30周年を迎えたJリーグの軌跡に刻まれたブラジル人選手や関係者。彼らに当時のウラ話、そして引退後の今を聞いていく。今回はついにジーコが登場。鹿島アントラーズや日本代表で尽力した日々、ブラジル代表での輝かしいキャリアまで――70歳となった今、NumberWebで縦横無尽に語り尽くす。(全5回の4回目/第1回、第2回、第3回から読む)

 一度、ブラジルで引退した後、日本で現役に復帰して、Jリーグ創世期の最大のスターとして発展に貢献。鹿島アントラーズの強化に携わった後、日本代表の監督を務めた。その後、第三国の多くのクラブや代表の監督を務めた後、再び鹿島の強化に携わってきた。

 この世界のフットボールの歴史に燦然と輝くレジェンドは、どのように育ち、選手としてのキャリアを過ごしてフラメンゴとセレソン(ブラジル代表)のスターとなったのだろうか。

 本人の話を聞くうち、輝かしい栄光の裏で、実は幾多の困難を乗り越えてきたことがわかってきた――。

家族のアドバイスと手助けを受けていなかったら…

――先日、元々はご両親の家で、あなたが生まれ育ち、今は兄エドゥーが住むキンチーノ(リオ北部)の家で、エドゥーにインタビューしました。6人きょうだいで、男5人のうち4人がプロ選手になったフットボール一家。互いに助け合ってキャリアを歩んでおり、きょうだいの結びつきが非常に強いことがよくわかりました。

「私は、両親の深い愛情を受けて育った。そして、フットボールにおいても人生においても、長男ゼッカ、次男ナンド、三男エドゥーの背中を見ながら育った。幼年時代、少年時代に彼らのアドバイスと手助けを受けていなかったら、その後、私が選手として大成することはなかったはずだ」

――9歳で両親に連れられてポルトガルから移住した父親は、フラメンゴの大ファン。子供たちを連れてマラカナン・スタジアムへ通い、フラメンゴを熱烈に応援した。彼の影響で、家族中がフラメンゴファンになったそうですね。

「そうなんだ。僕は、フラメンゴの名MFジッダに憧れた。家の前の通りで、そして父親が敷地内に作ったフットサルコートで、兄弟や近所の子供たちとボールを追いかけて技術を磨いた。みんなうまかったから、いつも大勢の大人たちが見物していた(笑)」

日本では「ジーコ」だけど正しくは「ズィーコ」?

――あなたの名前は、日本では「ジーコ」と発音されてそのように表記されるわけですが、ポルトガル語の発音をできるだけ正確に日本語で表記すると「ズィーコ」となります。あなたのファーストネームであるアルトゥールから派生したニックネームだそうですね。

「アルトゥールが『アルトゥールズィーニョ』(小さいアルトゥール)となり、語尾がなまって『アルトゥールズィーコ』へ変化した。そして、あるとき従妹のエルメリンダという女の子が『ズィーコ』と言い出し、以来、皆がそう呼ぶようになった」

――ブラジルにおけるあなたのフットボールネームはもちろん「ズィーコ」ですが、「ガリーニョ・デ・キンチーノ」(キンチーノ地区の小さな雄鶏)というニックネームも一般的です。

「フラメンゴでデビューしたての頃、私は若くて長髪でよく走った。それを見て、ヴァウジール・アマラウという有名なラジオのアナウンサーがこう呼んだんだ。以来、『ガリーニョ』、『ガロ』(雄鶏)とも呼ばれるようになった」

物心ついた時には、ボールを蹴っていた(笑)。

――「ジーコが特別な才能の持ち主であることにいつ気づいたのか」とエドゥーに聞いたら、「彼が生まれたときだ」と言っていました。

「ハハハ、それはどうかな」

――ボールを蹴り始めたのはいくつのときでしょうか?

「家の中でボールを蹴ったのは、多分、2、3歳頃かな。物心ついた時には、もうボールを蹴っていた(笑)」

――ゼッカはフルミネンセ、エドゥーはアメリカFCのアカデミーに入り、やがてプロになりましたね。あなたも、幼い頃からプロを目指したのですか?

「いや、そういうわけでもない。幼い頃はとにかくフットボールが大好きで、『うまくなりたい』という一心で無我夢中でボールを蹴っていた。14歳でフラメンゴのアカデミーのテストを受けて合格し、練習場などでフラメンゴのスター選手を間近に眺めるようになった。その頃から、『自分もフラメンゴでプロ選手になりたい』と思うようになった」

「ジーコ・プロジェクト」肉体改造の舞台ウラ

――ただし、テクニックと創造性は飛び抜けていたが、小柄で痩せていて、フィジカルコンタクトに弱かった。そこで、17歳のときに「ジーコ・プロジェクト」と呼ばれた肉体改造を始めたのですね?

「その通り。ただ、実を言うと、このプロジェクトはフラメンゴがクラブとして行なったものではない。フラメンゴで仕事をしていたドクター、理学療法士、フィジカル・トレーナーらが私の才能を見込んで、当時彼らが関係していた医療施設などを無償で使わせてくれた。また、当時、クラブの役員だったジョルジ・エラル(注:後に会長)が自費で交通費や食費を援助してくれた」

――この肉体改造計画は、相当にハードだったようですね。

「朝5時半に起き、鉄道とバスを乗り継いで市の南部にあるフラメンゴのクラブへ行ってU-17の練習に参加し、バスで市のセントロ(ダウンタウン)にあった高校へ行って授業を受け、それからまたバスに乗ってフィジカル・トレーナーが関係していたスポーツジムで筋肉トレーニングを受けた。その間、毎日、栄養たっぷりの食事を5回摂った。

 これを3カ月続け、1カ月ほどインターバルを置いてからまた3カ月続けた。効果はてきめんで、体がみるみる大きくなり、筋肉もついた」

ポケットマネーで援助してくれた恩人への感謝

――当時、メディアはあなたのことを「サイボーグ選手」と呼びました。肉体強化の効果は?

「フィジカルコンタクトでも負けなくなり、自分の技術をもっと有効に発揮できるようになった」

――ただ、このジーコ・プロジェクトの前後も、クラブへ練習に行くための交通費や食費が払えず、練習へ行けない日もあったと聞きました。あなたのお父さんは非常に優れた紳士服の仕立て屋で、有名人も顧客にいたと聞きました。また、上の兄3人もプロ選手だったわけですが――。

「当時のプロ選手は今とは比較にならないくらい給料が少なく、自分が生活するので精いっぱいだった。また、子供が多かったから、父も一家を養うのは大変だった。そこで、ジョルジ・エラルがポケットマネーで援助してくれた。彼のお陰で、僕は選手として成長し、1971年、18歳でフラメンゴとプロ契約を結ぶことができた」

78年W杯はレギュラーではなかったが自信になった

――以来、たちまちレギュラーになり、やがて中心選手。1972年と74年のリオ州選手権優勝に貢献し、25歳で1978年のW杯に出場。チームは1次リーグを突破し、2次リーグで地元アルゼンチンと勝ち点で並んだものの、得失点差で及ばず2位。3位決定戦でイタリアを下して、3位でした。

「当時としては非常に先進的なフィジカル・トレーニングと戦術練習を課したクラウジオ・コウチーニョ監督がコンペティティブなチームを作ったが、わずかに及ばなかった。個人的には、完全なレギュラーではなかったものの6試合に出場(注:1得点)できたことは自信になった」

旧・国立でのトヨタカップ優勝は生涯の誇りだ

――1981年にはコパ・リベルタドーレスで優勝し、東京で行なわれたトヨタカップに南米代表として出場します。欧州王者のリバプールに3-0で快勝。全得点にからんだあなたが試合のMVPに選ばれました。

「超満員の国立競技場(旧)で、素晴らしい雰囲気の中での試合。我々は、持ち味である攻撃的なスタイルで得点を重ねた。世界クラブ王者となった気分は最高。クラブの歴史に永遠に残る快挙であり、私の生涯の誇りだ」

 1978年に最初のW杯を経験し、1981年に愛するフラメンゴをクラブ世界一に押し上げた。円熟期を迎え、世界のスーパースターとなった背番号10は、以後のW杯2大会で優勝を目指した――。

<第5回に続く>

文=沢田啓明

photograph by Mark Leech/Offside-Getty Images