パリ五輪世代連続インタビュー。今回はドイツのデュッセルドルフに所属する内野貴史に話を聞いた。高校卒業後に即ヨーロッパに渡り、研鑽に励む22歳のサイドバックはいかにして大岩剛監督率いる世代別代表とクラブで存在感を放とうとしているのか。《全2回の2回目/前編からつづく》

 オリンピックにおける男子サッカーは、3人のオーバーエイジを除いて23歳以下という年齢制限がある。

 2001年3月生まれの内野貴史は、パリ五輪が開催される24年に23歳となるから出場資格を有しているが、年代別代表とは縁がなかったから、オリンピック出場をさほど意識してきたわけではない。

 それよりもドイツでの激しい生存競争に打ち勝ち、プロ契約を掴むことのほうがはるかに重要だった。

碧くんの東京五輪の活躍に、自分も

 だが、フォルトゥナ・デュッセルドルフIIに加入した21年夏、内野に五輪出場を強く意識させることになる人物と出会う。

 ほぼ同時期にデュッセルドルフのトップチームに加入した田中碧である。

「身近な存在となった碧くんが東京五輪で活躍した。僕も(準決勝の)スペイン戦はここ(クラブ事務所)で見ていて、オリンピックのサッカーって凄いんだな、自分も出たいなって。次のオリンピックが自分の代ということは知っていたんで、そこで初めて、チャンスがあるんだったら目指さない理由はないなって思ったんです」

 その約7カ月後の22年3月、サプライズではあったものの念願どおり、パリ五輪を目指す大岩ジャパンの立ち上げメンバーに選出された内野にとって、自信を膨らませるきっかけとなったのが、6月の代表活動だった。

 ウズベキスタンで開催されたU23アジアカップに参戦した内野は、右サイドバックとして先発したUAEとの初戦でいきなり2ゴールに絡む活躍を見せると、右サイドハーフや左サイドバックまでこなし、チームの3位という成績に大きく貢献するのである。

A代表の海外組と一緒に自主トレをして…

 その活躍の背景には、大会前に行った自主トレの効果があった。

「ヨーロッパのシーズンが終わったばかりだったので、(同じく代表活動を控えていた)A代表の海外組の人たちと幕張で自主トレをしたんです。そこで、俺、A代表に呼ばれたのかなって錯覚を起こすような感じがあって(笑)」

 一緒にトレーニングをしたメンバーは、吉田麻也、原口元気、伊東純也、古橋亨梧、守田英正、板倉滉、前田大然、堂安律、伊藤洋輝……といった顔ぶれである。夢見心地になるのも無理はない。

 だが、ただ高揚感を覚えただけではなかった。

「まだまだ足りないなって痛感しましたけど、ちょっと通用した部分もあって自信が付いたというか。高いレベル、高い強度のなかでやらせてもらってコンディションを保つことができたし、メンタル的にも充実できたんですよね。A代表の人たちと自分の距離を測ることができて、自分も頑張れば将来、A代表になれるんじゃないかって。だから、すごくいいメンタルでウズベキスタンに行けたんです」

 その夏、内野はたしかに天に向かって伸びる階段を駆け上がっていた。階段は、デュッセルドルフのトップチーム定着やパリ五輪代表定着、将来のA代表選出へと続くはずだった。

あれを二度と経験できなくなってしまう。それは嫌だな

 だが、勢いがつきすぎたのか、その階段を踏み外してしまう。

 22-23シーズンのドイツ2部リーグ開幕戦となったマクデブルク対デュッセルドルフ戦で途中出場を果たしたものの、その後のトレーニング中に左足首の前脛腓靭帯を断裂し、長期離脱を余儀なくされるのだ。

「アジアカップが終わってからも調子が良くて、開幕戦でも途中から出て、これからっていうときに……。それまで手術をしたこともなかったし、大きなケガは初めてだったから、かなり辛かったですね。練習すらできないもどかしさを感じて」

 サッカー中継を観るのも嫌な時期があったというほど精神的ダメージを負った内野を支えたのは、ほんの2カ月ほど前に味わった高揚感だった。

「アジアカップで日の丸を背負ってプレーしたとき、これがサッカーだよなってすごく昂ったんですよね。あの誇らしい気持ちが心の中にずっとあって。ここで腐っていたら、あれを二度と経験できなくなってしまう。それは嫌だなって。そういう気持ちをモチベーションにして、リハビリに努めていましたね」

トップチーム昇格と、セカンドチームが主戦場の現状

 田中に励まされながら、スイスやイタリアと戦ったU-21日本代表に刺激を受けながら、復帰に向けて歩んでいた内野に22年10月、嬉しいオファーが届く。

 まだ負傷が完治していないにもかかわらず、正式にトップチーム昇格を告げられたのだ。内野にとって待望のプロ契約だった。

「ようやく自分もプロになれたんだなって。本当に嬉しかったですね」

 もっとも、トップチーム昇格を果たしたとはいえ、主戦場は依然としてセカンドチームだ。

 かつてドイツ代表としてU-17ワールドカップに出場した右サイドバック、マティアス・ツィンマーマンの牙城を崩せず、ベンチウォーマーに甘んじるゲームが少なくない。

「試合に出られない若い選手は、監督からU-23(デュッセルドルフII)の試合への出場を打診されるんです。レベルが高くないから断る選手もいるんですけど、僕は積極的に出るようにしています。ただ、毎週あるわけでもないので……」

 積み上げてきたものが崩れるのは一瞬である。アスリートにとっての自信も、同じことが言えるだろう。内野が22年6月に膨らませた自信は、負傷とその後の実戦経験の少なさによってしぼみつつあった。

鈴木唯人とは毎晩のように電話で「サッカーの話」

 そうした現実を痛感させられたのが、U23アジアカップ以来の代表復帰となった3月24日のドイツ戦だった。かつてU-19やU-23時代に対戦し、当時は「全然やれるな」と感じていたアンスガー・クナウフとのマッチアップで、現実を突きつけられるのだ。

「ドイツ戦ということで待ちに待ったゲームだったんですけど、正直、体力が持つかなっていう不安もあった。あの強度で戦うことに慣れている選手と、久しぶりにあの強度でやる選手の差がモロに出てしまって。戦っているステージも違うし、随分差を広げられてしまったなって、試合後は落ち込みました。続く(3月27日の)ベルギー戦は2試合目ということもあって、戻ってくる感覚がありましたけどね」

 大岩ジャパンには内野のほかにも、斉藤光毅(スパルタ・ロッテルダム)、田中聡(コルトレイク)、小久保玲央ブライアン(ベンフィカ)など欧州でプレーする選手がいる。その中のひとり、フランスのストラスブールに所属する鈴木唯人とは毎晩のように電話をする仲だ。

「ほぼサッカーの話です。お互いの状況を語り合って、試合に出られないときってどうするのが正解なんだろうなって。そういうとき、碧くんは自分の気が済むまでトレーニングすると言っていて、(板倉)滉くんだったら、ちょっとサッカーのことを忘れてリラックスすると。人によって違うから、(鈴木とチームメイトの)川島(永嗣)さんにも聞いてみてよって」

田中碧は「いつも親身になって話を聞いてくれる」

 するとその晩、さっそく鈴木から電話があった。

「『コツコツ積み上げていくことが大事。一喜一憂するな』と言ってたぞって。気持ちを切らさずやり続けられる。やっぱりそこなんだろうなって」

 鈴木にとって頼れる存在が川島なら、内野にとって大きいのが田中の存在である。

 川崎フロンターレでのプロ1、2年目にほとんど試合に出られなかった経験を持つ田中は、内野の道標となる最高のお手本だ。

「僕が『こうしたいと思っているんですけど、こういうデメリットもありますよね?』って相談すると、『分かるわ、俺も迷った時期あったわ』っていう感じでいつも親身になって話を聞いてくれる。『1回忘れろよ』と落ち着かせてくれるときもあれば、『一緒にやろうぜ』って奮い立たせてくれるときもあるんです」

 18歳で海を渡った内野も22歳となり、若手と呼ばれる立場ではなくなりつつある。思うように試合に出られない現状にあって、内野は今、ひとつの答えを見出している。

「選手は監督に、自分はこういうパフォーマンスでチームに貢献できますよ、って提示できるかどうかだと思っていて。この選手によってチームにこういう力が加わると分かれば、監督も起用しやすいじゃないですか。ツィンマーマンは守備の1対1がすごく強いので、自分もそのレベルになったうえで、攻撃面でアシストもできますよっていうストロングを作れたら、監督は不安なく自分を起用してくれると思うんです。違いを出せる選手になることを意識して今、やっています」

憧れの気持ちで見ていちゃいけないよなって

 昨冬に開催されたカタールW杯は、田中が出場していたこともあって日本代表がより身近に感じられた。

 そして、憧れた。新しい景色を見るために列強に立ち向かっていく男たちに――。

 だが、思い焦がれている場合ではないことも分かっている。

「憧れの気持ちで見ていちゃいけないよなって。それこそ同じ年の久保建英はあの場にいたわけなので。そうした複雑な思いは、自分があの場に立つ以外、解消されない。だから、絶対にパリ五輪に出て、26年のW杯出場を目指したい」

 それが、渡欧5年目を迎えた22歳の内野貴史が思い描く未来予想図である。

<#1につづく>

文=飯尾篤史

photograph by Boris Streubel/Getty Images