チームやファンの中に少なからずあった喪失感に似た感情を埋めたのは、ふてぶてしさすら感じる投手だった。

 開幕から中継ぎが課題とされた広島は今、守護神として中継ぎ陣を支えてきた栗林良吏を欠く。わずか2年で絶対的守護神となった右腕は5月1日、「右内転筋筋挫傷」によって戦列を離脱。開幕から奮闘を続けていた中継ぎ陣がぐらついても不思議ではない状況で、代役を担ったのは矢崎拓也だった。

 僅差の9回を締めくくる役割は、務めた投手にしか分からない苦しさ、難しさがある。さらに、昨季までほぼ失敗がなかった栗林と比べられもする。

 周囲が期待と不安の入り交じる感情を抱く中、当の本人、矢崎は疑いたくなるほど冷静だった。

「この展開で(マウンドに)上がったらどんな感情になるんだろうって、思ってたら、“へぇ、こんな感じなのか”というくらい。もっとうわぁっとなるのかなと思っていたら、普通でしたね」

 昨季途中からセットアッパーに定着した矢崎だが、新たなポジションに重圧を感じている様子はない。

栗林の代わりになれるわけがない

 5月9日の中日戦、初めてセーブがつく9回のマウンドを託された。スコアは1-0。2投手が無失点でつないできたバトンを受け取り、表情ひとつ変えずに長良川球場の荒れたマウンドに立った。

 中日打線の中で売り出し中の新人・福永裕基を力で遊ゴロに打ち取ると、ダヤン・ビシエドにはフォークを多投した。初球のファウルにこの日のフォークなら打たれないと覚悟を決め、5球続けてバットに空を切らせた。最後は木下拓哉を直球で空振り三振で締めた。

「僕は栗林じゃないので、栗林の代わりになれるわけがないし、栗林の代わりになってくれと期待されてマウンドに上がっているわけじゃない。『僕がやるべきことをやればチームのためになる』と思われているんじゃないかと考えて(マウンドに)上がっている」

 外的要因には左右されない。「意識しない」という考えでもない。「意識しない」は意識しないように「意識している」ことになるからだ。立場や状況が変わっても、ここまで歩んできた自分を表現するのみ。強がりでも、虚勢でもない。セットアッパーからストッパーとなって試合の最後を締めても、相変わらずガッツポーズも叫び声を上げることもしない。矢崎は矢崎のまま。そんな姿が頼もしい。

 2度目のセーブシチュエーションは異様な空気の中での登板となった。

 5月16日DeNA戦。広島は米大リーグでサイ・ヤング賞を受賞したトレバー・バウアーから、序盤2回までに7得点と大量リードを奪っていた。だが終盤に2点差まで詰め寄られ、序盤にはなかった緊張感が一気に押し寄せていた。

 場所はDeNAの本拠地、横浜スタジアム。スタンドのボルテージは上がり、大歓声とともに青い波が大きく揺れていた。

 広島の9回表の攻撃が三者凡退に終わると、熱気はさらに高まった。どちらがリードしているのか分からなくなるような空気の中、矢崎は左翼ブルペンから出てきた。

「リリーフカーですか? 乗ったことありません。乗ったことがないから分からないんですけど、地面から足が浮いた状態でマウンドまで着いて、そこからまた地面に付く感じが嫌なので」

おお、こんなに声援デカいんだ

 地面を踏みしめるようにゆっくりと歩を進める。昨年よりも大きくなった胸周りを見せつけるように。その姿はアウェーであることも相まって、ラスボス感満載だった。

「追い上げムードの感じで9回に行くのが初めてだったので、どんな雰囲気なんだと思って上がりました。おお、こんなに声援デカいんだと」

 DeNAファンの願いを込めた大声援は、もちろん耳に入っていた。ただ、心と頭は冷静に。先頭の佐野恵太をフルカウントからストライクゾーンへのフォークで二ゴロに打ち取り、ネフタリ・ソトの強いライナーは三塁マット・デビッドソンの好捕に助けられた。

 フルカウントから宮崎敏郎を四球で歩かせ、4番・牧秀悟を打席に迎えた。昨季、広島戦で7本塁打、打率.340、19打点の天敵だ。

 一発が出れば同点。この空気の中、スタンドを巻き込んだ「デスターシャ」が炸裂すれば、広島は完全にのみ込まれる……。

「一発で同点ですが、投げた球が本塁打になるかどうかは、自分では決められない。しっかり集中して投げるだけ。あそこは盗塁されてもいいから、打者に集中しました」

 初球フォークを見極められるも、続く真っすぐは牧のバットを押し込んだ。一塁側ファウルゾーンに上がった力ない飛球は大きなため息とともに、ライアン・マクブルームのグラブに落ちていった。

 大きく揺れた青い荒波を静めても、マウンドの背番号41は大きく息を吐くだけで、感情を表に出すことはなかった。

「僕はあまり自分に期待しないんです。でも周りからは、今年は多少期待されている。期待しないでくれよと思ったんですけど。『期待しないで』というのは僕の期待になる。期待されることもありがたく自分の力に変えられればいいかなと。力に変えるのは僕にしかできないので、すべておいしくいただけたらいいなと思っている感じです」

 変わっていく周囲との向き合い方も、またそれを表現する言葉もまた、矢崎らしいオリジナリティに富んでいる。

 今年で7年目も、1年目のプロ初登板初勝利の輝きから5年は、スポットライトを浴びることがなかった。2年目の2018年は一軍登板なし。19年からも一桁登板が続き、働き場所は二軍が主だった。初めて開幕一軍入りした昨季は、シーズン途中からセットアッパーに定着するなど47試合を任された。

 期待されない存在から、期待される存在となった。左脇腹痛で出遅れた今季、その期待はさらに大きくなった。大きくなればなるほど重圧となり、応えられなければ失望に変わる。

そこに立っている時点で褒美かな

 ただ、光のない道を歩んできた矢崎だからこそ、まぶしいほどの舞台でも、自分のままでいられるのかもしれない。

「みんなは勝つことが喜びだと思う。僕ももちろんうれしいですけど、抑えられたことだけでなく、あの場に立つこと自体ありがたい。結果が出ているときと比べたら、結果が出ていないことがすごく嫌なことのように感じますけど、そもそも思い返せば、そこに立っている時点で褒美かなと」

 過去があるから今がある。挫折や苦労ばかりの過去と向き合っているからこそ、強烈なアイデンティティーを放っている。栗林が帰ってくる近い未来、ポジションを再びセットアッパーに移すことになるだろう。それでもきっと矢崎は変わらない。そして今、クローザーとして過ごす経験が彼の未来をつくっていく。

文=前原淳

photograph by KYODO