パリ五輪世代連続インタビュー。今回はシント・トロイデンの藤田譲瑠チマに直撃。今夏から活躍の場をベルギーの地に移した万能型MFが21歳までに刻んだキャリアと、自身が見据える将来像とは。《全2回の1回目/後編につづく》
ベルギーのシント・トロイデンに合流して3日後のアンデルレヒト戦には選手登録が間に合わなかったが、その1週間後、8月20日のゲント戦で藤田譲瑠チマはさっそくスタメンに抜擢された。
1カ月前にチームに合流した盟友の山本理仁にはまだ先発の機会が訪れていないことを考えると、順調なスタートだと言っていい。
それまでボランチとして起用されていた伊藤涼太郎が筋肉系のトラブルに見舞われたために巡ってきたチャンスではあった。
だが、それにしてもなぜ、加入間もない譲瑠に白羽の矢が立ったのか――。
ボールを奪おうという意識を評価してくれた
「合流したときから自分の動きが良いことは感じていたんです。監督の戦術をまとめたビデオをまだ見てないんで細かいことはわからないんですけど、守備でどんどんボールを奪おうという意識でやっていたら、監督が評価してくれて。涼太郎くんが外れて、誰が入るんだろうと思っていたら、自分がスタメン組に呼ばれたんです」
対戦相手のゲントは昨季5位の強豪だから、譲瑠の守備力が買われたのは確かだろう。
一方で、シント・トロイデンの練習を見学していて、トルステン・フィンク監督(元ヴィッセル神戸監督)が譲瑠を起用してみたくなった理由がわかった気もした。
甲高い声で絶えず味方に指示を出し、ボールを常に要求する姿は、横浜F・マリノスの久里浜の練習場にいたときと変わらない。ハーフコートゲームでも、最も声を出し、最もボールに絡むのが譲瑠だった。金髪のカーリーヘアと相まって、ついつい目を奪われるのだ。
“冨安・遠藤・鎌田は先発だけで満足してなかった”と
シント・トロイデンから獲得オファーが届いたのは、今年7月のことだったという。かねてから海外でのプレーを熱望していた譲瑠にとって、それは待ちに待った知らせだった。
とはいえ、諸手を挙げて喜べたわけでもない。
「正直なところ、STVVかっていう思いはあって。海外に行くなら、日本人が誰もいないチームにポツンと入って、どれだけやれるか確かめたかったし、行けるんだったら5大リーグに行きたかった。代表の試合でヨーロッパのチームとやって、手応えも掴んでいたんで。もちろん、オファーをくれたSTVVには感謝しています。とにかく自分にとってはまずヨーロッパの舞台に立つことが大事。だから、STVVの理念はすごくありがたいというか。プラスに捉えて、自分にできることをやっていこうと思っています」
元FC東京GMの立石敬之氏がCEOを務めるシント・トロイデンは、日本企業のDMM.comグループが経営権を持つクラブである。2017年11月の買収以降、日本人選手がヨーロッパで飛躍するための足がかりの場となるべく、日本人選手を積極的に獲得してきた。
18年1月に獲得した冨安健洋(現アーセナル)を皮切りに、その数は実に21人。なかでも、クラブの理念を体現するように飛躍してみせたのが、1期生と言われる冨安、遠藤航(現リバプール)、鎌田大地(現ラツィオ)の3人だ。
契約書にサインするとき、譲瑠は立石CEOからハッパをかけられたという。
「その3人はスタメンになるだけでは満足してなかった、と聞きました。だから自分も現状に満足せず、自分を磨き続けていきたいと思っています」
譲瑠がベルギーに来るきっかけとなった一戦
シント・トロイデンが譲瑠を獲得するきっかけのひとつとなったのが、今年3月にスペインで行われたU-21ベルギー代表戦(23歳以下のチーム)だった。
ボランチとしてフル出場した譲瑠は試合後、「8番(アステル・ヴランクス)は本当にレベルが高かった。彼はミランで出ている選手。そういう世界基準を知ることができて、貴重な経験が積めた」と刺激を大いに受けていた。
譲瑠の意識がトップ下のヴランクスに向けられた一方で、その後方に構える選手たちも欧州で名の知れた実力者だった。
3番のマンデラ・ケイタはこの対戦の約2カ月後にベルギーリーグ優勝を決めるアントワープの主力選手。10番のエリオット・マタゾもメガクラブから関心を持たれるモナコの中心選手である。
そんなふたりを、後半からボランチのコンビを組んだ譲瑠と山本が上回り、日本に流れを呼び込んだ。その様子を見たシント・トロイデンの首脳陣が「彼らはベルギーリーグでも通用する」と確信したことが、獲得の一因となったのだ。
「そうなんですか、その話は初めて聞きました。たしかに3番には1回吹っ飛ばされた覚えがあって、10番もうまかった記憶があります。ただ、理仁とのバランス、関係性で上回れた部分もある。理仁とはやりやすいし、そもそも言葉が通じるんで。これが個人で、となったら、もっと難しくなるだろうなと」
4年前のほうが酷かったと思います
むしろ、譲瑠本人が手応えを感じたのは、6月のU-21オランダ代表戦だったようだ。
この試合には、相手と自分の実力差を測るうえでのモノサシがあったのだ。“4年前の対戦経験”という明確なモノサシが――。
東京ヴェルディユースの高校3年生だった19年10月、譲瑠はU-17日本代表としてU-17W杯ブラジル大会に出場した。
その初戦の相手がオランダで、当時対峙したダブルボランチが今年6月のピッチにも立っていた。ひとりは左サイドバックに入った5番、チェルシーのイアン・マートセン。もうひとりは左サイドハーフの10番、アヤックスのケネス・テイラーだ。
さらに言えば、6月の対戦でマッチアップした8番のライアン・グラフェンベルフはバイエルン所属(現リバプール)、11番のジョシュア・ザークツィーは元バイエルンで、2022-23シーズンからボローニャでプレーしている。
「4年前のほうが酷かったと思います。あのときは勝ちましたけど(○3−0)、ずっとボールを持たれていたし、相手のキャプテンの選手(テイラー)もすごく大きく感じた。その当時と比べたら、6月はボールを奪う回数も増えたし、そのまま持ち上がってチャンスシーンもメイクできたから、そういった部分で今回のほうが戦えたなっていう感覚がありますね」
焦りしか感じていなかったですね
昨年9月から続いた欧州遠征で、トップシーンで活躍する同世代に対して負けていないという手応えを得た。自分もヨーロッパでやれるという自信が膨らんでいった。
だからこそ、譲瑠はもどかしくて仕方がなかった。所属クラブでコンスタントに出場できていないという現状が――。
「焦りしか感じていなかったですね。悔しい気持ちでいっぱいでした」
かねてから譲瑠は「25、26歳の頃にはプレミアリーグでプレーしたい」と公言してきた。現在21歳だから、海外挑戦のタイミングとしては悪くないように見える。
だが、譲瑠はきっぱりと否定する。
「いや、遅いですね。遅いと思います。プロ1年目が終わった段階で行きたかったし、2年目が終わって行けるなら行きたかった。何が正解かはわからないですけど、もっと早く来られるんだったら来たかったという思いはあります」
コロナ禍によって失われたU-20W杯の経験
その点で不運だったのは、コロナ禍のために21年に予定されていたU-20W杯が中止になったことだろう。
堂安律や菅原由勢がそうだったように、この大会で活躍し、世界に自分の存在を知らしめることが海外移籍のファーストステップとなるはずだったが、譲瑠たちの世代はその機会を失ってしまったのである。
「アジア予選からすごく楽しみにしていたんです。(U-17日本代表監督の)森山(佳郎)さんから『U-17W杯、U-20W杯、オリンピック、W杯って世界大会に全部出ている選手は数人しかいない』といった話を聞いていて。自分は早生まれだからU-17に最年長で入れて、U-20もオリンピックも年長の世代という一番いいタイミング。そういうことも意識していただけに、残念でしたね」
その一方で、クラブキャリアにおいて躓いてしまったのも確かだった。
20年シーズンにJ2のヴェルディで新人ながら41試合に出場し、センセーショナルなデビューを飾ったものの、その後のJ1での2年半は、コンスタントにピッチに立つことが叶わなかった。
徳島とマリノス時代に味わった悔しさ
とりわけ苦い思い出として譲瑠の胸を疼かせるのは、徳島ヴォルティスに引き抜かれた21年シーズンである。
開幕当初はレギュラーを張っていたが、ダニエル・ポヤトス監督が来日してしばらくした5月以降はサブに降格。シーズン終盤にポジションを奪い返したものの、思い描いたようなシーズンを送れなかった。
「途中から試合に出られなくなって、悔しさとか、練習中に態度に出ちゃって。紅白戦で自分たちサブ組が勝ったのにメンバーが変わらなくて『なんでだよ』とか。シーズン終了後、監督から『お前のああいう姿は見ていたよ』みたいな話をされて、もう、思い当たる節だらけで(苦笑)。試合に出られないときにどう過ごすのか、すごく学べたシーズンでしたね。練習前の準備もしっかりやるようになったし、自分の体と向き合って、エクササイズを始めたのもこの頃からなので」
王者・横浜F・マリノスにステップアップした22年は、6月にU23アジアカップに参戦すると、7月には日本代表に初選出され、E-1選手権にも出場する。
……と、ここまでは順調だったが、代表活動でチームを離れていた期間が影響したのか、連係を成熟させていった喜田拓也と渡辺皓太の前に、次第に出場機会を減らしてしまう。
その傾向は今シーズン、F・マリノスが新たな戦術を採用したことで拍車がかかった。
センターバックとボランチが近い距離でパス交換しながら、相手のプレスを引きつけてひっくり返す――三笘薫擁するブライトンを思わせるビルドアップにおいて、ボランチのふたりには絶妙な立ち位置と角度、ワンタッチでのパス交換が求められる。
阿吽の呼吸を築く喜田と渡辺のコンビに、譲瑠は割って入ることができなかった。
「ふたりの息はぴったりで、ふたりがいるからマリノスの結果があると言っても過言ではないくらい、バランスがすごくいい。このままだったら追い越せないだろうなって感じたし、環境を変えて、違うところで追い越したいっていう気持ちがありました」
次の目標を意識しながら継続して試合に出られれば
ベルギーでの飛躍を思い描く譲瑠の中にあるのは、確かな成功体験である。
ヴェルディユース時代は高校2年生までBチームの一員で、Aチームの練習中はグラウンドの隅に追いやられるという不遇を味わった。
だが、高校3年生になる直前に試合出場のチャンスを掴むと、そこから一気に駆け上がっていく。
わずか半年後にはU-17日本代表として世界の舞台に立ち、さらに半年後にはトップチームのレギュラーの座を掴み、プロ1年目を駆け抜けたのだ。
みるみるうちに自信が膨らみ、周りの環境も、見える景色も次々と変わっていった。
「試合に出るだけじゃダメだけど、次の目標をしっかり意識しながら継続して試合に出られれば、ヴェルディのときのような感じで、どんどん上に行けるんじゃないかって」
続けて使ってもらえたら、どんどん研ぎ澄まされていく
実際、F・マリノスでも連続起用されたときには、結果を残したという自負がある。
5月14日のアルビレックス新潟戦でのゴールは連続スタメンの3試合目、7月8日の名古屋グランパス戦でのゴールは連続スタメンの2試合目だった。
「当たり前ですけど、試合での成長曲線は桁が違うというか。続けて使ってもらえたら、どんどん研ぎ澄まされていく感覚があるんです」
今、譲瑠の目の前には天上へと伸びる階段がある。一段、一段をしっかりと踏みしめ、力強く昇っていければ、プレミアリーグという目標にたどり着ける予感がある。
ところで、英国でプレーするというキャリアプランは、いかにして設定されたのか。
記憶は、10年前に遡る。
<後編に続く>
文=飯尾篤史
photograph by Atsushi Iio