東京五輪で日本初の銅メダルを獲得したバドミントン・ミックスダブルスの東野有紗。中学時代に結成した渡辺勇大との“わたがしペア”は、いまや大きな注目を集める存在となった。来年のパリ五輪では悲願の金メダルへの期待もかかる東野に、直撃インタビューを行った。《NumberWebインタビュー1回目/全3回》
東京五輪のバドミントン・ミックスダブルスにおいて、同種目日本史上初の表彰台となる銅メダルを獲得したのをはじめ、渡辺勇大と東野有紗は、いくつもの「史上初」を刻み、新たな歴史を築いてきた。
それは成績にとどまらない。他種目と比べ認知度の低かったミックスダブルスの地位を押し上げた点も特筆される。
図抜けたコンビネーションを武器とする2人は、どのように歩んできたのか。
アジア大会から帰国直後、早くも次の遠征に向けて練習に励む東野有紗を訪ねた。
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「世界でいちばん長いと思います」
東野有紗は笑う。
2人が最初に組んでから10年を超え、世界上位でプレーするペアの中では最も長い年数を誇る。
北海道岩見沢市に生まれ育った東野と、東京で生まれ育った渡辺が出会った場所は、福島県富岡町だった。
バドミントンは「やりたくなかった。全然羽根も当たらないし」
東野は小学1年生のとき、バドミントンを始めた。
「親は本当は陸上をやらせたかったんですけど陸上のチームが小学校3年生からしか入れなくてバドミントンに。でもやりたくなかったです。全然羽根も当たらないし、楽しくなくて」
それでも練習し、大会に出て結果も残せるようになるとバドミントンが楽しくなっていった。
ジュニアのナショナルチームにも呼ばれるまでになった東野は、小学校を卒業するにあたって1つの決断をする。岩見沢を離れ、福島県の富岡町立富岡第一中学校へ進学することだった。県立の富岡高校とあわせ、中高一貫でバドミントンの強化に取り組んでいた公立学校だ。2011年の原発事故ののち、紆余曲折を経て現在はふたば未来学園中学・高校に引き継がれている。
「自分は行きたくなくて、お父さんも行ってほしくないと言っていたんですけど、お母さんが『行け』と」
そこには全国からそうそうたる生徒が集まっていた。
「ジュニアナショナルのときにいた子たちと同じ学校でプレーするとなって、強くなれるのかな、自分だけ弱いままで終わらないかなっていう不安でいっぱいでした」
渡辺勇大との出会いは「余り者同士」のペア
そのとき、バドミントンへの向き合い方を変える転機があった。
「先輩と(女子)ダブルスをやらせてもらって、バドミントンの楽しさが広がりました。シングルスだと自分がミスしたら自滅して負けて終わりだけど、ダブルスはパートナーの力もプラスされて、自分が駄目でもパートナーが助けてくれたりするのがすごく楽しくて。自分1人の力じゃなく、力を合わせてやる種目ってすごく楽しいなって思えました。ダブルスの道だったら上を目指せるんじゃないかなって、ちょっとずつ不安は解消されたと思います」
1人じゃない楽しさを知ったとき、もう1つの転機があった。中学3年生のとき、富岡高校・富岡一中の合同でインドネシアに遠征する。当地での大会でミックスダブルスに出場する際、組んだのは渡辺だった。
東野は「余り者同士」と表現する。
「男女、強い者同士で組まされるじゃないですか。余った2人、最後に監督から発表されたのが私たちだったんです。監督は『そんなことない』って言ってたけれど(笑)。悔しさ? なかったです。すごい先輩と組まされるよりはいいかなと」
渡辺との第一印象「喋れない…どうしようみたいな感じでした」
渡辺は1年後輩だった。
「勇大くんが入学してきて、最初に会ったときのことは覚えてないです。めちゃめちゃ細くてちっちゃかったのと、あまり喋らない子だなっていうイメージでした」
組むことが決まっても、会話はあまりなかった。
「他の人たちは仲良くしているけれど、喋れない、どうしようみたいな感じでした」
なかったのは会話だけではなかった。
「まったく練習もしてなくて、ほんとうにぶっつけ本番くらい」
ところが出場した大会で、先輩たちや同年代のペアよりも好成績をあげたのだ。
「そのとき、勇大くんは腰を怪我していました。それなのにこんなにうまくいくんだ、お互いに無駄な動きがなくてスムーズにローテーションできるんだ、と思いました」
説明できない“相性の良さ”「奇跡ですね」
試合の中で交わした言葉も「『ナイス!』くらいしかなかったんじゃないかな」。練習したわけではなく、試合前や試合中に意思疎通を積極的に図ったわけでもない。でも、結果を残せた。東野も要因を分析することは困難だという。
だからひとこと、こう表す。
「奇跡ですね」
説明はつかない。それでもたしかな感触があった。プレーが合う、相性のよさだった。
東野は富岡一中を卒業し、富岡高校に進む。シングルス、女子ダブルスでも大会に出場し、高校選抜の女子ダブルスでは、シングルスの日本代表として現在も活躍する大堀彩と組んで優勝したこともある。
1年後、渡辺が富岡高校に入学。渡辺と出場した国際大会は、中学生の頃に感じた感触を確信に変化させた。2014年の世界ジュニア選手権だ。東野は渡辺と出場し、銅メダルを獲得したのである。
「そのとき、初めてミックスダブルスで世界で戦っていきたいと思いました」
2012年のロンドン五輪に池田信太郎と潮田玲子が出場し、ミックスダブルスへの関心が高まったあとでもあった。
「池田さん、潮田さんはレールを作ってくれて、ミックスダブルスの自分たちもできるんだって思わせてくれていた存在だったので、ミックスダブルスで金を獲りたいなって思っていました」
高校卒業後も、東野は渡辺を誘い続けた
高校を卒業すると日本ユニシス(現BIPROGY)に入社する。
「タカマツさん(高橋礼華、松友美佐紀)だったり、栗原(文音)・篠谷(菜留)さんだったり、すごいメンバーがそろっている中で、こういう方々みたいになりたいと思って入りました」
一方で意識していたのはミックスダブルス――渡辺の存在だった。
「自分がこの場所で頑張っていたら勇大くんも来てくれるんじゃないかなと思っていました」
思っているだけにはとどまらなかった。
「1年間頑張って誘い続けました。どういう風に誘ったか覚えていないですけど、入ってほしい、みたいな感じで」
高校を卒業する前、渡辺と先々について深く話したことはなかったという。
「『またミックスしようね』くらいな感じだったかな。勇大くんは卒業生に向けて書くメッセージで『またミックスしましょう』みたいなのを書いてくれてました。お互い、軽くそんな感じであった程度で、本当にちゃんとやりたいなって考えて発信したのは入社して、自分からです」
やがて渡辺は日本ユニシス入社を決意する。その報告は――。
「覚えてないんですよ(笑)。あったかもしれないですけど」
日本ミックスダブルス史上初の奇跡
女子ダブルスと並行して、渡辺とともに念願だったミックスダブルスに打ち込んだ。その初年度の2017年3月には格式の高い全英オープンで3位と大きな成果をあげた。
だが右肩上がりというわけにはいかなかった。その後の国際大会では結果を残せず8大会でわずか1勝、初戦敗退を繰り返した。
「大会を回らせてもらっても全然勝てなくて。壁にぶち当たっていましたね」
2018年1月のマレーシアマスターズ、インドネシアマスターズでも初戦敗退。だが迎えた同年3月の全英オープンで、流れは一変する。渡辺と東野は優勝を果たしたのである。日本ミックスダブルスでは史上初のことであった。
「本当に奇跡ですよね」
東野は再び「奇跡」と表現するが当時の世界ランキングは48位。初戦から格上のシードペアと戦い、勝ち抜くことができた背景には何があったのか。
きっかけは、お互いの関係を見つめ直したことだった。
(続く)
文=松原孝臣
photograph by L)Asami Enomoto、R)JIJI PRESS