40歳での鮮烈なFA宣言、巨人へ電撃移籍した落合博満……1993年12月のことだった。
あれから30年。巨人にとって落合博満がいた3年間とは何だったのか? 本連載でライター中溝康隆氏が明らかにしていく。第4回(前編・後編)は、その巨人FA移籍という“事件”を検証する。「40歳の四番バッターに期待するなんて…」「3億円の値打ちはないよ」落合移籍を巡る狂騒。【連載第4回の後編/前編へ】
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<1993年11月、テレビの生放送中に落合博満はFA宣言することを突然表明。周囲を驚かせる。そのウラ側にあったものとは?>
落合「生放送でなければならなかったんだ」
「新聞記者の人を集めてやれば、いろんな書き方が可能だし、誤解されたり曲解されたりして、自分の真意が正しく伝わらない可能性があるでしょう。それより自分の肉声が出せるテレビの方がいいだろうと。同じテレビでも生放送でなければならなかったんだ。編集されてしまう録画では駄目だったんだ」(激闘と挑戦/落合博満・鈴木洋史/小学館)
驚くべきことに落合は、まだスマホどころかインターネットも普及していない時代に、現代のアスリートが自身のSNSから意見を発信する感覚で、あえてテレビの生放送という舞台を選んで、自らの言葉でFA宣言してみせたのである。
「これは、もうほとんど女房の意志(笑)。日本で初めて1億円プレーヤーになり、2億、3億もトップを切ってきた。年俸調停もやった。そうやって選手のステイタスを向上させてきた私が、なぜFAの時だけ尻込みするのかってね。そうしたら、長嶋さんが周囲の反対を押し切ってまで私の獲得に動いてくれた。憧れの長嶋さんに誘われたら、やるしかないだろう……みたいな気持ちはあったね」(『日本プロ野球トレード大鑑』/ベースボール・マガジン社)
球界OBが猛批判「3億円の値打ちはない」
一見、相思相愛のようにも見える長嶋と落合の関係性だが、世間やファンは12月で40歳の大台に乗るスラッガーの獲得には、懐疑的だった。特に球界OBたちからは、オレ流バッシングにも近い猛烈な批判が巻き起こる。
落合が表紙を飾る週刊ベースボール93年12月20日号では、「40歳の四番打者に期待する巨人そのものに最も大きな病巣がある!!」という特集記事が掲載された。
「“オレ流”を認めるのかどうかとか、チームにすんなり溶け込むために、中畑コーチが間に立つとかいわれている。でも、入る前からそんな心配をしなければならない選手を迎えるということ自体がおかしい」(元巨人ヘッドコーチ高田繁)
「あと3年から5年、年齢が若かったらチーム作りとしてはプラスでしょうが、もうあのトシですからね。まして長嶋監督は“スピード野球”を売り物にしているわけだから、もっと違う補強があったのでは。ちょっと残念ですね。中、長期的にチーム作りを考えたら、間違いなく後退だと思いますよ」(中日OB谷沢健一)
第一次長嶋政権初年度、最下位に終わったチームを変えようと張本勲をトレード獲得したように、今度は落合にその役割を託すという論調に対しては、当の張本本人が「とにかく死にもの狂いでやるしかない。“オレ流”の調整法などといっている場合じゃないと私は思いますよ。もう相手投手も弱点は十分わかってますから」なんてバッサリ。前年度の年俸2億7000万円の1.5倍となる、球界最高給の推定年俸4億500万円には、「3割30本は打ってもらわないと周りも納得できないんじゃないですか」(松沼雅之)、「今年の落合の成績を見てもわかるように、とても3億円の値打ちのあるような選手じゃない」(山崎裕之)と散々なものだった。
背番号問題も…みんな“冷たかった”
喧噪の中で、11月24日に中日と残留交渉に臨み、条件提示もされたが「他の球団の話も聞きたい」と落合は態度を保留。根本陸夫監督率いるダイエーも獲得に興味を示したが、巨人サイドは万全を期し、長嶋監督を常務取締役・編成担当とする緊急人事を断行する。
12月9日、東京・六本木の全日空ホテルで、落合の40歳の誕生日に巨人との初の入団交渉が行われた。
このとき、問題になったのは背番号である。和歌山県太地町でオープンする落合記念館のロゴや六角形の建物は「6」にちなんだもので、当然プロ入り時から背負ってきた「6」に愛着はある。だが、巨人の背番号6はベテランの篠塚和典が長年に渡りつけている。86年にはロッテ時代の落合との複数トレード報道で名前が挙がり、「6を他人に譲るときはユニフォームを脱ぐとき」と公言する篠塚にも、意地があった。
ミスター自身が永久欠番の3番を譲ってでも……という報道もあったが、12月13日、長嶋監督と信子夫人の電話会談により、球団創立60周年の第60代四番打者ということで、「60」に決定。なお、信子の父親は巨人ファンで生前、実家に挨拶へ来た落合に対して、「駄目だ、駄目だ、巨人じゃなきゃ」と娘へのプロポーズを一度は断るほどだったという。いわば、落合家にとっても大願成就である。それでも、周囲の反応は冷ややかなものだった。新しい同僚のほとんど誰からも歓迎されず、味方であるはずの球団OBからも、総攻撃を受けたのだ。
だが、皮肉にも、これにより名古屋の居心地の良さの中で、スポイルされ消えかかっていた落合の反骨の炎に再び火がついた。埃っぽい東芝府中のグラウンドや、客のほとんどいないロッテの二軍戦で、「今に見てろよ、お前ら」と汗と泥にまみれたあの頃と同じように、40歳の四番打者は、まず他球団ではなく、自チームに対して、己の力を証明する必要があった。
93年12月21日、入団発表で真新しいユニフォームに袖を通し、YGマークの帽子を被せてくれた隣の長嶋監督と握手を交わし、「巨人・落合」が誕生した。
こうして、落合博満と巨人軍の3年間に渡る戦いが始まるのである。
<前編《まさかのテレビ生放送》編から続く> ※次回掲載は10月8日(日)予定です(月2回連載)。
文=中溝康隆
photograph by JIJI PRESS