2023年の期間内(対象:2023年5月〜2023年9月)まで、NumberWebで反響の大きかった記事ベスト5を発表します。相撲部門の第2位は、こちら!(初公開日 2023年5月15日/肩書などはすべて当時)。
直前の3月場所で十両優勝を果たしながら、電撃引退した逸ノ城(30歳)。2014年にデビュー、わずか5場所での新関脇、新三役はいずれも昭和以降1位のスピード出世だった。「“ザンバラ髪”の怪物」と騒がれ、将来を期待された男とはいったい何者だったのか? 9年前、雑誌『Number』での本人インタビューを特別に公開する。【初出:Number868号/2014年12月24日発売】◆◆◆
「えーっ?」丸太みたいな太もも
「うわ、これ懐かしいっすねぇ」
身長193cm、体重200kgに迫るその巨体をかがめて、1枚の写真に見入る逸ノ城がいた。
それは2010年3月、モンゴルの広大な草原から海を越え、わずか4m55cmの土俵に立った、かつての自分の姿だった。頼りなげな肩に、柔らかに垂れた胸、真っ白な肌の上半身。一緒に来日した、丸々と太った照ノ富士が笑顔を向けているその横で、不安げな顔で棒立ちしている16歳の逸ノ城――。ただ、鳥取城北高校相撲部監督が、ひと目で惚れ込んだその太ももだけは、どっしりと丸太のように、存在感を放っていた。
2009年冬。モンゴルの首都ウランバートルで、相撲部員をスカウトするために集められた60人のなかに、冴えないひとりの少年がいた。
逸ノ城を見いだした同校相撲部監督の石浦外喜義が、その当時を振り返る。
「なんだかデレ〜ンとした体だったけれど、パッと太ももを見た瞬問に、『えーっ?』と驚いたくらいです。うちの卒業生である田宮(元大関琴光喜)もそうだったんですよ」
「母親が反対した“日本行き”」
同校相撲部でコーチを務めるレンツェンドルジ・ガントゥクスは、自身も中学時代から日本に相撲留学をしたモンゴル人だ。選抜大会で勝ち残った逸ノ城を見て、日本に連れて行って大丈夫なのだろうか、続けられるだろうか、何よりも「相撲に向いているのだろうか」と、一抹の不安を覚えたという。
「性格もおとなしくて、あまり喋らない。モンゴル人は闘争心があって気が強い気質もあるけれど、そんな部分がまったく見えない。負けても悔しそうな顔をしないんですよね」
通訳の男性との、「この子のモンゴル語は訛っている」との会話から、遊牧民出身だと初めて知った石浦は、悩んだ。
「長男で、大切な働き手を連れて行ってしまっていいのか、と。実際、母親が反対し、日本行きはなかなか決まらなかったんです」
しかし、幼少時から燃料用の家畜の糞を集め、丸太を両脇に抱えて山を下り、羊や山羊、馬を追う日々を送っていた少年の心は、決まった。けして裕福とは言えない、過酷な遊牧生活を送る家族のためにも、日本に行き、成功したい――逸ノ城は言う。
女子にも負ける「最弱部員」だった
「高校を卒業したら、就職するか、大学に行くか、プロに行くか3つの道があると言われていました。それならば、僕は最初から絶対にプロに行くと決めて、日本に来たんです」
両親と幼い弟妹を残し“ジャパニーズドリーム“を追った。部員たちと寮生活を送り、初めてまわしをつけた逸ノ城は、189cm、135kgの体躯を持ちながらも、女子部員に転がされるほどの「最弱部員」だった。
「ケガしそうだったので、1年間は相撲を取らせなかったんです。徹底的に基礎練習だけ。ただ“メシ”だけは強かったから、どれだけ大きくなれるかな、とは思ってましたけどね」
との石浦の言葉に、逸ノ城は、「先輩に食べさせられたんですよ」と苦笑いする。
「どんぶりに盛られたご飯を8杯、鍋を5杯と、吐きそうになっても、吐いたら意味がないんで、我慢してました。稽古も大変でしたけど、食べるのもつらかったっす……」
挨拶、礼儀、日常会話。コーチのガントゥクスが、「腰を落とせ」「脇をしめろ」との相撲の基本指導の日本語をローマ字で表し、モンゴル語でその意味を書き添える。そのひとつひとつを覚える生活が始まった。
「ずっと部屋でひとりぼっちでした」
しかし、入部早々、逸ノ城はいきなり躓く。
5月、右膝の靱帯を痛め、土俵で四股を踏めるまでに、3カ月の月日を要した。
「寮に住んでいて、みんなは学校に行くんだけど、しばらく歩けなくて、ずっと部屋でひとりぼっちでした。時間もいつもより長く感じて……。松葉杖をついて歩けるようになって、上半身のトレーニングを頑張ったんです。筋肉がまるっきりなかったのが、ダンベルやって硬くなってきたり、腕が盛り上がってきたりして、うれしくて。どんどんやったっす」
まるで当時のうれしさをそのまま再現するかのような、素朴な笑みを浮かべる逸ノ城。この時の心情を、ガントゥクスはこう代弁した。
「まわりがガンガン稽古していて、本人は相当に焦っていたでしょう。“早く稽古したい、早く土俵に上がりたい”とね。ケガが治ってからは急激に体も大きくなって、だんだんと、強くなっていったんです」
2年生になると、その体格とパワーを生かし、瞬く間に力をつけた。鳥取城北高校相撲部では、重しを入れて150kgもの重量にした大型トラック用タイヤを、腰を割った体勢で押し返す、独特のトレー二ングがある。逸ノ城だけは、さらに40kg分の重りをつけ、軽々とタイヤを起こしていたという。
逸ノ城が在籍した当時の2011年、鳥取城北高校は、6つの全国大会で個人・団体戦を完全制覇した。率いる石浦は言う。
「逸ノ城は、まず強い先輩たちに揉まれたのがよかった。2年生としてその背中を見て、最初は相撲を取らせてもらえなかったのが、だんだんと相撲らしくなり、そのうち五分になる。『あの日本一の先輩に勝てれば、俺も』となってゆくんです」
「プロは無理だ」
2年生でレギュラーの座を掴んだ逸ノ城は、急成長し、その逸材ぶりをいかんなく発揮した。2年時で2冠、3年時で3冠、計5つの全国大会で個人優勝を果たし、いつしか高校相撲界にその名を轟かせる。高校相撲の最高峰であるインターハイでは、「外国人初の高校横綱誕生」の呼び声も高かった。
だが結果はまさかの準決勝敗退。あれから2年の月日を経た今でも、「すごく悔しかった」と、顔を曇らせるほどだ。逸ノ城自身は卒業後すぐにプロ入りを熱望したが、ここで石浦は、一計を案じる。
「性格がのほほんとしていて、周囲のみんなから愛され、可愛がられていた。“もう少し強くなってプロに行ったら、活躍し、きっと人気が出るだろう”と思いましたよ。だからこそ、“こいつだけは絶対に強くして送り出さないと。まだ足りないものがある″と思い直したんです。本人には申し訳なかったけれど、理由をつけました。『高校横綱になれなかったから、プロは無理だ。その代わり社会人の大会を目指せ。実業団、国体、アマチュア横綱を決める天皇杯と、チャンスが3回あるんだ。お前もこのままでは悔しいだろ? ひとつでも狙ってみろ!』とね」
数多のモンゴル人高校生を育て、大学相撲界、大相撲界に送り出している石浦には、もうひとつの懸念もあった。
「日本語も、まだまだだったんです。だから寮を出して、体育協会の先輩と一緒に住まわせた。日本語を早く覚えれば、のちの本人のためになる。遠回りをさせたけど、慌てなくてよかったんですよ、逸ノ城の場合はね」
「初めて泣いたのを見た」
鳥取県体育協会に就職した逸ノ城は、毎日自転車を30分こぎながら、相撲部の道場に通い、ひたすら稽古に打ち込む。9月、全国実業団相撲選手権で優勝し、悲願の「実業団横綱」の栄冠に輝いた。外国人初の幕下15枚目付け出し資格を得て、プロヘの切符をようやく掴み取ったのだ。傍らで付き添っていたガントゥクスは、この時の逸ノ城を、まるで昨日のことのように思い出す。
「ものすごく集中していて、決勝戦は右四つで自分の型になって、一歩も引かずにがむしゃらに前に出た。相撲部時代は、女子に負け、自分より小さい子に負け……。負けても悔しそうな顔を見せずに、『おいおい大丈夫かよ』と心配するくらいに無表情だった逸ノ城が、この時、初めて泣いたのを見たんです。本当にタイトルがほしかったんだろうな。プロに行きたかったんだろうな。心底ホッとしたんだろうな、と僕も泣けたくらいです」
170cmの小さな“兄費分”ガントゥクスと抱き合った逸ノ城の頬を、堰を切ったように大粒の涙がつたった。
「モンゴルに帰りたいとか、稽古がつらいとか、一度もそんな言葉を聞いたことがなかったし、表面に感情を出さない。でも、熱いもの、強いものを、そのぶん内に秘めていたんだと思うんですよね」
「白鵬関は、何歳で横綱になったんですか?」
2013年10月、満を持して湊部屋に入門が決まった。外国人力士は3カ月の準備期間を取る規定があり、すぐには土俵に上がれない。本場所に向かう兄弟子たちを見送り、部屋にひと残る逸ノ城の、覇気のない背中に、部屋の行司が声を掛けたことがあった。
「どうした? 具合でも悪いのか?」
「いえ……。早く相撲を取りたいんです」
母の反対で、すぐには日本に渡れなかったあの日々。ひとり、寮の部屋に取り残されたあの日々。ケガが完治せず、土俵に立てなかったあの日々。タイトルを獲らなければプロ入りさせないと言い渡され、ひたすら稽古を積んだあの日々――。飢えた狼は、ひとたび獲物を捕らえれば、貪り食べ尽くし、それは己の血となり肉となる。まさに逸ノ城は、日々、相撲に飢え続けていた。
2014年1月、念願の初土俵では6勝1敗。翌3月も6勝し、わずか2場所で十両に昇進する。5月には新十両で優勝を果たし、十両も2場所で通過した。新入幕の9月場所では、破竹の勢いでの13勝2敗、千秋楽まで白鵬と優勝を争い、あわや100年ぶりの新入幕優勝かと、その怪物ぶりが一躍話題となった。
11月の九州場所では新関脇として勝ち越し、思えば激動の1年だったのでは――と水を向けると、満面の笑みを湛えて、こともなげに言うのだった。
「本当に素晴らしい1年でした」
拍子抜けするほどに無邪気な逸ノ城に、ふと石浦の言葉が脳裏をよぎる。
「まだ1年目の新弟子でしょう? この1年はプロの世界で、巡業でもなんでも、すべて新しいことばかりだったから、相当なストレスがあったと思う。でも、ひと通り経験した2年目は、もう大丈夫でしょう。相撲部時代が、まさにそう。1年目は覚えることばかりで、慣れた2年目から、俄然強くなったんですから」
“2年目”を迎える逸ノ城に、まずは初場所の目標を問うと、「大きく勝ち越したい。自信はあります」ときっぱりと口にした。そして、大草原で羊を追う少年時代から憧れ、目標としていた力士は白鵬なのだ、とその名を挙げる。
「白鵬関は、若い頃に横綱になったんですよね? 何歳ですか?」
逆質問する逸ノ城に、「22歳だ」と答えた途端、その顔は無表情に戻り、しばし静かな沈黙が流れた。ほの暗い稽古場の上がり座敷で、一瞬、逸ノ城の目が獲物を捕らえた狼のように光を放つ。
2015年、無敵の2年目。逸ノ城は22歳になる。
文=佐藤祥子
photograph by JIJI PRESS