泣かないつもりだった。だが、涙が自然と目に溜まっていた。
「グッドルーザーであれ、という気持ちでベンチから(慶応側の優勝インタビューを)見ていたんですけれど……。やっぱり涙が出てしまって」
2連覇を目指した仙台育英の甲子園決勝戦は2−8という結果で終戦した。その瞬間を一塁側ベンチから見届けた4番打者の斎藤陽は、胸中からこみ上げてくる当時の感情を頭の中に思い巡らせながら、丁寧に振り返った。
今夏のファイナルラウンドの幕開けはあまりにも衝撃だった。初回。慶応の1番・丸田湊斗の打球が高く右方向に飛んだ。打球はそのまま斎藤の頭上を越えてライトスタンドに突き刺さった。
「“最初からライトに来るか!”という感じでした」
打球を見送った当時の心境を率直に吐露する。
「あれで一気にドカンと来た感じはしました。でも、初回なので切り替えられましたし、その後に点が取れた(2回裏に1点を返す)ので良かったとは思います」
「この応援の中でやれるのはむしろ楽しみでした」
丸田の先頭打者本塁打からさらにヒートアップしたスタンドの大声援が「外野を守るたびに耳を突いたのでは?」という質問には、平然とした表情でこう返してきた。
「ライトだから(レフト側の)慶応のスタンドは遠かったので……。応援のイメージはずっとしていましたし、この応援の中でやれるのはむしろ楽しみでしたし、実際に楽しかったです。応援は凄かったけれど、センバツでも経験していますので」
結果的に点差が開いたことも「慶応さんの実力が上でした」と潔く敗戦を受け止めた。
だが、今季の自身の歩みについて触れると、表情は少し曇る。
「この夏まで2度目の日本一を目指してきたので悔しさはあります。2年連続で決勝の舞台に立たせてもらえたことは幸せだったと思いますし、幸せな高校野球だったなとは思えるんですけどね」
優勝旗の“白河の関越え”という歴史的な全国制覇を果たした昨夏の甲子園。2年生が多く、翌年も主力に残る選手が多かっただけに、新チームは常に注目の的だった。当時から4番打者を任されていた斎藤を囲む視線も、以前とは比べ物にならないほど熱くなった。
「でも自分を含めて、追われる立場と思ったことはなかったです。それよりも、『もっと強くならないと』という気持ちの方が強かった。秋は県大会の決勝や神宮で負けもしましたし、はっきり言葉にはしていなかったですが、(主将の山田)脩也が中心になって“チームは常にチャレンジャー”という気持ちでいました」
主将の山田、エースの高橋煌稀、正捕手の尾形樹人ら下級生から試合に出ていたメンバーが多くいる中で、斎藤も1年生の夏から中軸を任され、常にチームの「打の中心」に立ってきた。166cm、72kgの体躯は、ガッチリした体格ではあるが4番打者としては決して恵まれた身体ではない。それでも須江航監督は斎藤を中軸から外すことはなかった。
「速いピッチャー、変化球のいいピッチャー、左の変則、アンダースローなど、どんなピッチャーでも一定の成績を残せる。長打力もないし、見栄えは良くないですけど(苦笑)、苦手なコースはないし、対応力は本物。社会人に行っても長くやれるタイプだと思います」
須江監督は斎藤にこう全幅の信頼を置いてきた。
「大きな体格の選手は羨ましいけれど…」
恩師のそんな声を受けて、本人は嬉しそうな表情を見せながら自身のセールスポイントをこう明かす。
「バットコントロールの能力はある方だと思っています。大きな体格の選手は羨ましいけれど、自分はこの体格で良かったと思っているんです。小さくても自分の持ち味を生かせたらいいし、そう思うからこそバットコントロールを磨くこともできました」
普段の練習から自分の思うスイングを繰り返しできるかを意識し、同じボールをどれだけ同じ方向に飛ばせるかを頭に置き打撃練習を重ねてきた。下級生時からスイングの力強さは評価されており、打球の伸びもチーム内で傑出していた。
だが、バットを振り続けるうちに飛ばしたいという欲も出るようになった。斎藤にとって忘れられないのが、昨冬のオフシーズンのことだ。
「自分に足りないものは何なのかを考えた時、『長打力だ』と思って。ウエイトトレーニングをやっていたんです。でも、長打が出るようなフォームに改良しようと色々試したら、うまくいかなくなって。(オフが明けた)3月の練習試合でなかなか結果が出なかったんです」
不調にあえぐ斎藤は須江監督と面談を重ねた。須江は指揮官としてのアドバイスをいきなり選手に押しつけることはしない。選手に考えさせ、自身が思う最善の方法を導き出す。そこで出た結論が「身の丈に合ったバッティングをした方がいい」ということだった。
「それからは、あえて大きいのを狙わないようにしました」
打撃フォームを急ピッチで固め直すと、3月のセンバツで残した打率は3試合で5割3分8厘。放った7安打は全て単打でも、挑戦して成長を実感できたからこそ、先に進めた。
その直後に行われた4月上旬のU-18日本代表候補選手強化合宿にも選出され、真鍋慧(広陵)、佐倉侠史朗(九州国際大付)ら世代を代表する大型の強打者の動きも間近で見た。「動きや体の使い方がうまいなと。意見交換もして色んな話をしました」と話す武田陸玖(山形中央)とは楽天ジュニア時代のチームメイトでもある。この上ない刺激を受けた2泊3日の合宿も、斎藤にとって濃密な時間だった。
「レベルの高い選手たちと一緒に野球をすることで自分の現在地も分かりましたし、これくらいの選手じゃないと日本一は取れないんだなと思いました」
夏の甲子園は「自分の打撃ができませんでした」というが…?
ただ、センバツをピークに、状態はなかなか右肩上がりとはいかなかったという。
「春から夏の大会にかけて調子があまり上がらなかったんです。修正はかけたつもりだったんですけど……甲子園も初戦(浦和学院戦)でヒットを1本打てば気が楽になると思っていたので、早速2打席目で打てたのは良かったんですが」
そう本人は謙遜するが、終わってみれば甲子園6試合で23打数8安打と、かえってその適応力の高さを見せつける格好になった。決勝戦でも4打数2安打と活躍し、2回にはチームの初安打を放つと、反撃のきっかけとなる1点目のホームも踏んだ。
加えて今夏の甲子園では単打だけだったセンバツと比べて3本の長打を放ち、結果的に求めていた“4番打者らしさ”まで見せられたようにも感じた。それでも当の斎藤は「最後まで自分の打撃ができませんでした」と俯き加減に話していた。それだけ見据えるものが高く、だからこそ仙台育英は強かったのだろう。
「良い時も悪い時も自分は4番を打たせてもらいました。須江先生には色んな声を掛けてもらって支えになりました」
4番打者も様々なスタイルがある。大砲型のスラッガーや中距離ヒッター。はたまたコツコツ安打を稼ぐ繋ぎ役の4番。斎藤はかつて「4番目の打者で」と開き直ったこともあった。自身の体格も踏まえ、自分らしさを確立してきた高校野球。どんな形であれ、打でチームに勝利をもたらしてきたことは確かだ。その積み重ねで2年連続の夏の甲子園のファイナリストまで登りつめたのだから堂々と胸を張っていい。
レベルの高い東都ではなく地元大学を選んだワケは?
卒業後は東都大学野球リーグの名門大学からも声が掛かったが、斎藤はある夢を温めてきた。
「子供が好きで、自分がこれから一番やりたいことは何なのかを考えた時、子供に関わる仕事がしたいと強く思ったんです。今、運動する人が少なくなっているみたいなので、体を動かすことは楽しいっていうことを子供にも伝えられたらいいなって思っているんです」
自分を見て幼い従妹が野球を始めるようになったことも心の底から嬉しかったという。少年野球の指導者――とはっきり決めている訳ではなく、子供の成長を助ける職業に就くことを強く望んでおり、「子ども運動教育学科」のある地元・宮城県の仙台大に進学予定だ。
「もちろん、大学では野球も頑張りたい。でも、そういった職業にも関わりたいので、勉強しながら野球を続けたいです」
何より斎藤は東北が好きで、地元の宮城県に残って何かを残したいという、さらに大きな夢も描いている。
「また、地域の方や宮城の皆さんと喜びを分かち合えるようなことができたらいいです。東北から全国へ、何かを残していけたらいいなと思います」
自宅には甲子園の優勝メダルと準優勝メダルが並ぶ。誇らしくも、ちょっぴり苦さも味わった2年半。だからこそ、夢に向けてどこまでも立ち向かえる。日焼けした精悍な横顔が、そう言っているようだった。
文=沢井史
photograph by Nanae Suzuki