将棋の藤井聡太竜王(20歳)が6月1日、史上最年少で名人のタイトルを奪取し、七冠を達成した。これは27年前、1996年に羽生善治九段(52歳)が七冠独占して以来となる(※現在はタイトルが8つある)。

羽生善治は七冠挑戦中の1995年7月、“朝ドラヒロイン”の畠田理恵との婚約を発表し、世間をあっと驚かせた。そして、「結婚したら弱くなるのでは?」という声もあるなか、結婚式までに七冠を制覇する。【全3回の3回目/#1、#2へ】

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「彼女はいるの?」「結婚したら弱くなるのでは?」

 いまでは若い棋士に恋愛について訊くのは、セクハラになりかねないという配慮もあってか、インタビューでも話題にされることは少ない。だが、20代だった羽生は取材のたび、彼女はいるのかという質問を容赦なくぶつけられた。五冠目となる名人を獲得した直後、とある週刊誌のインタビューでも、例によってガールフレンドはいるかと訊かれ、《いや、いません。結婚も考えたことはないし》と答えると、《まあ、私が将棋に負けてばかりということになったら、恋人ができたと考えてください(笑い)》とかわしてみせた(『週刊ポスト』1994年7月1日号)。

 当時、評論家たちのあいだでは、羽生の強さは若いうちだけで、これが結婚し子供を儲けて将棋のみに集中できなくなれば、意外にもろいのではないか、ともささやかれていた。くだんの羽生の発言はそれを念頭に置いてのものだったのだろう。

 そんな周囲の勘繰りをよそに、羽生は六冠を防衛しながら再び王将に挑戦しようとしていた1995年7月に婚約を発表、その7カ月後に七冠を達成した直後、3月に挙式している。しかも、その相手というのが、NHKの朝ドラでヒロイン(1990〜91年放送の『京、ふたり』)を演じた経験も持つ女優の畠田理恵とあって、世間を驚かせた。

2人の出会いは?

 七冠達成後に『文藝春秋』に羽生が寄せた手記では、彼女との馴れ初めから交際へと発展し、プロポーズするまでの経緯が(相手が芸能人ということもあるのだろうが)かなり事細かにつづられている。それによれば、2人の出会いは1993年9月、健康雑誌で畠田の持っていた対談ページに羽生がゲストとして登場したときだった。その対談では毎号、畠田が自分の会いたい人を選んでおり、このときは当初、彼女が動物好きなので作家の畑正憲を招く予定が、畑が入院してしまったため、編集者が「名前が似てるから羽生さんにしよう」と提案したという。もっとも、畠田はこのときまで羽生の苗字をハニュウと読んでいたというから、ちょっとこの話は疑わしい。

 肝心の対談も、羽生が前日にタイトル戦があって疲れていたため、1時間くらい話をしただけだった。ただ、彼女は、棋士だからきっと芸術家っぽくてエキセントリックな人だろうと思っていたのが、意外と明るい印象を受けたという(『éf』1995年11月号)。

 その後、羽生の同僚である森下卓が2度ほど食事の席を設けてくれたおかげで、2人は連絡先を交換し、羽生のほうから畠田をデートに誘うようになったようだ。デートを重ねるうち、互いに結婚も意識し始める。それでも羽生は、棋士というのは先の見えない職業だから将来の保証はできないと彼女に念を押した。また、今後は将棋界での公的な仕事も増えると見越して、結婚したら彼女には仕事をやめてサポートに回ってほしいと長時間話し合い、理解してもらったという。

谷川浩司「羽生さんは、ちょっと違う」

 こうして婚約を発表すると、例によって「結婚したら弱くなるのでは」ともささやかれたが、それも七冠制覇で吹き飛んだ。もっとも、当の羽生は《結婚して弱くなる人はきっともとから弱いんですよ(笑)。私にとって結婚は普通の節目のひとつです》と、まったく意に介さなかった(『文藝春秋』1996年4月号)。とはいえ、谷川浩司から王将を奪った対局中には《彼女にはいつも電話をしていました。彼女との会話が大きな支えになっていたのです。将棋のルールも知らない人ですが、本当に心の支えとなってくれました》とも明かしている(『週刊文春』1996年3月7日号)。七冠を成し遂げた5日後には、畠田が東京駅で暴漢に襲われて入院するという事件もあり、羽生は衝撃を受けたが、結婚式は無事、翌月に挙げるにいたった。

 大勝負を続けるなかで婚約を発表し、マスコミから追いかけられながらも七冠を達成した羽生には、先輩棋士たちも驚くばかりだった。なかでも七冠を許した当人である谷川浩司は、このときの羽生のマスコミからのもてはやされ方に、いままでの棋士にはなかったことだと思うとともに、「羽生さんは、ちょっと違うんだな」と感慨を抱いた。

《七冠制覇をやり遂げることだけでもものすごくエネルギーを使うのに、このたいへんな時期に婚約して結婚する。あれだけのマスコミの注視の中で、いとも軽々とやっているように見えた。/「ちょっと、違う」は、私と違うだけでなく、他の人と比べてもちょっと違うのではないかと思ったのだ。そう思うと「何だ、そうか。ちょっと違うのか」と妙に納得できたところがあった》(谷川浩司『復活』角川文庫、2000年)

 谷川は、羽生と自分は違うと気づいたことで、それまで彼に抱き続けてきたコンプレックスから脱することができたという。

「役割ですか? 役割なんて、あるんですかねぇ」

 なお、羽生は七冠達成後、結婚式まではそれを維持したいと語っていたが、七冠はその希望より長く、1996年7月30日に棋聖の座を三浦弘行に明け渡すまで5カ月半キープされた。

 羽生の“非凡なまでの普通さ”は、その後にいたっても変わらないようだ。2015年、当時44歳だった羽生を取材していたルポライターの高川武将は、「将棋界が激変期を迎えるなかにあって棋士として、また人間としてあなたの役割は何だと考えていますか」と問うたところ、《役割ですか? 役割なんて、あるんですかねぇ……》と訊き返されたという。驚いた高川がさらに「将棋界の第一人者として役割はありますよね?」と確認したところ、《いやぁ、自覚したことはないです》と羽生は答え、続けて《まあ、普通に、自然にやっていきます。役割はないですよ。自分のできることをやっていく、ということですね》と語った(『超越の棋士
羽生善治との対話』講談社、2018年)。

 自らの役割など考えず、ただ自分のできること、好きなことをやっていく。その姿勢は、社会的な意義や利益など度外視して、ひたすらに研究に打ちこむ学者のようだ。しかし、本人に自覚はなくとも、羽生が将棋界で果たした役割はあまりに大きい。それは誰もが認めるところだろう。彼が7つのタイトルで永世資格を得て、史上初の「永世七冠」を達成したのはこの2年後、2017年のことである。

<#1、#2から続く>

文=近藤正高

photograph by KYODO