い終わって少ししたら、同期の木下(富雄)が広島に1位指名されて、静まっていた場がワーッと盛り上がった。俺の歌はなんだったんだよ……」

やけくそで近鉄入団。契約金は泡と消えた

 創設以来一度も優勝がなく、お荷物球団と揶揄された近鉄は1965年のドラフト施行以降、毎年3人以上の選手から入団拒否に遭っていた。幼い頃から東京で過ごしていた栗橋にとって、大阪に本拠地を置くチームは全く馴染みのない上に、指名前の挨拶もなかった。

「合宿所に戻ったら球団代表が来ていたけど、太田監督には『河合楽器に行きます』と言った。ただ、その年から学生が拒否したら、プロは2年間指名できないルールができた。社会人に行ったら(早くて)25歳で入団でしょ? だから悩んだし、近鉄もしぶとかった。迷いに迷って越年したの。そしたら新聞社が実家に押しかけて、お袋が参っちゃってね。『だったら行くわ!』という投げやりのやけくそで入団を決めた。誰も『おめでとう』なんて言ってくれなかったよ」

 突然、契約金という名の大金が入った栗橋の実家には有象無象が押し掛けた。

「不動産業者が来て、お袋を旅行みたいな感じで北海道まで連れていってさ。『ここの土地は将来、価値が上がりますよ』と調子のいいこと言って、お袋が買わされちゃった。当時で1000万だもん。これで契約金が消えた。売れないから、未だに持ってるよ。坪100円もしないよ。俺、一度も行ったことないんだよね。遠すぎて辿り着かない。買ってくれない?」

朝帰りしたら闘将が…「あれはドキドキした」

 栗橋が入団した年、阪急の黄金時代を築いた西本幸雄が近鉄の監督に就任した。大正9年生まれの元陸軍中尉は鉄拳制裁も辞さない指導者で、選手たちを震え上がらせていた。

「入団前から怖い人という話しか聞かなかったね(笑)。キャンプに入って噂が本当だとわかった。練習中、選手は常にビビってるし、コーチはそれ以上だった。ノック打つ時も『おい、いくぞ!』と声を掛けながら、横目でチラチラ西本さんを見ていたからね。見逃し三振でベンチに帰ると『貴様来い!』と呼ばれて、胸ぐら掴まれたこともあった」

 西本監督は常に全力プレーを求め、シート打撃や紅白戦でも投手に思い切り内角を攻めさせた。栗橋は77年の高知・宿毛キャンプで右腕、左右の太もも、足首、脇腹など8カ所に死球を受けて全身アザだらけになった(※1)。それでも、夜遊びは欠かさなかった。ある時、朝帰りをすると戦慄の場面が訪れた。

「7時半くらいだったかな、宿舎に戻ったら駐車場でみんな体操してるんだよ。西本さんもいてさ。その場に入れなくて、国道とホテルを遮るブロック塀に隠れてたの。穴から様子を見てたら、西本さんが両腕を上に伸ばしながら、俺のほうに来たんだよ。慌てて、地べたに仰向けになって寝たわけ。そしたら、道路を走るトラックの運ちゃんが『……何やってんの』って感じで、冷たい視線を送るんだよ。パッと横を向いたら、ブロック塀の穴から西本さんの膝が見えるんだよね。あれはドキドキしたね。ホントに」

 体操を終えた西本監督や選手たちは、体を伸ばしながら食堂に向かって行った。

「俺は、少し間を置いて『散歩に行ってきました』みたいな顔してホテルに入っていった。あの頃は、点呼なんてなかったからね。みんな朝でボーッとしてるし、誰にも気付かれなかったと思うよ」

 西本監督は歩道に寝そべる栗橋に本当に勘付かなかったのだろうか。

「もし見つけても、西本さんは黙ってるかな。門限破って怒られたことはないね。グラウンドでちゃんと結果を残せばいいという考え方だったと思う」

「テメエ!」鬼の西本監督と衝突

 5年目の78年、栗橋はレギュラーを獲得する。初めて規定打席に到達し、打率2割9分2厘、20本塁打、72打点の成績を残した。猛特訓を課す西本監督には、こんな信念があった。

〈なぜ、あんなに練習をさせるのかって? 世の中には、日のあたらない場所で必死に働いている人が多い。その人たちに〝努力すれば、いつかは日が当たる〟ということを証明したい。努力する者は、必ず報われねばならぬ〉(※2)

 誰もが絶対服従の闘将に対し、栗橋はある試合で反乱を起こした。

「日生球場で、俺がノーアウトから二塁打で出て、次のバッターが外野に大きな打球を上げたの。センターが追いつきそうな感じだったから、タッチアップを狙ったんだけど、結局捕れなかった。そのバッターは二塁まで行ったんだけど、俺は打球が落ちてから走ったので、三塁止まりになった」

 西本監督は二塁打でホームに帰れない走塁に激昂した。次打者の犠牲フライで栗橋がホームインすると、ベンチから出てきて「手抜きしやがって」と叱責した。冷静に「いや、してないです」と答えてベンチに戻った栗橋に、もう一度「手抜きしやがって」と語気を強めた。濡れ衣を着せられたと感じた男は「してないです」と同じ言葉を繰り返した。

 一触即発の不穏な空気が流れる。西本監督が三たび「手抜きしやがって」と咎めると、栗橋はブチ切れた。

「テメエ、この野郎! してねえって言ってるだろ!」

 監督に襲い掛かりそうな栗橋を関口清治コーチなど4、5人が止めに入った。

「手を抜いたプレーなんて絶対にしないよ。それなのに、怠慢と判断されたからカチンときたんだろうね。でも、試合が終わると急に冷静になって、ああやっちゃったなと落ち込んだ。二軍行きだろうし、トレードに出されるかもしれないと思った」

「この人について行こうと思った」

 疎(まばら)な観客が帰路に向かい、選手が続々とベンチを後にする。6基の照明灯が徐々に消えていく。薄暗くなるにつれ、心の重荷はさらに増した。栗橋はなかなか立ち上がれなかった。

「なんとか腰を上げて、監督室に謝りに行った。手前にコーチがいて、奧に西本さんがいた。誰かが『監督、クリ来てますよ』と伝えたら、西本さんが『おー』って手を挙げてくれた。『すいませんでした』と頭を下げたけど、心は晴れなかった」

 翌日、日生球場の狭い通路で西本に遭遇してしまう。負い目を感じている栗橋は俯きながら、「おはようございます」と声を振り絞った。

「西本さんは何も言わなかったけど、すれ違う時にお尻をポンって叩いてくれてね。ああ、この人について行こうと思った。すごく温かみを感じた」

 西本監督を胴上げしたい――。栗橋は強く思った。〈つづく〉

※1 出典:1977年3月21日号/週刊ベースボール
※2 出典:1981年10月3日付/日刊スポーツ大阪版。「西本語録」より。1978年前期、天王山の対阪急戦を前に発言

文=岡野誠

photograph by JIJI PRESS