2023年の期間内(対象:2023年5月〜2023年9月)まで、NumberWebで反響の大きかった記事ベスト5を発表します。ボクシング(井上尚弥)部門の第1位は、こちら!(初公開日 2023年7月27日/肩書などはすべて当時)
井上尚弥(大橋)の驚異的なまでの強さに度肝を抜かれたのは、日本のファンだけではない。7月25日、有明アリーナで行われたWBC、WBO世界スーパーバンタム級タイトル戦で、挑戦者の井上は王者スティーブン・フルトン(アメリカ)に圧倒的な8回KO勝ち。世界中で生放送&配信された一戦で、井上の鮮やかなボクシングは各国の関係者たちを震撼させるのに十分だった。
試合直後、世界で最も権威のあるボクシング専門誌『リングマガジン』の元編集人(マネージング・エディター)であり、現在は『スポーティングニュース』で健筆を振るうトム・グレイ氏に意見を求めた。
井上が披露した余りにも見事なボクシングの興奮覚めやらなかったグレイ氏は、リングマガジン、スポーティングニュースの両方でパウンド・フォー・パウンド・ランキング選定委員を務めている。井上を絶賛するその言葉を聞く限り、日本のボクシング史上最高傑作が欧米の主要媒体から再び“世界最高のボクサー”として認められる瞬間は近そうである。
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パワーよりもテクニックに驚愕
フルトンを撃破した井上のボクシングはあまりにも素晴らしいものでした。井上のドラマチックなKOパワーは誰もが認識している通りで、今戦でも最終的にはそれで魅了してくれました。ただ、この試合で私が何よりも驚かされたのは、見事なまでのテクニックです。ボクシングスキルでは最高級と目され、しかも上の階級の無敗の統一王者だったフルトンを井上はアウトボクシングで上回ってみせたのです。
井上のジャブは有効で、左の差し合いでフルトンを圧倒しました。身長、リーチの差ゆえに試合前、アウトボクシングではフルトンに分があると目されていましたが、井上のタイミングの良さ、距離感は抜群でした。そのスピード豊かなジャブ、打ちにかかったときのパワーゆえに、フルトンは前に出ることを躊躇わざるを得なかったのです。
初回はまだ様子見の感もありましたが、2回以降は井上が一方的な戦いを続けました。実は私は3回はフルトンにポイントを与えたのですが、迷った末にフルトンに寛容になった結果であり、そのラウンドも井上がペースを明け渡したと見たわけではありません。4〜7回の井上は支配的な戦いを続け、おそらくすべてのラウンドを制していたでしょう。2回以降、2人の力量差は明白。フルトンは世界レベルの選手かもしれませんが、井上は一段上のエリートレベルであることを証明しました。
フルトンはパワー以外のすべてを備えた選手ではありますが、21勝中8KOという戦績が示す通り、一発で流れを変えられるパンチャーではありません。そういうタイプのボクサーがアウトボクシングで上回られてしまえば、できることはなかったのです。
試合前、バンデージの巻き方に関して文句を言ったのはマインドゲームの側面もあったのでしょうが、結果的には井上を怒らせただけで、いいアイデアではなかったのかもしれません。それでもフルトンは勇敢に戦い、8回のあの痛烈なノックダウンからよく立ち上がってきたと思います。あそこまで一方的にやられ、倒され、勝機が見当たらない状況ながら、そのままキャンバスに寝ていなかったことは評価されてしかるべきだったとは思います。
「すぐに倒れていたら、回復したかもしれない」
そんなフルトンを葬った井上のフィニッシュは今回も強烈でしたね。序盤からいいパンチを当てていましたが、深刻なダメージを与えたのは8回の右パンチが最初でした。その一発でダウンしなかったことが、フルトンには災いしたのでしょう。あそこですぐに倒れていたら、回復の時間が得られ、試合はもう少し延びていたかもしれません。ただ、右一発で凍りついたフルトンが追い討ちの左フックを無防備な状態で浴びたことで、この試合の結末は早まりました。
井上は現役最高級のフィニッシャーとして知られており、そのキラー・インスティンクトは今戦でも飛び抜けていました。初めてのKOチャンスで即座にパンチをコンビネーションでまとめ、あっさりとノックアウトしてしまったのですから。誰もがあのようなKOシーンを予期し、実際に期待に応えてしまうのだから、“モンスター”の面目躍如としか言いようがありません。
試合前、かなり迷いましたが、私は井上の11回KO勝ちを予想しました。井上が終盤にフルトンを捉えると見ていたのですが、思っていた以上に早い段階で仕留めてしまいました。本当に息を呑むような強さでしたね。
私は井上対ノニト・ドネア(フィリピン)の第1戦の際は日本に行き、リングサイドで取材しました。井上のキャリアの早い段階の試合もほとんどすべてに目を通してきました。そんな私も、これほどまでのパフォーマンスは思い出せません。井上にとって恐らくこれまでのベストファイトと言えたのではないでしょうか。
PFPランキング1位返り咲きはある?
この試合を見た後で、私は井上こそがパウンド・フォー・パウンドのNo.1ボクサーと認められるべきだと思っています。現在、リングマガジン、スポーティングニュースのPFPランキングではオレクサンデル・ウシク(ウクライナ)が1位ですが、フルトン戦での勝利で井上はウシクを上回ったはずです。4階級目の初戦で、階級最強と目される無敗ボクサーを破壊してしまったのだから、センセーショナルなことです。
リングマガジン、スポーティングニュースにもランキング選定委員がおり、他のメンバーの意見も聞かなくてはなりませんが、もう“モンスター”の圧倒的な強さを評価せざるを得ないでしょう。少なくとも私の意見はそうです(この取材後、『スポーティングニュース』では井上が1位に更新された)。
今週末、ラスベガスでエロール・スペンス・ジュニア(アメリカ)対テレンス・クロフォード(アメリカ)の世界ウェルター級4団体統一戦というビッグカードが行われます。今回の井上のようにとてつもない強さをみせた場合のみ、その試合の勝者に首位浮上の可能性が出てくるのでしょう。中量級でシュガー・レイ・レナード、トーマス・ハーンズ(ともにアメリカ)、ロベルト・デュラン(パナマ)のようなスター選手たちが凌ぎを削った1980年代のように、歴史的な好試合にでもなれば話は変わってくるのかもしれません。
ただ、12ラウンドを普通にフルに戦い、いずれかが明白に勝ったとしても、その勝者が井上のトップの座を脅かすとは思えないのです。
井上は次の試合でWBAスーパー、IBF同級王者マーロン・タパレス(フィリピン)と4団体統一戦を行いたいと述べ、タパレスも同意しました。タパレスは前戦でムロジョン・アフマダリエフ(ウズベキスタン)という優れた王者に勝ち、世界レベルの実力を証明した好ボクサー。そのタパレスも井上に勝つチャンスがあるとは思えません。パワー、テクニック、スピードのどれをとってもタパレスに超越的なものはなく、井上はすべての面で上回っており、番狂わせが起こるカードとは考えられないのです。
井上のリスペクトを勝ち取り、警戒されるには一定以上のパワーが必須です。プロキャリアを振り返っても、井上を深刻なトラブルに陥らせたのは初対戦時のドネアだけ。ドネアもまたとてつもないパンチャーであり、あの試合では第2ラウンドに左フックを当てて井上の目を骨折させました。フルトンにはそれだけのパンチ力はなかったですし、総合力で大きく劣るタパレスや、それ以外の選手の戦力を見渡しても、井上がスーパーバンタム級で負けると思えません。今後、井上が敗戦を経験するとすれば、それはやはり“体重に負けた”場合になるのでしょうね。
フェザーへの昇級はあるか?
最近では世界4階級制覇王者のサウル・“カネロ”・アルバレス(メキシコ)がライトヘビー級に上げ、ドミトリー・ビボル(ロシア)に負けた試合では“ウェイトを上げすぎた”という見方がされました。駆け足で階級を上げていった場合、そういうことが起こるものです。ただ、井上の陣営はより慎重に昇級を考慮している印象を受けます。
彼は大柄な選手ではありませんし、その気になればまだバンタム級でも戦えるのではないでしょうか。私が井上の陣営の人間だったとしても、スーパーバンタム級でこのまましばらく戦わせますし、フェザー級以上には上げさせません。
いずれフェザー級で戦うのだとしたら、井上対フルトン戦のセミファイナルに登場したWBO同級王者ロベイシ・ラミレス(キューバ)との対戦が実現するのかもしれません。アマでの実績豊富なラミレスもまた才能に恵まれたボクサー。ラミレスには“シャクール・スティーブンソン(アメリカ)に最後に勝った選手”という肩書もありますし、ラミレス対井上戦は注目のファイトになるはずです。
今後、井上はまだまだ多くのことを成し遂げていくと予測します。現役選手に関してこんな話をするのは早すぎるのかもしれませんが、井上は間違いなく“オールタイム・グレート”と呼ばれるべきボクサーだと考えます。間もなくPFPのトップに戻り、2階級で4団体統一を果たす史上初の男子ボクサーになるのでしょうから。フロイド・メイウェザー(アメリカ)、マニー・パッキャオ(フィリピン)などと同じように、その名はボクシングの歴史上で永く語り継がれていくに違いありません。
井上がなし遂げていることはもう驚異としかいいようがないのです。そんな選手と同世代に生き、キャリアを間近で見ることができている私は、とても幸福で、幸運なのだという思いが心の中に湧き上がってきています。
―2023上半期 ボクシング(井上尚弥)部門 BEST5
1位:「一発でダウンしなかったことが災いだった」井上尚弥の“追い討ちの左フック”に英国人記者も興奮「同じ時代を生きる私は幸運だ」
https://number.bunshun.jp/articles/-/858743
2位:「フルトンの鼻血は“命取り”だった」“井上尚弥を最も苦しめた男”が見た、敗者の異変「井上くんに完敗でもフルトンは称賛されるべき」
https://number.bunshun.jp/articles/-/858742
3位:「かなりショックだったのでは…」井上尚弥はフルトンの“奇策”をどう打ち破った? 元世界王者・飯田覚士が分析「一番驚いたのは本人のはず」
https://number.bunshun.jp/articles/-/858741
4位:井上尚弥の左ボディジャブは「他の選手と違って痛いんです」…“怪物と最も拳を交えた男”黒田雅之がフルトン戦を分析「絶対に上への布石だと」
https://number.bunshun.jp/articles/-/858740
5位:「おい、フルトンがおかしいぞ…」井上尚弥の“仮想フルトン”になったアメリカ人の告白「ナオヤと1カ月前に話した“腹、腹、腹…”プラン」
https://number.bunshun.jp/articles/-/858738
文=杉浦大介
photograph by Hiroaki Yamaguchi