11月14日、マツダスタジアムの会見室にトレーニングウエアのまま現れた西川龍馬は、やや緊張した面持ちでFA権を行使した理由を明かした。
「挑戦したい気持ちがあった。パ・リーグでやってみたい。セとパでは野球が違うので、少なからずパの野球に興味があった。野球人生は短い。ここから良くなるのか、悪くなるのかは自分次第。そこで環境を変えて、また新たな自分探しをできたら」
熟考を重ねた上で導き出した結論は、野球人としての決断だった。
バット一本でプロ野球界を生きてきたようなものだ。2015年ドラフト5位で王子から3拍子そろったショートとして入団も、ショートでの出場は一度もないまま、2年目以降はサードで出場機会を増やした。4年目の19年からは主戦場を外野に移したが、ポジションがどこであろうと、西川の打撃は常にチームから求められた。
1年目から代打の切り札として起用されると、2年目以降は徐々にスタメンの機会を増やし、3連覇に貢献した。新井貴浩(現監督)が引退し、丸佳浩(巨人)が移籍した19年以降は中軸での起用が増え、鈴木誠也(カブス)が移籍した22年以降の2年では56試合で四番を任された。
巧みなバットコントロールは誰もが認めるところ。ときには鋭く切り裂く刀のように使い、ときにしなったムチのように使う。
入団したばかりの西川の打撃を見た同学年の鈴木誠也は、当時「“天才”と思った。しっかりしないと、やばいなと感じた」と驚いていた。前年にレギュラーの足掛かりをつかんだ鈴木に危機感を抱かせるほどの衝撃だったという。
天才・西川、8年通算.299
このエピソードとともに新聞紙面に“天才”の文字が躍ったことで、広島ファンの間で「天才・西川」と呼ばれるようになった。打撃センスを生かして8年通算2970打席に立ち、打率.299の高打率を維持している。ときにワンバウンドの球もヒットにする“悪球打ち”も西川の代名詞となった。
毎年オフには計画的に肉体改造を続けてきた。入団時68kgだった体重は83kgまで増量。1年目の0本塁打から、2年目以降の7年で64本塁打を積み重ねた。打撃に巧みさだけでなく力強さが加わり、名実ともにリーグを代表する打者となった。
今季は左脇腹痛による離脱がありながらも、リーグ2位の打率.305を残した。現役時代ともにプレーした新井監督とともにチームは2位となり、5年ぶりにCSの舞台にも立った。
打者としてどこか、満たされたものを感じたのかもしれない。認められた打者となっても、さらに高みを目指すために環境の変化を求める自分がいた。
敦賀気比高から大学進学ではなく、社会人・王子へ進んだのもそうだった。
「(大学では)甘えてしまうと思った。自分で稼ぎながら野球をやろうと思った」
厳しい環境に身を置いて、自身を高めてきた。答えのない打撃を追い求めることこそが、西川の野球人としての生き方なのだ。
バットを握り、打撃道を追い求める表の姿とは違い、ユニホームを脱げば人間味あふれる関西のお兄ちゃんだ。
冒頭のFA権行使のテレビ取材、新聞記者の囲み取材を終えた去り際、緊張の糸が緩んだのか、近くにいた記者につぶやいた。
「決めたものの、意外と寂しいものですよ。ホンマに」
ふと漏らした言葉に、西川の素顔が垣間見えた。
愛着と挑戦のせめぎ合い
4人きょうだいの長男で責任感も強い。クールな立ち居振る舞いから孤高のイメージもあるが、後輩思いで遠征先ではよく食事に誘う。
CSファイナルステージ2戦目に敗れた10月19日の夜は、末包昇大に声をかけた。
失点につながる守備のミスをした後輩は、西川からのLINEの誘いに一度は断りのメッセージを送っていた。敗戦の責任の重さをベッドに沈めるように横たわり、そのまま朝を迎えるつもりだった。
そんな後輩の部屋の扉をたたき、外へ連れ出して言った。
「負けたのは俺のせい。俺が打てなかったから、負けた」
後輩の傷を励ます意味もあったかもしれないが、バットで後輩のミスをカバーできなかった自責の念にかられていたのも事実だった。
後輩だけでなく、8年間ともに戦ったチームメートへの情も深まり、チームへの愛着も強かった。だから、選手には誰にも相談しなかった。ひとりの人間として決断するのではなく、ひとりの野球人として決断したのだ。
「僕の野球が、通用するのか」
挑戦心を掻き立てられ、進むべき道を決めた。佐々木朗希(ロッテ)を筆頭とした猛者
が待つ舞台。答えのない、打撃道を追い求めていく。
文=前原淳
photograph by JIJI PRESS