ラグビーW杯フランス大会でオーストラリア代表の指揮を執るエディー・ジョーンズ。2015年大会ではブライトンの奇跡を巻き起こした闘将は、日本というチームをどのように変えたのか。中心選手・五郎丸歩(あゆむ)との秘話を『LEADERSHIP リーダーシップ』(東洋館出版社)から紹介する。(全3回の2回目/#3へ続く)

極限状態で気力を失っていた五郎丸

 2015年6月、私は、ワールドカップ日本代表チームへのプレッシャーを強めていた。30日のうち28日間、厳しいトレーニングを課した。台風シーズンのまっただ中で、暑く、絶え間なく雨が降っていた。我々は泥の中で練習した。その月は毎週土曜日に公開練習をし、数百人もの地元のファンが紅白戦を見にやって来た。厳しい環境下での試合にするため、12人対12人でプレーした。さらに、ピッチの幅を60メートルから80メートルに広げた。これは選手たちの決意を試すテストだった。どれだけワールドカップに出たいか? どれだけ不快さや苦痛に耐えられるか? 泥の拷問部屋に深く入り込んで、自分の個性を示す覚悟はあるか?

 その月の第3土曜日、猛練習を終えた選手たちは疲れ切っていた。もう限界に達していた。しかし、私は巨大な泥の中で、12対12の過酷な紅白戦をもう一度やれと言った。これは選手たちがこれまで直面した中で、最もタフなコンディションだった。フルバックの五郎丸歩は対処できなかった。他の選手たちも脱落寸前だったが、何とか踏みとどまっていた。だが五郎丸はダメだった。周りについていけず、プレーする気力を失っていた。降参したと言わんばかりに頭を垂れ、とぼとぼと歩きながらフィールドの外に出た。

五郎丸を無視…「彼をじらすべき」

 孤独な五郎丸に、私は何も言わなかった。彼を無視してゲームを続けさせた。紅白戦が終わると、通訳に五郎丸とあとで話をすると告げた。そう予告された五郎丸は、自分のしたことがその場でカミナリを落とされて終わりになるような問題ではなかったと気づいたはずだ。選手たちは悪いパフォーマンスをしたり、いつもより覇気のないプレーをしたときには、そのことを自分でよくわかっているものだ。五郎丸は、控え室で私が近づいてくるのを待っていた。だが、私は何も言わなかった。いつもの土曜の夜のように、過酷な1週間の最後に行うハードな紅白戦のあと、チームみんなでビールを飲みに出かけた。リラックスして楽しむことも大切だ。私は選手たちとは交流したが、五郎丸のことは避けた。

 日曜日、五郎丸は通訳に電話をかけ「いつエディーさんとミーティングをするのか?」と尋ねた。通訳は、わからないと答えた。私は通訳と連絡を取っていなかった。数時間後、五郎丸は再び通訳に電話して、ミーティングはいつか尋ねた、通訳の答えは同じだった。五郎丸は、私の思うつぼの状態になっていた。私は、もう少し彼をじらすべきだと考えた。月曜日、通訳の携帯電話は「ミーティングはいつだ?」という五郎丸からのメッセージでいっぱいになっていた。

エディーが指定したのは寿司屋だった

 ついに、私は返答した。

「今夜6時、レストランで」

 私が選んだのは、ホテル内の寿司屋だった。小さいが洒落た高級な店で、普段は使うことはない。五郎丸はその店を指定されたことに驚いていた。誰もいないチームルームで叱られると覚悟していたからだ。だが、私は五郎丸の複雑な人間性に入り込むには、別のアクセス・ポイントを見つけるべきだと思った。私が日本チームを率いることになったとき、一番おおっぴらに反抗した選手が五郎丸だった。

 五郎丸は、私の前任であるジョン・カーワン時代、2011年のワールドカップでメンバーから外され激怒した。カーワンはニュージーランドで開催されるこの大会に、五郎丸を選ばなかった。偉大なオールブラックスの選手だったカーワンは、外国人選手によるチームの補強が必要だと考え、日本でプレーするニュージーランドや太平洋諸島の選手たちの多くを代表メンバーに選んだ。愛国心の強い五郎丸は、カーワンの選出基準に腹を立てた。自分がポジションを奪われただけでなく、日本人選手に対する侮辱であると。

よそよそしい五郎丸にエディーが考えていたこと

 2012年4月、カーワンからチームを引き継いだとき、私は違う方法を採用した。外国人を多用せず、日本人中心のチームに戻したのだ。迷わず選んだのが五郎丸だった。日本のクラブチームのコーチを何年か経験した私には、彼が優れたフルバックでゴールキックの名手であるのを知っていた。実力だけを基準にしても彼を選んだだろうが、愛国心の強い日本人選手をチームに入れるという私のプランにも合致した人材だった。

 しかし、問題があった。五郎丸は、代表に戻るのが嬉しくなさそうだったのだ。不満の原因は私だった。私が憎らしい外国人のため、彼はとてもよそよそしく、接触をことごとく避けていた。チームミーティングのときはいつも部屋の後方に座り、話し合いに進んで参加しようとはしなかった。少し離れたところでチームメイトと話すことはあったが、私が近づくとすぐに身を引いた。五郎丸にはチームの中心選手になりうる能力がある。壁を壊し、関係性を築かなければならなかった。

寿司屋の客は我々ふたりだけだった

 五郎丸とのアクセス・ポイントになる鍵は、愛国心だと思った。そこで、私は友好的な日本人選手たちを頼り、私の代わりに五郎丸と話すよう促した。五郎丸に、彼らの言葉でチームの構想を説明してもらったのだ。我々コーチ陣はメンバーのほとんどを日本人から選んで、はっきりとした日本スタイルのラグビーがしたかった。走ってパスを回すスタイルだ。それが日本人選手には向いている。時間はかかったが、五郎丸は我々の真意を徐々に受け入れるようになった。ミーティングで最前列に座り、話し合いに参加し始めたとき、私は彼も同じ船に乗る仲間だと確信した。

 それから3年が経過していた。五郎丸が泥のなかでのプレーを放棄した後、私は彼に近づくための別のアクセス・ポイントを探した。寿司屋の客は我々ふたりだけだった。私は普段とはまったく異なるアプローチを試みた。約1時間半、ただ食べながら、彼の家族の話をしたのだ。これは珍しいことだった。このような文脈で、家族の話題になることはめったにない。特に日本人選手は、社会での礼儀を重んじて、プライベートな話題には触れない傾向がある。けれど私はそれが、五郎丸の感情に訴える鍵だと感じた。彼の家族のことで会話がはずんだ。心を開いて楽しんだ。

もはや、私から言うべきことはなかった

 ふたりとも、このミーティングの目的を完全に忘れていた。私はパソコンとノートを脇に置いたままにしていた。それも私のちょっとした演出だった。食べ終わると私は言った。

「さて、話を聞かせてくれないか」

 五郎丸は熱意を込めて、はっきりと語った。まず、チームメイトを失望させ、自分自身もがっかりさせてしまったこと。次に、自分が行うべき重要な改善点を3つ挙げた。素晴らしかった。3日間、考える時間を与えたことで、彼は問題を自分のものにしていた。もはや、私から言うべきことはなかった。私たちは感情面でも、大いに深くつながったと感じた。直接会い、個人的なことをたくさん話したからだ。私から大切に思われていることを、理解してもらえたはずだ。彼は安心感を得て気持ちに余裕ができ、問題は解決された。私の手を借りずとも、その態度は目を見張るほど変化した。五郎丸はワールドカップに出場し、大会のベストフィフティーンに選ばれるほどの目覚ましい活躍をした。

15年前なら私は激怒していただろう

 選手が変わる方法は、ひとつではないということだ。15年前なら、練習を途中で投げ出す選手を見たら、私は激怒し厳しく叱咤(しった)しただろう。だが、適切なアクセス・ポイントを見つけたことで、五郎丸が自分を根本から変えるのを促せた。

<つづく>

文=エディー・ジョーンズ

photograph by JIJI PRESS