30周年を迎えたJリーグの軌跡に刻まれたブラジル人選手や関係者。彼らに当時のウラ話、そして引退後の今を聞いていく。今回はついにジーコが登場。鹿島アントラーズや日本代表で尽力した日々、ブラジル代表での輝かしいキャリアまで――70歳となった今、NumberWebで縦横無尽に語り尽くす。(全5回の5回目/第1回、第2回、第3回、第4回から読む)

 名将テレ・サンタナが率いるセレソン(ブラジル代表)が、創造性溢れる攻撃的スタイルで1982年と1986年のワールドカップ(W杯)に挑んだ。その中心に、背番号10のこの男、ジーコがいた。

あの試合に限っては、攻守両面でミスが…

――1982年W杯に出場したセレソンは、あなた、ソクラテス、ファルカン、トニーニョ・セレーゾの「黄金の4人」が華麗なテクニックと豊かな創造性を発揮し、世界中のファンを魅了しました。ソ連、スコットランド、ニュージーランドと同居した1次リーグを全勝で勝ち上がり(注:ジーコは3試合で3得点の大活躍)、2次リーグでも若きマラドーナを擁するアルゼンチンにあなたの先制ゴールなどで3−1と快勝。アルゼンチンに1点差で勝ったイタリアとの対戦で、引き分け以上で準決勝へ進めるという有利な状況でした。ところが、FWパオロ・ロッシにハットトリックを許し、2−3で敗れ去ります。あれだけ素晴らしいタレントを集めたチームが、なぜ敗れたのでしょうか?

「あの試合に限っては、攻守両面でミスが多かった。W杯で、しかもイタリアのような強豪と対戦した場合、わずかなミスも見逃してはもらえない。

 ただし、誰かの個人的なミスのせいで負けたと言いたいわけではない(注:1−1で迎えた前半25分、MFトニーニョ・セレーゾが中盤で不用意な横パスを出してロッシにさらわれ、勝ち越しゴールを許した。試合後、ブラジルではセレーゾが“戦犯”として吊し上げられた)。いつも言うように、フットボールはチーム全員で戦い、チーム全員で勝ち、チーム全員で敗れるんだ。

 とはいえ、絶対に優勝できると信じていただけに、敗退したショックは大きかった」

セリエAでのプレーは貴重な経験となった

――1983年、30歳でイタリアの中堅クラブ、ウディネーゼへ移籍します。そのいきさつは?

「当時、フラメンゴは財政難に陥っており、会長は私を外国のクラブへ売り渡すことでクラブの危機的状況を一気に好転させようと考えていた。本音を言うと、移籍したくはなかった。しかし、クラブが置かれた状況を考えて、最終的に移籍を受け入れた。

 ウディネーゼのサポーターは、私を熱狂的に歓迎してくれた。2シーズンだけではあったが、ベストを尽くした。当時のイタリア・セリエAは世界最高のリーグであり、そこでプレーしたことは自分にとって非常に貴重な経験となった」

――1985年7月、古巣フラメンゴへ復帰します。ところが、その翌月、リオ州選手権のバングー戦で相手選手から両足での飛び蹴りタックルという無茶苦茶なファウルを受け、右膝を故障。治療を受けます。

「9月下旬に復帰したが、今度は左膝を痛め、また治療とリハビリの日々を送った」

両膝の状態は万全ではなかった

――セレソンには、1986年4月末のユーゴスラビア戦で復帰。美しいゴールでハットトリックを記録します。

「実は、この試合でも両膝の状態は万全ではなかった。5月末にW杯が始まるので、何とか間に合わせようと無理をしてプレーしたんだ。

 ところが、W杯前最後のチリ戦で、また左膝を痛めた。自分では、W杯でプレーするのは無理だと思い、テレ・サンタナ監督にそのように伝えた。しかし、監督から『君はとても重要な選手だから、何とか故障を治し、短時間でもいいからプレーしてくれ』と懇願され、無理を押してW杯へ出場することになった」

――W杯では、グループステージ(GS)のスペイン戦とアルジェリア戦を欠場します(注:セレソンは、いずれも1−0で勝利)。

「本当は、アルジェリア戦に先発することになっていた。しかし、練習中にまた左膝を痛めてしまい、再び治療とリハビリの日々に逆戻りさ」

――GS最後の北アイルランド戦の後半23分、ようやくピッチに立ちます。

「まだ痛みはあったが、我慢しながらプレーした(注:セレソンは3−0で快勝)」

――ラウンド16のポーランド戦も、後半24分からの出場でした。

「私は、それまでのキャリアで後半途中から出場したことなどなかった。できれば先発して、膝が耐えられる限り、プレーしたかった。しかし、サンタナ監督は私を後半途中に投入すると決めていたようだった」

伝説のフランス戦とPK失敗、その真相とは

――そして、準々決勝で中盤にミシェル・プラティニ、アラン・ジレスらの名手を擁するフランスと対戦します。この試合は私もスタンドで観戦していたのですが、両チームとも高度なテクニックを発揮して積極的に攻め合う素晴らしい試合でした。

 1−1の状況で迎えた後半26分、あなたがピッチに入るとスタンドは大歓声。あなたは最初のプレーで左SBブランコへ絶妙のスルーパスを送り、ブランコがフランスのGKジョエル・バツに倒されてPK。あなたがボールを持ったのですが、MFソクラテスと何やら話をしていました。

「私がボールを手にしたのは、自分が蹴るためではなかった。ソクラテスにボールを渡し、彼に蹴らせるつもりだった。彼がチームのPKキッカーだったからね。ところが、彼は『ガリーニョ、君が蹴ってくれ』と言うんだ。それで、私が蹴ることになった」

―後に、やはりこの大会に出場していたFWカレッカが、「チームの全員が、ジーコの度重なる故障との戦いと長いリハビリの日々を知っていた。だから、皆、ジーコがPKを蹴って決めてほしいと思っていた」と語っています。

「みんながそういう気持ちでいてくれたことは、本当に嬉しい。素晴らしい仲間たちだ」

――ところが、美談では終わらなかった。あなたのキックは、GKバツに阻まれてしまいます。コースはゴールのやや右で、決して悪いキックではなかったが、名手バツの反応が素晴らしかった。

「ピッチに入ったばかりで、まだ体が温まっていなかったんだろうな。もっと強く蹴るべきだった、という反省がある」

86年は4年前と別の意味で虚しさを覚えた

――結局、規定の90分間を終えて1−1の同点。延長戦に入り、両チームともチャンスを作りますが、互いのGKの好守もあって得点には至らない。PK戦に突入します。ブラジルは、最初のキッカーのソクラテスが失敗。あなたは3人目に蹴り、今度は成功させます。試合中のPKを失敗していて、不安はなかったのですか?

「このときは体が十分に温まっており、落ち着いていた。GKの逆を突いて、強いシュートを決めた」

――フランスも、4人目のプラティニが失敗。これで3−3となりましたが、ブラジルは5人目のCBジュリオ・セザールが失敗。フランスは、MFルイス・フェルナンデスが決め、フランスが4−3で勝利。セレソンが敗退します。試合中にあなた、PK戦でソクラテスとプラティニという名手がPKを失敗するという不思議な試合でした。

「1982年大会の敗退も非常に残念だったが、1986年大会は故障に泣かされた。別の意味で、虚しさを覚えた」

――試合内容は、ブラジルがやや優勢だったと思います。

「そうだね。私が後半のPKを決めていたら、勝っていただろう」

プロの世界では、結果がすべてだ

――あなたは、セレソンで公式戦70試合以上に出場した選手の中で、1試合当たりの獲得勝ち点が最も多い。77試合に出場して56勝18分3敗で、1試合平均の勝ち点は2.44。これは、ペレとドゥンガの2.33を上回ります。

 また、W杯では、3大会に出場して敗れたのは1982年大会のイタリア戦だけ(注:延長、PK戦の末の敗戦を引き分けとカウントすると、チーム成績は12勝4分1敗)。にもかかわらず、W杯で1度も優勝していないことから、ブラジルでは「大舞台で力を発揮できなかった」という批判があります。

「プロの世界では、結果がすべてだ。自分としては、出場したW杯3大会すべてにおいて死力を尽くした。いずれの大会でも優勝を逃した以上、批判を受けるのは仕方がない」

夢見ていた以上のキャリアを送ることができた

――1986年W杯準々決勝のフランス戦が、代表での最後の公式戦となりました。そして、1989年3月、かつて在籍したウディネーゼのホームスタジアムで、あなたのセレソン引退試合として世界選抜と対戦します。セレソンではFWのロマリオ、カレッカ、MFドゥンガら、世界選抜ではユーゴスラビア代表MFドラガン・ストイコビッチ(後に名古屋グランパス)、コロンビア代表MFカルロス・アルベルト・バルデラマら錚々たるメンバーが出場しました。

「世界各国のスター選手が、私のために集まってくれた。スタンドを埋め尽くした観衆が、試合の間中、私の名前を連呼してくれた。最高に幸せな夜で、『フットボールをやってきて本当に良かった』、『自分は幸せ者だ』とつくづく思った」

――名門フラメンゴで、非公式試合を合わせると732試合に出場してクラブ史上最多の508得点。セレソンでは、公式戦71試合に出場して歴代5位の48得点。W杯3大会に出場し、14試合に出場して5得点。鹿島アントラーズでもレジェンドとなり、日本代表を率いてW杯に出場しました。自分のキャリアを振り返って、どのような感慨を抱きますか?

「子供の頃から憧れていたフラメンゴでプロになり、主力として活躍し、クラブ南米王者、世界王者となった。代表で世界の頂点を極めることができなかったのは残念だが、幼い頃に夢見ていた以上のキャリアを送ることができたと考えている」

ジーコと友人だけがプレーするためだけのコートがある

 CFZ(ジーコ・フットボール・センター)の一角に、彼が友人とプレーするためだけに作られたコートがある。

 2005年以降、毎年末にかつてのスター選手や現役選手に声をかけてマラカナン・スタジアムでチャリティー・ゲームを主催する。数万人の観衆の前で、自らも嬉々としてプレーする。

 生まれてからすぐにボールを蹴り始め、70歳の今も変わらずボールを蹴る――。彼は数億人の中からフットボールの神様に選ばれ、自らもレゾン・デートル(存在意義、存在理由)としてフットボールを選んだのだ、と感じた。

<第1回から続く>

文=沢田啓明

photograph by AFLO