藤井聡太竜王が快進撃を見せる中で、2023年初頭に王将戦挑戦者となった羽生善治九段が互角に戦う名勝負を見せた。NHKで羽生九段を中心に追った王将戦特集番組『NHKスペシャル 羽生善治 52歳の格闘 〜藤井聡太との七番勝負〜』を制作したスタッフに、肌で感じ取った名局と人間性を聞いた〈全3回の1回目/#2、#3も/棋士の段位、敬称などは初出以降省略〉

 やはり通算タイトル99期、永世七冠の実績は伊達ではなかった。

 2022〜2023年度にかけて、羽生善治九段が将棋界のトップオブトップで存在感を見せている。王将戦挑戦者決定リーグ戦を全勝で勝ち上がり、藤井聡太王将(20=竜王、王位、棋王、棋聖、叡王と六冠)との名局を繰り広げた。5月18日に行われた佐々木大地七段との王位戦挑戦者決定戦に敗れ、2度目となる「藤井ー羽生」のタイトル戦はお預けとなった。

 とはいえ“非公認”ながら棋士の強さを測る指標となる「shogidata.info」のレーティングでは、5月26日時点で「1838」。藤井の「2067」がズバ抜けているとはいえ、永瀬拓矢王座(1887)、豊島将之九段(1885)、渡辺明名人(1850)、広瀬章人八段(1841)、佐々木大地七段(1825)、菅井竜也八段(1814)、斎藤慎太郎八段(1810)と20〜30代の棋士に交じって、52歳の羽生がこれだけの数字を叩き出していることは、驚異の何物でもないだろう。

 王将戦を終えたタイミングの4月15日、NHKで放映された『NHKスペシャル 羽生善治 52歳の格闘 〜藤井聡太との七番勝負〜』が話題になった。羽生のロングインタビューを交えながら、当代きっての天才である藤井に対して、いかにして挑んだかを丁寧に描いた映像記録だった。

 2021年度が14勝24敗――そもそもプロデビューした1985年以降、初の負け越しなのが凄まじいのだが――だったことを踏まえて、羽生が絶対王者となった藤井に挑む構図を見て“復活”の文字を思い浮かべる人は多かったのかもしれない。

今の子供たちが藤井将棋に憧れるように、羽生さんに

 しかし羽生を、かつては棋士の卵、現在はTVディレクターとして長年追っていた人物にとっては、少し違う見立てのようだ。

「ちょうど将棋を覚えたのは9歳の時でした。当時、羽生さんが七冠を獲得するなど将棋界を駆け上がっている……まさに今の藤井聡太さんのような状況で、それを見て〈こんなにかっこいい人がいるんだ〉と思って、将棋を覚えたのがきっかけですね」

 このように話し始めたのは、この番組を担当した田嶋尉氏である。藤井将棋を見て将棋を始めたという少年少女が増えたと聞くが――それと同じように、1990年代の羽生将棋に感銘を受けて将棋を始めた田嶋は、2010年まで奨励会に在籍していた。

「奨励会時代は、羽生さんの記録係を数多くやっていたんです。それこそ2000年代、森内(俊之)さんと名人戦を戦われていた頃などです」

 棋士を目指す一人として間近で羽生を注視してきた田嶋だったが、番組の作り手に転身した。田嶋は奨励会を退会して以降、テレビ番組の制作会社に入って『将棋フォーカス』などの番組に携わっており、ABEMAでも第81期名人戦第6局1日目、対局室紹介レポートを担当していた。

 その中でも主だった仕事は、奨励会時代の経験を生かして戦形や手筋などの講座をディレクションするものだった。そういった仕事をしている中で2018年夏、1つの出会いがめぐってくる。

 そこから、羽生善治を違うアプローチで追うことになる。

AIとの向き合い方、そして羽生という棋士の存在

「将棋のプロ一歩手前を経験した人で、今はテレビ番組を作っている人がいるよと聞いて、声をかけたんです」

 こう語るのは、番組の制作統括・小堺正記氏である。そもそも小堺は将棋好きで、かなり親しんでいたそうだが「自分が将棋番組を作るのは、趣味を仕事にしているような照れくささもあったんです」とのことで、自らの中に一線を引いていたという。その中で羽生との出会いが生まれたのは、2010年のことだった。『クローズアップ現代』で有吉道夫九段(2022年9月に逝去)の現役最後の日々を追った際、スタジオのゲストとして招いたのが羽生だった。

「そこから羽生さんとの付き合いが始まったんですが、さらに大きかったのは2012年に同じ番組で将棋電王戦を取り上げたことです。当時の米長邦雄会長とボンクラーズが対戦して、米長会長の最初から入玉を目指すような戦いを目の当たりにした時に……」

 2023年の今、将棋の対局中継でAI評価値が表示されるのは当たり前の時代になった。しかし当時の世間的な興味は「人間とAI、どちらの将棋が強いのか」という評価軸だった。その戦いにあって、米長の必死に勝利の糸を手繰り寄せようとする姿勢に、小堺は「これは何かすごいことが起こるのでは」と感じたという。その後も2014年に電王戦の特集番組を作るなど「AIとの向き合い方、人間のこれからの働き方にも通じてくる最先端が将棋そのものなのでは」と問題意識を感じていた。

将棋を知らない一般の人にも興味を持ってもらうために

 その中で小堺は2015年、羽生とチェスの元世界チャンピオンであるガルリ・カスパロフ氏との対談番組を担当した。「そのあたりから羽生さんがAIについてどう考えているかなどを聞くことができた」こともあり、AIに向き合う天才棋士という視点に深く興味を持つことになった。

「そのタイミングで、田嶋さんに声をかけたわけです」

 とはいえ、田嶋は将棋の専門性を強みとしていて、もともとドキュメンタリー番組の経験がなかった人物である。「今までは将棋ファンにアプローチする番組作りをしてきましたが、将棋について何も知らない一般の方にも興味を持ってもらうために色々と学ぶことがありました」と語るように、手探りの期間が続いた。その中でまず2018年に放送されたのが「羽生善治とAI世代 〜絶対王者に挑んだ若手棋士たち〜」、その後2021年に放映されたのが『羽生善治〜天才棋士 50歳の苦闘〜』という番組だった。

レジェンドが藤井から「学べるチャンス」と考えていた

 2人が羽生を追い始めてからの数年間で、将棋界における構図と序列は変容していた。羽生は2017年に前人未到の「永世七冠」を達成したものの、20〜30代棋士の台頭により、2018年には27年ぶりとなる無冠となった。番組でも取り上げられた竜王戦では、挑戦者として豊島将之竜王(当時)に挑む立場だった。

 この番組では、コロナ禍の中で行われた羽生と木村一基九段のオンライン研究会――今年放映された『羽生善治 52歳の格闘』でもその一部が流れた――の様子を放映するなど、トップ棋士として君臨し続けた羽生がいかに最先端の将棋と向き合うかを描いていた。その中で、小堺の心に刻まれた羽生の言葉があった。

「羽生さんが『これからは藤井さんに学ばなければいけない』と言っていたのが、物凄く耳に残っているんです。将棋界の歴史に残る大棋士、レジェンドが『学べるチャンス』と考えていたんです」

 もしこの2人がタイトル戦で相まみえる機会が来るのならば……。

 小堺はそんな思いを心に秘めていた。そんな中で2022年秋から始まった王将戦挑戦者決定リーグ戦、羽生がタイトル経験者を次々と撃破する快進撃で7戦全勝。藤井との初タイトル戦が実現する。そしてほどなく、『NHKスペシャル』として取り上げることが決まった。

“この王将戦は名勝負になる”予感がした瞬間

 将棋界が誇る2大スターの激突。前夜祭から新聞だけでなく、地元テレビ局やワイドショーを含めたカメラクルーが数多く並ぶなど盛り上がりを見せていた。当初は“藤井王将が一気に勝つのでは”との見立てもあった。番組作りのシミュレーションとして“第4、5局までで決着”したケースも念頭に置く必要があったという。実際、番組の冒頭でも〈下馬評では藤井の圧勝〉という表現を使っていた。

 しかしそんな杞憂を、羽生の指し回しが吹き飛ばした。小堺は静岡・掛川で開催された開幕局をこう回想する。

「負けこそしましたが、第1局から“羽生さん、調子がとても良さそうだな”と感じるほどの意欲的な指し方をしていたんです。すると第2局では競り合いを制した。この辺りから“この王将戦は名勝負になる”という予感があって、番組作りも王将戦の対局にフォーカスしていく構成に変えたんです」

 各局の戦型と展開を分かりやすく、丁寧に説明していくとともに、その時に羽生が何を考えていたのか。そこをインタビューで焦点を当てていくスタイルで番組は進んでいった。そして田嶋と小堺は、インタビューする立場として羽生と向き合った。

羽生さんはずっとミステリアスなんですよ

 印象深いのは、田嶋の言葉である。かつては記録係として、現在は番組担当ディレクターとして羽生と間近に、そして長時間にわたって接する存在として、どのように人間性を捉えていたのだろうか。

「やっぱり……羽生さんはずっとミステリアスなんですよ。いい意味で“何を考えているのか、こちらが読めない”んです。たとえばインタビューをすると、意図した答えが返ってこないことがある。小堺さんが違うアプローチで聞くと、また同じ答えが返ってくる場合は、“その質問には答えないでおきます”ということなのかな、と(笑)。

 記録係として対局を見ていた時も、羽生さんは物凄く集中して考えているんです。でも、ふと『あっ、ああ……そうか』『んーっ……』と何かに気づいたのか、声を出すことがあるんです。その辺りのリズムはやはり、他の棋士の方々とは違うのかも、とずっと思っています」

 羽生は盤上を離れると“ウサギ好き”な一面だったり、今回の王将戦でも「勝者の記念撮影」でのサービスショットに気兼ねなく応じるなど、親しみやすいキャラクターも数多くのファンを惹きつける要素だ。ただそれ以上に、将棋に向かう際の超然とした姿こそ、羽生が放つ強烈な引力なのである。

「例えば、5年前に聞いたインタビューでも、そういったことがあったんです」

 田嶋は記憶を再び辿り始めた。<#2につづく>

文=茂野聡士

photograph by NHK