30周年を迎えたJリーグの軌跡に刻まれたブラジル人選手。彼らに当時のウラ話、そして引退後の今を聞いていく。今回はヴェルディ川崎と鹿島アントラーズ、ヴィッセル神戸に所属したビスマルクに、子どもたちがマネした「お祈りポーズ」誕生秘話やブラジル代表で日本代表と対戦した頃の記憶などを幅広く聞いた。(全3回/#2、#3につづく)
Jリーグ初期、当時を代表する強豪2クラブで8シーズン半に渡って攻撃の中心を担った男は、9月で54歳になる。「シダージ・マラビリョーザ」(マーヴェラス・シティ)と呼ばれるリオデジャネイロの高級住宅街レブロンの瀟洒なアパートの最上階で、家族と共に暮らす。
巨大な愛犬の頭をやさしく撫でながら、穏やかな口調で当時の思い出を語ってくれた。
現在の仕事は、選手の代理人。ブラジル有数の代理人と会社を共同経営し、国内外を忙しく飛び回る。現役時代と比べるとかなりふくよかになったが、フットボールへの情熱は変わらない。
ボールを蹴り始めた頃の話から聞き始めたら、驚くべきエピソードが飛び出した。
ビスマルクの由来は“鉄血宰相”からだった
――そもそも、なぜビスマルクという名前(ファーストネーム)なのですか?
「父が歴史好きで、オットー・ビスマルク(注:19世紀のドイツを武力で統治して近代化を推し進めるなど“鉄血宰相”と呼ばれた)を尊敬していたんだ。ブラジルでは珍しい名前だけど、自分ではかなり気に入っている」
――フットボールを始めたきっかけは?
「(リオ中心部から湾を挟んで対岸にある)サン・ゴンサロで2人兄弟の次男として生まれ、5歳頃から家の近くの道路や広場で友人とボールを蹴り始めた。
その様子を見て、父が『この子にはフットボールの才能がある』と思ったらしい。住んでいた家の隣にもう一軒、家を所有していて他人に貸していたんだけど、その人が引っ越したら、突然、父が人を雇って家を取り壊し始めた。そして、更地にしてフットサル用くらいの大きさのコートを作り、僕たち兄弟がいつでもボールを蹴れるようにしてくれたんだ」
――ええっ、それはどういうことですか? お母さんにも相談せずに?
「全くの独断専行で(笑)」
――それは、あなたたち兄弟がお父さんに頼んだから?
「いや、僕たちは何も頼んでいない。父が勝手にやった」
――お父さんはフットボールが大好きで、息子たちをプロ選手にしたいと思っていたのでしょうか?
「父はブラジル連邦警察の警部で、厳格な人だった。ボールを蹴っているところは見たことがないけれど、バスコ(注:バスコダガマ。フラメンゴ、フルミネンセ、ボタフォゴと並ぶリオの4大クラブの一つ)の熱心なファンで、僕たちを連れてよくスタジアムへ行って試合を見せてくれた。
僕に『プロ選手を目指せ』と言ったことは一度もない。でも、ひょっとしたら心の奥でそう思っていたのかもしれない」
いつも大威張りでプレーできた(笑)。
――ブラジルの家庭では、女性の発言権が強いのが普通ですよね。そのときのお母さんの反応は?
「驚くやら怒るやらで、半狂乱みたいになった。彼女にしてみれば、家賃収入をあてにしていたわけだからね。でも、いくら文句を言っても父が平然としているので、やがて諦めた。そういう性格の人間だとわかっていて結婚したはずだしね(笑)」
――その後は?
「父は近所の子供たちを集めて5人制のチームを作り、そのコートで練習をした。ブラジルには『ドーノ・ダ・ボーラ』(ボールのオーナー)という言葉があり、ボールを持ってきた奴が一番偉い。好きなポジションでプレーできて、チームのメンバーも選べる。僕たち兄弟は、父がチームのオーナーにしてコートの持ち主で、ボールの持ち主でもあったから、いつも大威張りでプレーできた(笑)。以来、学校から帰ってくると毎日、そこでボールを蹴った」
憧れの選手はジーコだった
――外部のチームに入ったのはいつですか?
「8歳のとき、バスコのフットサルチームに入った。ホームスタジアムのスタンドの下にコートがあり、週3回、そこへ通った。そして、13歳のときクラブのフットボール部門のアカデミーに入った」
――当時からプロ選手を目指していたのですか?
「いや、フットボールはあくまでも趣味のつもりだった。学校の成績が良かったから、大学を出て体育の先生か弁護士になりたいと思っていた。
――当時のポジションは?
「トップ下。憧れの選手は、ジーコ(注:当時、フラメンゴのエース)だった」
――フラメンゴはバスコの最大のライバルですが…。
「サンパウロの4大クラブは、お互いのライバル意識がとても強いよね。でも、リオは少し違っていて、ライバルクラブの選手であっても誰もが認めるスターが何人かいた。ジーコはその筆頭だった」
――それから10数年後、地球の反対側で彼と一緒にプレーするとは?
「もちろん、全く予想していなかった」
若き日のロマーリオらとも戦友に
――そして、以後、バスコのアカデミーを順調に昇格してプロ契約を結ぶわけですね。
「1987年、17歳で最初のプロ契約を結んだ。8歳からバスコに通っていて、クラブが自分の第二の家だったから、とても嬉しかった。バスコの大ファンだった父がとても喜んでくれたし、父の影響でバスコのファンになっていた母もね。このとき初めて、母は賃家を壊してフットボールのピッチを作った父を許したんじゃないかな(笑)」
――当時のバスコの攻撃陣には、若きロマーリオ、ベテランのロベルト・ジナミッチらセレソン(ブラジル代表)の精鋭がいましたね。
「すごい選手が沢山いて、レギュラー争いがとても激しかった。最初の年はずっと控えで、11月、ブラジルリーグのサントス戦の後半途中に初めてピッチに立った。
試合は0−0のまま終盤を迎え、右からのクロスがゴール前に入り、僕がフリーでシュート。決めていたらチームが勝っていたはずなんだけど、力んでシュートを失敗してしまった。
頭を抱え、『ああ、これで僕のキャリアは終わったな』と思った。試合はそのまま引き分け。案の定、その後はベンチにも入れない試合が続いた」
セレソン選出に両親も涙を流して…
――それは苦しかったでしょうね。
「その試合から1カ月ほどたってから、練習試合で後半途中から出場。『これがラストチャンスだ』と必死にプレーして、ハットトリックを達成。これで監督の信頼を獲得して、1988年からレギュラーになった。当時、18歳だった」
――1989年の2月から3月にかけてサウジアラビアで開催されたU−20ワールドカップ(W杯)に出場し、ブラジルは3位でしたが、あなたは大会MVPに選ばれます。
「初の国際大会だったけれど、すでにトップチームで試合に出て活躍していたから、落ち着いてプレーできた。貴重な経験となり、大きな自信を手にした」
――そして、この大会の直後、19歳にして初のセレソン入り。強化試合に出場した後、7月にリオで開催されたコパ・アメリカ(南米選手権)の出場登録メンバーに選ばれます。
「子供の頃から夢見ていたセレソンに招集されて、夢のようだった。父も母も、涙を流して喜んでくれた。残念ながら、コパ・アメリカではピッチには立てなかったけれど、マラカナン・スタジアムで10万人を超える大観衆から凄まじい声援を受けたセレソンがマラドーナ率いるアルゼンチン、(エンゾ)フランチェスコリ(注:華麗なテクニックで攻撃を組み立てるMFで、ジネディーヌ・ジダンが少年時代に憧れた名手)がいたウルグアイを下して優勝するのを目の当たりにして、全身に鳥肌が立った」
実は“初のブラジルvs日本”で決勝点を決めた
――コパ・アメリカが閉幕して1週間後の7月23日、南米遠征中だった日本代表とリオで対戦し、後半途中から出場。右からのクロスを頭で叩き込み、ブラジルに勝利をもたらします。
「早くセレソンの試合に出たくて、うずうずしていた。ゴール前でうまくフリーになれて、会心の初得点だった」
――セレソンは、FWのロマーリオ、べべート、カレッカ、MFドゥンガ、GKタファレルらが出場、日本代表は監督が横山謙三で、FWの長谷川健太、水沼貴史、CB井原正巳らがプレーしました。この時の日本代表の印象は?
「基本技術はしっかりしていて、スピードもあった。ただ、当時はアマチュアで、最初から『ブラジルに勝てるはずがない』と思っていたらしく、『大敗しなければ……』という感じ。プレーが素直で、マリシア(ずる賢さ)がなかった」
――印象に残った選手は?
「イハラ(井原)は、ハードに当たってくるけどクリーンな選手だった。他の選手は、あまり印象に残っていない」
もちろんブラジル時代のカズも覚えているよ
――この年9月、ブラジルリーグでバスコがコリチーバと対戦。当時、コリチーバにはカズがいました(注:2人ともフル出場し、試合は1−1の引き分け)。この試合のことを覚えていますか?
「ああ、覚えているよ。カズという日本人の左ウイングがいることは知っていた。ドリブルがうまくて、『ガリンシャ・ジャポネス』(注:「日本のガリンシャ」。ガリンシャは、ブラジルの伝説的なウインガー)と呼ばれて注目されていたからね。とても危険な選手で、バスコの守備陣は彼を抑えるのにかなり苦労していた」
――この年、バスコはブラジルリーグを制覇。有力スポーツ誌が、あなたをベスト11に選びました。
「シーズンを通じて良いプレーができた。U-20W杯のMVP選出に始まり、セレソン初招集と初得点、チームのリーグ優勝にベストイレブンと、最高の年だった」
ブラジル代表としてW杯を戦えたのは栄誉だ
――そして、20歳にして1990年W杯イタリア大会の出場登録メンバーにも選ばれました。セレソンは、グループステージを首位で勝ち上がり、ラウンド16でアルゼンチンと対戦。試合内容では圧倒しながら、終盤、マラドーナの縦パスをカニーヒアに決められて敗退します。
「ブラジル代表に選ばれてW杯を戦うのは、ブラジル人として最高の栄誉だ。本当に嬉しかったし、家族も友人も大騒ぎだった。
残念ながら、W杯ではピッチに立つことはできなかった。でも、フットボールの世界で最高の舞台に臨んだことは、とても貴重な経験となった。『4年後の大会にも招集を受け、今度は主力としてプレーして優勝したい』と強く思った」
――ところが、翌1991年前半、バスコで出場機会が激減しました。その理由は?
「セレソンのチームメイトで当時レバークーゼン(ドイツ)でプレーしていた右SBジョルジーニョから打診があり、僕自身はレバークーゼンへ移籍することで合意していた。ところが、バスコが法外な移籍金を要求したため、移籍の話が流れた。このことで僕はクラブから“干された”格好になり、チーム練習にすら参加させてもらえなかった。
1992年は普通にプレーできるようになったけれど、そろそろバスコを退団すべき時期が来たと感じていた」
ジーコ、アルシンドらがJ開幕でプレーしていて…
――1993年5月、Jリーグが開幕します。このニュースを、ブラジルからどう眺めていましたか?
「ジーコ、アルシンド、ペレイラ、トニーニョら僕が知っている選手たちが超満員のスタジアムで嬉々としてプレーしているのを見て、少し羨ましかった」
――そのJリーグ開幕からわずか2カ月半後、自分がその舞台に立つと思っていましたか?
「いや、そのときは夢にも思っていなかった」
ブラジル代表にも選出されて日本代表戦でゴールを奪い、W杯メンバーにまで上り詰めたビスマルク。そんな彼が「夢にも思っていなかった」という日本に新天地を求める決断に至るまでに、どんな経緯があったのだろうか。
<#2につづく>
文=沢田啓明
photograph by Kazuaki Nishiyama