30周年を迎えたJリーグの軌跡に刻まれたブラジル人選手や関係者。彼らに当時のウラ話、そして引退後の今を聞いていく。今回はついにジーコが登場。鹿島アントラーズや日本代表で尽力した日々、ブラジル代表での輝かしいキャリアまで――70歳となった今、NumberWebで縦横無尽に語り尽くす。(全5回の2回目/第1回、第3回へ続く)
ジーコは大ブームとなったJリーグ初年度の1993年、鹿島アントラーズのファーストステージ優勝の原動力となった。しかし94年の年明けに行なわれたチャンピオンシップで、世間が騒然となる出来事が勃発する。
プロとしてあるまじき行為。でも私にも言い分がある
――セカンドステージはヴェルディ川崎が優勝。鹿島とV川崎が、Jリーグ初代王者の座を欠けてホーム&アウェーのチャンピオンシップ(CS)を戦います。2試合とも国立競技場(旧)で行なわれ、第1戦は2−0でV川崎が勝利。第2戦は、前半、鹿島が先制したものの、終盤、V川崎にPKが与えられます。
このとき、考えられないことが起きました。高田静夫主審の笛が鳴ってカズ(三浦知良)がボールを蹴ろうと走り出す直前、あなたがペナルティエリアの中に侵入してボールへ向かって唾を吐いた。高田主審はあなたにイエローカードを与え、これが2枚目だったので退場処分を下しました。30年後の今、あの行為をどう考えていますか?
「私がツバを吐いたのは、ボールではなくボールのそばだった。とはいえ、プロ選手としてあるまじき行為であり、正しくはなかった。でも、私にもいくつかの言い分がある」
――と言いますと?
「まず、CSの2試合がいずれも国立競技場(旧。以下、国立)で行なわれたのは不適切だった。ホーム&アウェーで行なわれるべきだったのに、国立はヴェルディにとって準ホームだった(注:この年、V川崎はホームゲーム18試合中5試合を国立競技場で行なっている)。アントラーズのホームゲーム扱いの試合は、カシマスタジアムで行なうべきだった」
ヴェルディに有利な判定が多かった
――理屈の上では、その通りだろうと思います。ただ、大会主催者であるJリーグは、観客動員数と入場料収入(注:当時の収容人員は、カシマスタジアムが約1万6000人で国立が約6万人)を考えて国立を選んだのかもしれません。
「次に、この試合の主審にヴェルディと関係のあった主審(注:ヴェルディ川崎の前身である読売クラブでプレーした経験があった)を選んだのは間違っていた」
――これはその通りでしょうね。フットボールの、あるいはスポーツ全般の常識として、片方のチームに関係がある人物を審判員に選ぶのはおかしい。
「さらに、日本の審判が強豪や名門に有利な笛を吹く傾向があることは以前から指摘していたが、この試合でもヴェルディに有利な判定が多かった。PKが与えられたプレーも、私の目にはオブストラクションと映った(注:仮にオブストラクションの判定であれば、PKではなく間接FKが与えられたはずだった)。」
――今、動画を見ても、かなり微妙なプレーですね。ただ、高田主審の名誉のために言うと、彼は1986年のW杯で日本人として初めて主審を務め、1990年W杯でも主審を務めた実績があり、1993年のJリーグ最優秀審判に選ばれていました。
「当時の日本では、最高の審判の一人だったのだろう。ただし、あの頃の日本の審判のレベルは決して高くなかった。今とは比べものにならない」
こんなクラブは世界でもあまりないんじゃないかな
――結局、鹿島はJリーグ初年度は準優勝。1994年のファーストステージに兄エドゥーがコーチとなり、あなたは1994年6月に引退してクラブのテクニカル・ディレクターとして強化を担当します。1994年セカンドステージからエドゥーが監督に就任しましたが、2季続いて優勝争いに加わることができず、1995年限りで退任を余儀なくされます。
「なかなか結果は出なかった。それでも、エドゥーは若手、中堅を積極的に起用し、彼らが大きく成長した。彼は、その後、アントラーズが黄金時代を築く土台を作ったと思う」
――1996年にはジョアン・カルロスが監督に就任し、クラブ史上初のJリーグ制覇を成し遂げます。1997年はJリーグでは準優勝ながらJリーグカップと天皇杯で優勝し、1998年にJリーグで優勝すると、2000年はJリーグ、Jリーグカップ、天皇杯の三冠を達成。これまでJリーグを8度、Jリーグカップを6度、天皇杯を5度、アジア・チャンピオンズリーグを1度と計20のビッグタイトルを手にしており、Jクラブ中最多です。鹿島の強さの秘訣は?
「勝利に徹底的にこだわること、チームはファミリーであり、選手はあくまでもチームの勝利のためにプレーすること――。このジーコ・スピリットがクラブ全体に浸透し、なおかつ脈々と受け継がれているからだろう。こんなクラブは日本には他にないと思うし、世界でもあまりないんじゃないかな。
私にとって、Jリーグの創設前夜に日本へ渡り、選手として、またテクニカル・ディレクターとしてアントラーズの発展と強化に携わることができたのは大きな誇りだ」
当初、監督を務めるつもりはなかったが…
ブラジル最大の人気クラブ、フラメンゴで黄金時代を築き、セレソン(ブラジル代表)でも中心選手として活躍したこの世界フットボールのレジェンドは、現在ではJリーグを代表する強豪クラブとなった鹿島アントラーズの土台作りに選手として、またテクニカル・ディレクターとして重要な役割を果たした。結果的に、Jリーグと日本のフットボールの発展にも顕著な貢献をしている。
――当初、なぜ監督としてのキャリアを歩むことに積極的ではなかったのですか?
「私は、フラメンゴで生まれ育った。日本へ来る前、『自分が監督を務めるとしたらフラメンゴ以外にはありえない』と思っていた。愛するフラメンゴと対戦するのは耐え難いからね。
しかし、ブラジルではクラブもメディアもファンも、非常に短期的な視野で結果を求める。フラメンゴで監督を務めても、すぐに最高の結果を出さなければ、ファンから罵倒される。だから、1989年にブラジルで選手生活を終えて以降、監督を務めることは全く考えなかった。
だが1991年に日本へ渡り、最初は住友金属で、続いてアントラーズでプレーし、選手として引退した後もクラブの発展とチームの強化に携わって、強い愛情が芽生えた。だからこそ、1999年後半(成績不振に陥った)チームの緊急事態に際して総監督(注:事実上の監督代行)を務めた」
◇ ◇ ◇
世界フットボールのレジェンドが日本へ舞い降りてから32年、Jリーグが創設されてから30年。この男は、鹿島アントラーズの強化とJリーグの発展に大きく貢献した。
一方、日本代表は日韓2カ国開催の2002年ワールドカップ(W杯)で初めてGSを突破。多くのタレントを擁して「史上最強」と謳われ、2006年大会ではさらなる躍進が期待された。ジーコは2006年6月まで日本代表監督を務めた。しかし、国民の期待に応える結果を残すことはできなかった――。
<第3回に続く>
文=沢田啓明
photograph by Kazuaki Nishiyama