2023年の期間内(対象:2023年5月〜2023年9月)まで、NumberWebで反響の大きかった記事ベスト5を発表します。格闘技・ボクシング部門の第5位は、こちら!(初公開日 2023年8月19日/肩書などはすべて当時)。
2023年6月、パーキンソン病を患っていることを明かしたヒクソン・グレイシー。無敗のままキャリアを終えた“伝説の格闘家”は、負けられない戦いや過酷な運命とどのように向き合ってきたのか。30年来の親交があるフォトグラファーの長尾迪氏が、過去に撮影した写真とともに、ヒクソンの知られざる素顔をつづった。(全2回の1回目/後編へ)ヒクソンが「強さ」のアイコンだった時代
「2年前にパーキンソン病と診断された」
今年6月、ヒクソン・グレイシーが遠縁にあたるキーラ・グレイシーのインタビューに応じ、自らの病気と症状を公表した。
ヒクソンが日本で試合をしたのは1994年から2000年までの6年間で、5つの興行に出場。試合数はトーナメントも合わせて9試合、そのすべてが一本もしくはKO勝ちだった。だが、彼の凄さは試合内容だけではない。試合に臨む姿勢や佇まい、彼が発する言葉、対戦相手へのリスペクトなど、常に真摯なその人間性が、日本における格闘技の地位向上に大きな役割を果たした。
当時はMMAの黎明〜発展期であり、テレビの地上波番組や一般メディアはヒクソンを「強さ」のアイコンとして取り上げた。あれから四半世紀が経つが、業界を牽引した彼の功績と影響力は現在も色あせることはない。私がもっとも大好きで尊敬する格闘家は、いまもヒクソン・グレイシーである。
弟ホイスが語った「兄は私の10倍強い」
私が彼を初めて見たのは1994年3月、『UFC 2』が行われたコロラド州デンバーだった。ホイス・グレイシーのメインコーチとして来場したヒクソンは、他のセコンド陣とは明らかに違うオーラをまとい、ただならぬ存在感を放っていた。
前年11月の『UFC 1』でホイスが優勝した直後とはいえ、当時はグレイシー柔術やグレイシー一族のことはほとんど知られていなかった。しかし、ホイスの「兄のヒクソンは私の10倍強い」という発言により、一気にヒクソンの名前は世の中に知られるようになる。
個人的には1994年7月の試合後にインタビューをして以来の付き合いで、翌年の試合直前の長野合宿の撮影も任された。メディアの取材撮影を含めて、彼が来日するたびに顔を合わせる関係だった。
私はヒクソンの病名を聞いたとき、彼に晩年のモハメド・アリの姿を重ねた。パーキンソン病は、脳の指令を身体に伝えるドーパミンが減ることにより、筋肉に硬直や震えがおきて、様々な運動障害を引き起こす。ヒクソンはまだ63歳だ。哀しいというよりも、「あのヒクソンが……」という驚きの方が大きかった。
ヒクソンが発病したのは2年前のことだという。ふりかかった現実を受け止め、今年の6月に公表するまで、それだけの歳月を要したことになる。その重さを考えると、私の胸は締めつけられた。柔術以外にも趣味のサーフィンなど、自然の中で体を動かすことが大好きなヒクソンにとって、この事実はどれほど無念で辛かったことだろう。
「死ぬには良い日だ」ヒクソンの鮮烈な記憶
ヒクソンを愛した日本のファンのためにも、彼がいかに素晴らしく偉大なファイターであったか、私から見たその生き様や素顔について少しだけ記しておきたい。試合においても、プライベートにおいても、彼との思い出はたくさんありすぎて、残念ながらここでは書ききれない。写真とともに、鮮烈な記憶をいくつか厳選させてもらった。
◆1994年7月29日 『VALE TUDO JAPAN OPEN 1994』
ヒクソンは試合の前、控え室で円陣を組み「今日は死ぬには良い日だ」という言葉を発してリングに向かう。万全の準備をして負けるなら仕方がないし、自分からギブアップすることはない。だからこそリング上の顔は常に穏やかで、とてもいまから試合をするようには見えなかった。日本で行われた彼の試合はすべて撮影しているが、腹筋や胸筋など、その筋肉の張り具合で判断すると、ヒクソンの肉体的なピークは90年代中盤だと思う。
◆1994年9月 ロサンゼルスでの単独インタビュー
ヒクソンは2カ月前に開催されたVALE TUDO JAPANの8名によるワンデイトーナメントで優勝。初戦は2分58秒、準決勝は2分40秒、決勝は39秒。3人を倒すことに要した時間は、合計でわずか6分17秒だった。
異次元の強さを目の当たりにした私は、彼のことをもっと知りたいという欲求を抑えることができず、ロサンゼルスへ赴いた。当時はUFCで弟のホイス・グレイシーが活躍していた。そんなホイスが「10倍強い」と認めるヒクソンの桁違いの強さの根源は、いったいどこにあるのか。単刀直入に質問をぶつけてみた。
「なぜ、あなたはグレイシー一族の中で最も強いのか」
ヒクソンはこう答えた。
「神から与えられた肉体と才能だと思う」
それはきわめて端的な答えだった。だが、天賦の才とたゆまぬ努力が噛み合うことにより、“最強”が作られることを私は知った。
◆1995年4月 長野での合宿
軽井沢での山籠もりは、早朝から野山をランニング。合間には心拍数を計測していた。「組み技の練習はやらないのか」と聞くと、ヒクソンは「自然からのエネルギーをもらい、心を整えるためにここに来た」と応じた。昼食はヒクソン自らが手料理をふるまってくれた。メニューはサーモンのクリーム煮、オリーブオイルとビネガーの自家製ドレッシングのサラダ、そしてライ麦パンだった。(写真提供:中村頼永氏)
◆1997年10月11日 『PRIDE.1』
リング上でヒクソンと対峙した高田延彦は、目に見えない圧力を感じているようだった。ヒクソンがリングの中央に陣取り、その周りを高田が回るという展開が続いた。「これ以上近づいたら危ない」。その緊張感は、カメラを向ける我々にも伝播していった。
ヒクソンは相手の攻撃にカウンターを合わせるのが上手い。また、相手が動かない場合には自ら小さな蹴りをフェイントに使うこともある。寝技のパターンは定石通りだが、上になった場合は背中しか見えないので、次の細かい展開が分からないことも多い。そのときは会場のモニターを見ながら撮影することもある。リングサイドは他社のカメラマンやビデオなどでいっぱいで、移動はできない。
また、この当時はまだフィルムカメラを使用していたので、一度に撮影できる枚数も限られていた。もし、いまのように無制限に撮影できるデジタルカメラだったとしたら、違った写真を撮っていたのだろうか。いや、おそらくは同じような写真しか撮らなかったと思う。私が撮りたいのは試合ではなく、ヒクソン・グレイシーという唯一無二の存在だからだ。取材のインタビュー撮影をしたときに、彼から言われたことがある。
「ナガオは他のカメラマンのようにたくさんシャッターを押さないよな。でも、いつも最高の瞬間を撮る。その切れ味は、まるでサムライソード(日本刀)のようだ」
◆1998年10月11日 『PRIDE.4』
悠然と花道を歩き、一気にロープを飛び越えるヒクソン。その姿は神々しくもあり、勇ましくもあり、何よりも華麗だった。
ヒクソンがジャンプしてリングインすることは分かっていたので、ポジションを移動し、息を殺してその瞬間を待った。この写真は狙って撮影した「会心の1枚」と言えるだろう。ヒクソン本人からも、こんな言葉をもらった。
「私の試合写真の中で間違いなくNo.1だ。自宅のリビングのいちばんいい場所に飾っている。朝起きるたびにこの写真を目にして『おはようグレイシー』と挨拶するのだよ(笑)」
◆2011年8月 リオデジャネイロにて
プライベートでは自然の中にいることを愛するヒクソンだが、幼いころから慣れ親しんだリオ郊外のビーチにいる彼は格別に楽しそうだった。
「ナガオはフィッシングをやるのか。海は最高だよなぁ。海や山、自然から学ぶことはたくさんあるから」
初めて彼をインタビューしたときのことを思い出した。将来の夢について質問すると、ヒクソンは「リオの郊外に牧場を持ち、牛や馬と一緒に自然の中で暮らしたい。そんな環境の中で、精神修行も続ける。自分を高めることは年齢に関係なくできるから」と答えた。当時から彼は確固たる自分の哲学を持っていた。
ヒクソンとの付き合いは30年近くになるが、その考え方に共感するところも非常に多い。彼とは日本だけでなく、世界中の色々な場所で語り合った。いつも変わらないのは、シェイクハンドとハグ、そして最高の笑顔だ。そして別れるときには必ず、何度か肩を叩いてくれる。そこには「これからもお互い精一杯生きてゆこう」というメッセージが込められているようだった。私は何度もヒクソンの笑顔と力強さに救われ、勇気づけられた。
どんなときも周りに活力を与えてくれるヒクソンだが、パーキンソン病を患う以前にも、大きな悲劇に直面したことがあった。言葉にしがたいほどの痛みを、彼はどう受け止めていたのか。後編では、「強さ」だけでは語れない人間ヒクソン・グレイシーの実像に迫っていきたい。
<後編に続く>
文=長尾迪
photograph by Susumu Nagao