「ジーコの兄」として知られるエドゥーに鹿島アントラーズと日本代表ウラ話、日本人ファンが意外と知らないフットボーラーとしての足跡などについて聞いたインタビューの続きです。(全3回の第2回/第1回、第3回に続く)
ジーコの兄であるエドゥーは、日韓W杯後に日本代表監督に就任した弟を支える立場となった。その経緯、そして当時の日本代表の状況とはどのようなものだったのだろうか。
アジア杯優勝で「この強化を続ければ…」
――2002年のW杯終了後、ジーコが日本代表の監督に就任。あなたがテクニカルアドバイザーを務めたわけですが、そのいきさつは?
「ジーコから『日本サッカー協会から、代表監督へのオファーを受けた。引き受けようと思うが、兄さんにもスタッフに入ってもらいたい』と言われた。鹿島のコーチになったときと同様、二つ返事で引き受けた」
――当時の日本代表は、「黄金のカルテット」と呼ばれた中田英寿、中村俊輔、小野伸二、稲本潤一、さらにはFW高原直泰、キャプテンのCB宮本恒靖ら日本のフットボール史上最高とも評されたタレント揃い。2002年の自国開催で初のベスト16入りを果たしており、メディアと国民は非常に大きな期待をかけていました。ジーコと共に、どのようなチーム作りを目指したのでしょうか?
「優れた選手を集め、彼らの個性を組み合わせてチームを編成し、試合を重ねながら連携を熟成させようとした。ブラジルスタイルと言っていい。ジーコとは『創造性溢れる攻撃的なチームを作って世界を驚かせよう』と話していた」
――2004年に中国で行なわれたアジアカップでは、苦しみながらも優勝します。
「完全アウェーの厳しい状況で、準々決勝ヨルダン戦(注:延長まで戦って1−1の同点で、PK戦による決着となった。日本は最初の二人がいずれも失敗して窮地に追い込まれたが、主将の宮本が『PKスポット周辺の芝が荒れている』と主審にアピールしてPKのサイドを変えることに成功。これで流れが変わり、辛うじて勝利を収めた)、準決勝のバーレ−ン戦(注:延長の末に4−3で勝利)と厳しい試合が多かったが、決勝の中国戦は快勝だった。
MFナカタ(中田英)、MFイナモト、MFオノ、FWタカハラら多くの主力を欠いての優勝だっただけに、大きな手応えを感じた。『この方向で強化を続ければ、2006年W杯ではきっと素晴らしい戦いができる』と確信した」
ドイツW杯の惨敗、敗因はどこにあったのか
――ところが、肝心の2006年W杯ではグループステージ(GS)を突破できませんでした。最初のオーストラリア戦で先制しながら、後半39分以降に3点を奪われて大逆転負け。クロアチアと引き分けたものの、ブラジルに1-4と大敗を喫しての敗退でした。オーストラリアに逆転負けした理由をどう考えますか?
「最大の敗因は、1点リードした後、決定機を逃し続けて追加点を奪えなかったこと。終盤に至るまでに勝負を決めていなければならなかった」
――とはいえ、試合終盤に立て続けに3失点を喫するというのは……。
「判断ミス、技術的なミス、マークの遅れ――。いくつかのミスが重なった。なぜこれらのミスが出たかって? 先制逃げ切りに失敗して、心理的な影響を受けたのかもしれない」
――続くクロアチア戦は、0-0の引き分け。GS最後のブラジル戦は「GS突破には2点差以上の勝利が必要」という厳しい状況。前半、玉田圭司のゴールで先制したが、結果的に1−4の大敗でした。
「クロアチア戦は、勝つチャンスがあったが決めきれなかった。ブラジル戦は前半、タマダの素晴らしいゴールでリードしたところまではプラン通りだったが、前半の最後に追いつかれたのが痛かった。前半をリードして終えていたら、後半に追加点を奪って勝てる可能性があった」
――「オーストラリアに敗れて、選手たちがバラバラになった」という見方があります。当時の選手の一部からも、そのような声が聞かれます。
「私はそうは思わないな。試合に多く出た選手もあまり出なかった選手も、全員が最初から最後までベストを尽くしてくれた」
ロシアW杯以降の日本は「格段の進歩を遂げている」
――2018年大会以降の日本代表の奮闘をどう評価していますか?
「2006年大会の頃と比べると、チームとしても選手個々も格段の進歩を遂げている。Jリーグで鍛えられた選手が欧州へ渡り、激しい競争に打ち勝って試合に出て活躍することで、大きく成長した。そして、欧州での経験を代表へ持ち帰っている。
今では、世界のどこの国とも互角かそれ以上に戦うことができる。素晴らしい進歩で、今後、日本代表はさらに強くなると確信している。私とジーコは、アントラーズ、日本代表、そして日本のフットボール全体の進歩と発展の礎を築いたと自負している。そして、そのことに大きな誇りを抱いている」
鹿島アントラーズでも日本代表でも、指導者として申し分のない結果を残したとは言い難い。それでも、彼がジーコを支えながら日本のフットボールの発展のために尽力し、貢献してくれたのは確かだろう。
そんなエドゥー(とジーコ)の父ジョゼ・アントゥネスは、ポルトガル北部の小都市トンデーラ出身。9歳のとき、両親に連れられてブラジルへ移住した。
エドゥーとジーコはいつからボールを蹴り始めたのか
――お父さんの職業は?
「10代後半から、リオ市内のパン屋で働いた。フットボールが好きで、熱心なフラメンギスタ(フラメンゴ・ファン)。彼の影響で、家族全員がフラメンギスタになった」
――当時も今も、リオに住むポルトガル系ブラジル人の大半は(ポルトガル人移住者が創設した)バスコダガマのファンですが――。
「父は『ポルトガル人だからといって、バスコを応援しなければならないわけじゃない。俺は、フラメンゴの赤と黒のユニフォームが気に入ったからフラメンギスタになった』と言っていた。少しへそ曲がりだった(笑)」
――お父さんは、自分でもプレーしたのですか?
「若い頃、アマチュアチームでGKとしてプレーしたそうだ。まずまずの選手だったらしく、『フラメンゴの入団テストを受けないか』という声がかかったそうだ。ところが、パン屋のオーナーがポルトガル人で、バスコのファン。『なにい、フラメンゴのテストを受けたいって? 受けるのならクビだ!』。仕事を失いたくなかったので、テストを受けるのを断念したそうだ」
――一家は子沢山だったとか。
「父が40歳頃、17歳も年下のカリオカ(リオっ子)の母マチウダと知り合い、一目惚れして結婚したらしい。長女ゼゼ、長男ゼッカ、次男ナンドまでが年子。私がナンドの2歳下で、3歳下がトゥニッコ、6歳下が末っ子のジーコだ」
――5男1女ですね。
「6人も子供を作ったことについて、父は『マチウダはとても美人で、結婚していても言い寄ってくる男が多かった。マチウダに隙を与えないため、毎年、子供を作った』と冗談とも本気ともつかないことを言っていた(笑)」
――なかなか愉快な人だったんですね。
「手先がとても器用で、結婚直後から洋服の仕立ての仕事を始めた。やがて町の中心街に自分の店を構え、紳士服を仕立てた。丁寧な仕事をするので、顧客には富裕層や有名人が多かった。当時のリオで最高の仕立て屋の一人だったようだ」
――兄弟たちは、皆、フットボールが好きだったのですか?
「そうだね。毎日、家の前の道路で、最初は兄弟の上の三人でボールを蹴っていた。ジーコは年が離れていたから、しばらくは仲間に入れてやらなかった(笑)。我々がうまいので近所で評判になり、見物する人が出てきた。また、近所のうまい子たちが集まってきたので、彼らも仲間に入れてやった。
これを見て、父が家の敷地の奥にフットサルコートを作ってくれた。兄弟と近所の子供たちを加えて『ジュベントゥージ』(注:若者、青春の意)というチームを作り、他のチームと試合をした。この頃にはジーコも大きくなったから、チームに入れてやった(笑)。当時の仲間とは、今でも交流がある」
父はプロフットボーラーになることに反対だった
――お父さんは自分でもフラメンゴ入りを目指したくらいだから、息子たちにプロ選手になってほしかったのでしょうか?
「いや、その反対だった。『プロ・フットボールの世界には碌な奴がいない。クズばかりだ』というのが口癖で、息子たちは大学を出て堅い職業に就いてほしいと思っていた。息子たちは皆、フットボールが大好きでプロになりたいと思っていたが、それを許そうとしなかった。
ところが、父が信頼する友人が長男ゼッカの才能を見込んで、『本人も望んでいることだし、プロクラブのアカデミーのテストを受けさせてやったらどうか』と父を説得した。これが功を奏し、ゼッカは18歳のときフルミネンセ(リオの4大クラブの一つ)のU−20のテストを受けて合格。練習に通うようになった。彼が道を切り開いてくれたお陰で、我々弟たちもプロを目指せるようになった」
遊びの延長のようなことを仕事にする奴は…
――『息子たちをプロ選手にしたくない』と言いつつ、フットボール三昧の環境を準備してやる――。完全に矛盾していますね(笑)。
「そうなんだ。でも、当時はプロ選手の社会的な立場が低かった。今では考えられないくらいに収入が少なかったし、『遊びの延長のようなことを仕事にする奴は、碌な者じゃない』と一般に思われていたんだ。
◇ ◇ ◇
第3回ではフットボールの世界へと入ってからの奮闘、そして若き日にブラジルで見たカズ(三浦知良)の記憶や日本フットボールへのエールをお届けする。
<第3回に続く>
文=沢田啓明
photograph by REUTERS/AFLO