昨年の東京六大学野球、秋のリーグ戦。東大の最終戦の9回裏に188cm、109kgという一際目立つ東大の選手が代打として打席に入った。名前は佐藤有為(さとう・ゆうい)。彼にとって、この打席が4年間のリーグ戦、最初で最後の打席であった。彼がこの打席に至るまでは、数々の苦難とドラマがある。今回は、苦労人・佐藤有為の半生を紹介したい。【全2回の2回目/#1へ】
◆◆◆
「佐藤って全然打てねえじゃん」
偏差値40台から1浪して東大に合格した佐藤有為。彼が東大を目指したのは、野球部に入り、神宮球場のグラウンドで他大学の選手と対戦するためだ。
意気揚々と入部した佐藤だったが、早々に出鼻をくじかれた。受験勉強中は一切野球をしておらず、体重120kgまで膨れ上がった体は、思うように動かない。
「いざバッターボックスに立っても、ボールに目が慣れていないのでまったく打てない。ピッチャーが投げたボールがスーッと線を描くのではなく、ピッピッと点で見えるんですよ。なのに、体がデカいから目立つので、『こいつめっちゃ打ちそうだぞ』とみんなバッティング練習中に、寄ってくる。そして、『佐藤って全然打てねえじゃん』とつぶやきながら離れていくわけです」
守備はさらに困難を極めた。浪人中に息抜きでしていた筋トレでベンチプレスをしすぎたため、胸筋が邪魔になって腕が回らず、ボールが投げられないのだ。
一方で、同期の松岡泰希(東京都市大付)らは糸を引くような送球をしていたし、佐藤と同じく一浪したはずの中井徹哉(土浦一)は軽快な守備を見せていた。レベルの違いを目の当たりにした佐藤は、自分がレギュラーになれるとはその時点で微塵も思わなかったという。
監督から「お前ダメだな」
だが、ベンチに入れる希望すら持てず落ち込んでいた佐藤にも、春の東大野球部はチャンスをくれた。1年生のフレッシュリーグ(新人戦)で早くも打席に立ったのだ。
「当時の浜田一志監督が期待してくれて、試合に出してくれたんです。でも、打撃も守備も全然できず、監督から『お前ダメだな』って言われてしまった。浪人明け1カ月で打ったり守ったりできるわけないですよ。そんな選手を使う監督のほうが悪いじゃないかという気持ちでいっぱいでした」
アピールの機会を活かしきれず、その後、1年生の間はチャンスらしいチャンスもない日々が続き、佐藤は野球が嫌いと感じるほどに追い込まれていく。だがそれでも佐藤には、野球部を辞める選択肢はなかった。
「カッコ悪いっすよね。高2から2年間くらい予備校で勉強して、その間のお金も親に払ってもらったのに、周りのみんなが思ったより上手くて、自分が下手くそだから野球やめるだなんて、ダサいです。1年生と4年生の春が一番メンタル的に落ちた時期でしたが、そういうことを思いながらなんとか野球を続けていました」
「地元の友達と飲みに行くばかり…」
ただ、2年生になり出場した秋のフレッシュリーグでは、タイムリーを含む2安打を放つなど、打撃をアピール。これでリーグ戦にも出場できるかもしれない、そう思った佐藤は、1年生の頃とは違い、やる気に満ちていた。
東大は主力と控えのAチーム(一軍)とBチーム(二軍)に主に分かれる。ところが、3年生になっても、佐藤はBチームの試合にすら呼ばれない。バッティング練習中に7本の柵越えを見せつけて首脳陣に長打力をアピールしたこともあるが、それでも試合に出られなかった。オープン戦でチームがノーヒットノーランをやられそうな展開に陥ったときには、メンバー交代で声がかかるかと期待したが、まったくチャンスは回ってこない。
「どうしたら上手くなるんだろうと、出ない答えを探る日々でした。無力感に襲われ、練習が終わったら地元の友達と飲みにいくばかりでしたね。上司や職場の愚痴をこぼしながら飲むサラリーマンみたいな感じですよ。東大野球部員はドライなので、同期に相談するという雰囲気でもないんです。昔からの友達と飲んで下ネタやバカ話をする方が気が紛れました」
これまで話を聞いた東大野球部OBは、とにかく練習が好きというストイックな人物が多かったが、佐藤はそのようなOBとは毛色が違う。野球が好きで、そのためならどんな努力も厭わないし、練習も苦ではないというスーパーマンのような彼らと比較すると、佐藤の言動はかなり人間くさい。自分よりも上手い人間がいて、なかなかチャンスももらえないとなれば、酒をあおって愚痴のひとつでもいいたくなるのが普通の感覚であり、共感できる人も多いだろう。
なぜ4年秋に“初めてベンチ入り”できた?
「まったく練習していないわけではないですよ。ティーバッティングなどある程度はしていました。でも、そんな飲み歩く生活をしていたからでしょうね、4年の春になると練習試合でもまったく打てなくなったんです。体が動かないし、『最後の年だから結果を出さないと』と思えば思うほど、1球が大事になるのでバットが出ない。振って芯を外したら、その時点で終わりなんです。それまでもっと練習しなかった自分が悪いんですが、やはり結果は出ず、4年の春のリーグ戦でもベンチに入れませんでした。ここが野球嫌いのピークですね」
残るベンチ入りのチャンスは秋のリーグ戦しかない。秋リーグまでの3カ月間、代打として生き残りをかけるため、同期の学生コーチ奥田隆成(静岡)にバッティングの指導を仰いだという。
「ティーを打ちながら、ここの筋肉をもう少し意識して、という感じの理論的なバッティング指導を受けました。その結果、7月の練習試合で久々にヒットが打てたんです。夏の合宿で行われたうちのピッチャーとの対戦では、ツーベースとセンター前ヒット、8月の双青戦(京都大学との定期戦)でもヒットを打てて、調子が上向いてきました。その甲斐あってか、ようやく秋のリーグ戦の1回戦、明治戦でベンチ入りできました」
4年間、ときには腐りながらもやっと果たしたベンチ入り。あとは、代打として悲願のリーグ戦のバッターボックスに立つのみだが、野球の神様はその機会をなかなか与えてはくれない。
「東大では過去のデータなどから、相手ピッチャーごとに相性のいい代打の優先順位の表、通称『代打早見表』が作られます。例えば、明治の〇〇がピッチャーなら1番手の代打は△△、2番手は佐藤みたいな感じです。でも、ベンチ入りした試合では、僕と相性の良いピッチャーが投げなかった。逆にベンチ入りしていないときに、そのピッチャーが投げる。僕がベンチに入ったときは東大のピッチャーが好投して代打を出せないという試合も多かったです」
大学4年間の最終試合、9回裏「自分、行っていいすか」
4年間のくすぶりを抱えた佐藤にとっては、なんとも歯がゆい時間であった。結局、佐藤がバッターボックスに立つことがないまま、東大野球部は秋の最終試合である法政戦を迎えてしまう。その試合、佐藤はベンチに入っていた。
「試合前に代打早見表を見たのですが、そこに自分と相性がいい投手がいませんでした。でも、その表には法政のベンチに入っていた同期の石田旭昇というピッチャーが載っていませんでした。彼は調子が悪くて、秋リーグでここまで投げていなかったので、東大はノーマークだったんでしょうね。でも、2年生のフレッシュリーグでのタイムリーは、彼から打ったもので、僕にとっては相性がいい投手だったんです。そこで、学生コーチに『石田が表に載ってないけど、あいつが投げたら俺を代打の1番手にしてくれ』と直談判しました。人生最後の頼みごとかもしれない、くらいの意気込みでしたね。もちろん、石田が投げる可能性は極めて低かったと思います」
試合は5対0と法政リードで9回裏、東大の攻撃を迎える。石田以外の投手では、佐藤の出るチャンスはほとんどなかったが、その回からリリーフとして登板したのが石田であった。
「自分、行っていいすか」
そう佐藤が言うと、井手峻東大監督はすかさず主審へ代打を告げた。リーグ戦の神宮球場に初めて佐藤の名前がコールされる。決して思い出作りや温情での出場ではなく、佐藤が自分自身で引き寄せた出場だ。188cm、109kgの大きな体躯を揺らし、佐藤が左バッターボックスに入る。
しかし、そんな佐藤の大きなストライクゾーンに石田のボールは入ってこない。3球ボールが続き、4球目も低めに逸れる。佐藤の最初で最後の打席は一度もバットを振ることなく、4連続ボールでのフォアボールとなったのだ。
「最初で最後のチャンス」涙が浮かんでいた
フォアボールが宣告され、一塁へ向かう佐藤は小さくガッツポーズを作る。代走を出された佐藤はそのままベンチに戻ったが、その目には涙が浮かんでいた。
「法政のピッチャーが石田で、キャッチャーが是澤涼輔。これはあのタイムリーを打ったフレッシュリーグとまったく同じだったんです。運命なのかなって思いましたね。もちろん、振ってヒットが打てたら良かったと思いますけど、ちょうどよかったんじゃないですかね。フォアボールで」
ちょうどよかった、とはどういう意味なのか。
「東大野球部らしく、自分を犠牲にして、最後フォアボールを選んだっていうのがちょうどいいというか。僕は練習が終わった後に、地元の友達と飲みに行って愚痴を垂れるような東大野球部らしくない人間なのに、最後に東大野球部らしく終われて、よかったなって思ったんです」
もちろん、なんとかヒットを打って終わりたい、と葛藤した瞬間もあったという。しかし、佐藤は「それはダサい」と打席の中で切り捨てた。
「ちょっとくらいボール球でもいいから振っちゃえという、悪魔のささやきはありましたが、スリーボールになった時点でその考えは完全に捨てて、フォアボールを選んだ方がチームのためだなと考えました。そもそも、甲子園経験者に勝ちたいと思って東大に入ったのに、勝つための最善策を選ばず、ヒットを打ちたいという自分の欲を優先するってダサいっすよね。仮にヒットを打ったとしても、そのときはかっこいいですけど、5点差で、ノーアウト、ノースリーの場面で、パッと振るような人は、長い目で見ればダサい人間だと思います」
野球部を辞めなかったのも「ダサい」から。ダサくない道を選ぶことが、佐藤の人生哲学なのだろう。そこには彼の芯の強さが窺える。
9回裏に最初で最後のチャンスをくれたものの、打席の中で人間を試すような展開を用意した野球の神様はなんと意地悪か。
「でも、あの涙はなんなんでしょうね…」
そして、佐藤はガッツポーズと涙のワケをこう話した。
「不思議に、自然にガッツポーズがでましたね。なんでフォアボールなんだよという気持ちもありつつ、ノーアウト1塁を作れたことが嬉しかったんだと思います。ベンチに帰るとみんな歓迎してくれたんですが、正直泣いてたんで、なんて声をかけられたかは覚えていません。でも、あの涙はなんなんでしょうね。おそらく、受験勉強や練習、なかなか上達しない悔しさなど色々な過程が走馬灯のように思い出されたんだと思います。ドライだとか、嫌いだとか言いつつ、やはり野球部に愛着があったんだと思います。起きている時間の半分は東大野球部にいましたから」
佐藤のフォアボールをきっかけに東大は2アウト満塁まで攻めるが、力及ばず5対0のまま法政に敗れた。
卒業後はコンサル系へ就職
現在、佐藤はコンサル系の会社へ就職している。4年の春までベンチに入れず、ようやく掴んだ打席もわずか1つ。耐え難きを耐えた野球部生活は、社会人にどうつながっているのだろうか。
「打撃に特化した練習をしていて、色々と試行錯誤した経験は仕事にも通じるのかなと思います。打てない原因を探って、修正していくという過程ですね。ただ正直、東進ハイスクールのチューターのアルバイト経験のほうがビジネス的には役に立つかなと思います(笑)。チューターをやっていると、東大生よりもビジネスマン的な優秀さを持った他大学の学生を結構目にするんですよ。勉強も運動もトップクラスだという自負が東大野球部にあるのは事実ですが、それに慢心してはいけないなと今は感じています」
東大野球部を通じて得たものは何かと問われても、佐藤は黙り込んで考えてしまう。
「東大野球部での日々は人生で最も精神的にキツかったですが、多分これから社会に出たらそれを凌駕する何かが絶対にある。そういう感覚があるなかで、東大野球部でこれを得ました、と胸を張って言えるものは今はないんです。すみません、記事に使いづらいコメントで……」
偏差値40台から這い上がり、野球部でも何度も挫折を味わったからこそ、この謙虚さと冷静さ、そして正直さがあるように筆者は感じた。
東大野球部に入り、野球が嫌いになったという佐藤だが、今は野球が好きなのか。
「好きですが……、しばらく距離を置きたい存在です。特に最後4年生のベンチ入りがかかっている打席の緊張感は思い出すのも嫌ですね。ただ、数年したら気楽に草野球でも始めたいと思います」
東大野球部に限らず、どんな世界でも華々しい経歴や成績にフォーカスが当てられがちだが、それはほんの一部のメンバーでしかない。100人を越える東大野球部には、佐藤のようにベンチ入りを目指して、もがいている選手がひしめいているのだ。佐藤の姿は、そのような東大の後輩だけではなく、全国のレギュラーになれない選手たちを鼓舞するに違いない。
<前編から続く>
文=沼澤典史