元男子バレーボール日本代表監督・中垣内祐一氏(56歳)のインタビュー第2回は、現在の“意外すぎる姿”に迫りました。「大学教授」と「米農家」を両立する忙しい毎日とは?【前編「頑固者ブラン招聘のウラ話」編から読む】。
「ふくむすめ」と「ピカツンタ」
何の話だ。そう言われても仕方ない。どちらも米の名前だ。
「ピカツンタ」はコシヒカリをベースに、「ふくむすめ」はミルキークイーンとピカツンタを掛け合わせて開発された新品種で、福井市内のスーパーに並ぶ新米の製造者欄には、こう記されている。
『中垣内祐一』
一瞬、目を疑う。同姓同名? いや、福井県に2人もいるのか? いやいや、最近までバレーボールの日本代表監督で、現在は大学教授に就任したと聞いている。なのに、米の製造?
いくつものはてなマークが飛び交うが、スーパーの売り場には米と並んで「私たちがつくりました」と笑顔の製造者と思わしき写真が添えられ、明らかにその人がいる。
しかも、レシーブのポーズで「バレーボール大好き」と書かれているのだから間違いない。
「今はね、いなかの農家のおやじですよ」
大学教授、兼、米農家。
それこそが、まさに今の中垣内に加わった新たな肩書きだ。
日本代表監督を辞めた後、なぜ米農家に?
かつては日本代表のエースとして活躍した。おそらくほとんどの人が「今は米農家」と聞くと驚くだろう。しかも2年前まで日本代表監督を務め、東京五輪を戦った男だ。なのに、今は軽やかにトラクターも乗りこなす。その姿をかつてのイメージと一致させるほうが難しい。
そんな転身の理由を当人に聞けば、急な決断ではなかったと語る。むしろ現役選手として日本代表の中心で戦い続けた頃から決めていたライフプランだった。
「家業ですからね。50歳になったら実家に帰って農家を継ごうと20代の頃から決めていました。(実際に農業に携わって)もう2〜3年になるかな。代表監督の頃からたまにトラクターに乗っていたから、フィリップ(・ブラン)には『代表監督でファーマーなのは、世界中でお前ひとりだけだ』と言われていました(笑)」
耕作する田んぼは33ヘクタール。東京ドーム6、7つは優に超える広さを中垣内も含めた4人で管理しており、今後どんどん拡大していく見込みだという。2月頃から田起こしが始まり、何度か繰り返して土をならし、代かきをする間に種を蒔き、苗を育てて田に水を張り、4月の終わりごろから田植えが始まる。天候に気を配りながら稲の成長を見守り、9月頃から刈り取りを開始。十分に乾燥させてからもみ殻を取り、袋詰めして新米として出荷する。
育てる米は化学肥料を使わず完全有機肥料を用いて農薬をギリギリまで減らしてつくる特別栽培米。夏場は雑草も伸びるので、いくつあっても手が足りず、大学の夏休み期間は一日中田んぼで農家として勤しむ日々。猛暑の下で日差しや暑さ対策をしても半袖のシャツから除く腕は真っ黒に日焼けしていた。
「学校が始まってからもやることがいっぱいあるので、朝7時から8時までとか、夕方の17時半から20時過ぎまで作業をしています。午前中は大きい帽子をかぶって手袋もするので、まだ(日焼けも)マシなほうなんですよ。最近会う人には『ゴルフでもやっているんだろう』と思われるみたいですけど、朝から晩まで農家の農業焼けです」
稲の管理から種もみ、田植えや稲刈りといった作業に加え、つくった米をいかに多くの人に知ってもらうかという“営業”も自ら行う。JAに出荷し、前述のスーパーにも米が並ぶなど、その成果は着実に広がっているように見えるが、費やす時間や作業工程に適した収入が得られるかと言えば「ボランティアではないかと思うぐらいお金にはならない」と苦笑いを浮かべる。田んぼで作業をする日は足腰も痛く「若くないことを実感してますよ」。それでも、土や水に触れ、季節の移り変わりを楽しんでいる。
「『ふくむすめ』はもちっとしているから、水は少なめに炊く。その塩梅がコツなんですよ。『ピカツンタ』のほうが簡単かな」
日本代表監督として試合を終えた直後の記者会見とはまるで違う、穏やかな表情だった。
家業を継ぐために故郷へ戻ってきたが…
2021年9月のアジア選手権後に日本代表監督を退いた。所属する堺ブレイザーズ(現・日本製鉄堺ブレイザーズ)も翌年の6月に退社し、生まれ故郷の福井へ戻った。前述の通り、家業を継ぐための帰郷だったが、同じ頃「せっかく福井に帰って来たなら」と福井工業大学の運営母体である金井学園の理事長から大学バレーボール部の総監督と教授の打診を受けた。自身のライフプランには全く想像もしなかった申し出だったが、故郷の役に立てるなら、と受諾。同年10月に正式発表された。
月曜から金曜までの平日は8時半から17時半まで大学で働き、安全管理論、スポーツ施設論、スポーツ指導の基礎といった座学も受け持ち、今年度の後期からはバレーボールの実技も受け持つ。その準備だけでなく、空いた時間や夏休みなど長期休暇の時期を農業に充てるうえ、総監督としてバレーボール部に携わるのはさぞ大変だろうと思いきや、バレーボール部に関しては「名ばかりで、本格的に指導をするわけではない雑用係」と笑う。
「現場に出ても邪魔するだけじゃないですか(笑)。そもそも今の子は、僕のことなんて知らない。『俺、中垣内だぞ』なんて自分で言うはずもないし、言ったところでだから何? ってなるだけですから(笑)」
バレーボールの実技も、受講するのはバレーボール部の学生ばかりでなく、体育教諭を目指す一般学生がほとんど。運動部に所属する選手も多く、サーブやレシーブをやらせればすぐできるようになるので手はかからない。だが前期の授業で別の教諭が受け持つ授業で補助役を務めた際も、体育館に現れても「大きい人が来た」と思われるぐらいで、かつての現役時代のような歓声が沸き起こるわけではない。
「授業が始まるのに寝転がってスマホを見ている学生もいるから、はいネット立てるよ、と(笑)。何度か言い続けて、やっと、はーい、と立ち上がって準備をする。補助とはいえ、バレーボールの授業をするのが初めてだったので、大学の職員の方が学生に向けて『中垣内先生がバレーボールの人だって知っているでしょ?』と聞いたら『知りません』って。もうね、そんなもんですよ。でも高橋藍だって30年経ったらきっと同じだよ(笑)」
「自分のことを知らない場所」で生きる
バレーボールという世界から離れ、自分を知っているのが当たり前だった場所から、知らないのが当たり前、という場所で生きる今。教授という「教える」立場はむしろ、学ぶことばかりだという。
「もうすぐ授業が始まるのにダラダラしている学生も中にはいるんです。そういう姿を見ると、少し厳しくしたほうがいいのかな、とか、バレーボールの指導もバレーボールをやってきた人間としてある程度やったほうがいいのかな、と思ったこともあるんです。でも前期に授業(で補助)をした先生から『あんまり厳しくしすぎると、来年から授業を選択する子がいなくなってしまうので、ほどほどがいいですよ』と。その先生も最初は厳しくやろうと指導していたら、次の年は同じ授業を3人しか選択してくれなかったらしくて、厳しさよりも楽しむことを第一にしようと考え直した、と言っていたんです。なるほどな、と思ったし、授業をするから聞くのが当たり前じゃない。むしろ学生が飽きたり、寝ちゃったりする授業をするほうが悪いんだな、と思ったので、パワーポイントでいろいろ資料を入れたり、飽きられない工夫をね、それなりにしているんですよ」
前期に比べて後期は授業の数も増え、野球部やゴルフ部に属する6人の学生の卒業論文も指導教諭として担当する。
「こんな先生に指導されるなんて学生がかわいそうだから、やめたほうがいいって言ったんです。僕も会社で働いていた時は論文を山ほど書いたけれど、大学の卒業論文は人生がかかるもの。中途半端に見られるようなものではないですから。今までは自分に矢印を向けて、一生懸命やれば何でもできると思ってきましたけど、農業も大学もそうじゃない。人の力を借りないと何もできないし、改めて、いろいろな人に助けられているのを日々実感しています」
新米の出荷作業に追われたこの秋も、五輪予選では日本代表を含めた数試合で解説を務めた。翌朝、1限から授業が組まれていたため、試合解説を終えた直後に深夜バスで福井に戻ることも考えていたが、試合時間が延びれば深夜バスすら乗り損ねる状況を危惧し、大学の配慮で休講になった。
改めて周囲のサポートへの感謝を抱くと共に、チームの力で勝利とパリ五輪出場権をもぎ取った男子バレー日本代表の姿を目の当たりにする喜びも存分に味わった。
「自分が監督として何をしたとか、そんな感情は全くないです。むしろ今は、ただのファンというか、親戚のおじちゃんみたいな気分かな(笑)。よく知る選手やスタッフが頑張っている姿を応援する。幸せだし、まぁ楽しいですよ」
希代のスパイカーからバレーボール日本代表の前監督、そして大学教授、かつ米農家。
「もっちりしたお米だから、冷えてもおいしい。おにぎりで食べるのがオススメだね」
各国でバレーボールのリーグ戦が行われる11月。新米の季節だ。<前編から続く>
文=田中夕子
photograph by NumberWeb