30周年を迎えたJリーグの軌跡に刻まれたブラジル人選手や関係者。彼らに当時のウラ話、そして引退後の今を聞いていく。今回は柏レイソル黎明期を支えたFWカレッカ。2度のW杯出場を果たし、ジーコやマラドーナといった名手らとともにプレーした現役時代や、当時と今のJリーグ、日本代表への印象を聞いた。(全3回の第1回/#2、#3へ)

 縦へ抜け出すスピードがあり、技術レベルが高く、球際にも強い。右利きだが、両足と頭で点が取れるオールラウンドタイプのストライカーだった。

 ブラジル人選手の多くは、現役を退くと別人のように太る。その好例がロナウド(注:1993年から2011年までレアル・マドリー、インテルなどで活躍したCFで、1994年と2002年W杯で優勝。現在47歳)。体重は100kgを優に超え、膨れた顔と突き出た腹は相撲取りのようだ。

 しかし、この男は違う。10月初めに63歳になったが、スラリとしている。本人いわく、「体重は現役時代とほとんど変わらない」。現在はサンパウロ郊外の人口120万人余りの商工業都市カンピーナスに住む。自宅マンションがある建物の応接間で、ジーンズを穿いた長い脚を組み、にこやかな笑みを浮かべて長時間インタビューに応じてくれた。

カレッカは“ハゲ頭”という意味だが…

――「カレッカ」とは(ポルトガル語で)ハゲ頭のこと。子供時代に一世を風靡したカレッキーニャ(小さなハゲ)というピエロの格好をしたコメディアンが大好きで、いつも彼の歌を歌っていたのでこのニックネームが付いたそうですね。

「彼はとても陽気で、愉快な歌と数々のジョークで僕たちを楽しませてくれた。周囲の人たちからそう呼ばれるようになると、家族も僕をそう呼ぶようになった(笑)」

――実際には、あなたは髪の毛がフサフサしています。ブラジルには、あなた以外にも「カレッカ」と呼ばれる選手がいましたが、皆、ハゲ頭ではない。これは逆に言えば、ブラジルではハゲ頭が特に恥ずかしいことではないからでしょうね。日本では、誰かを「ハゲ」と呼ぶと喧嘩、それどころかハラスメント事案になりかねない(笑)。

「そうなのか(笑)。でも、僕はこのニックネームが気に入っている。全く嫌じゃない」

「W杯で素晴らしかった。ナポリに来ないか?」

――フルネームは、アントニオ・デ・オリベイラ・フィーリョ。ファーストネームはアントニオで、あなたのことをこう呼んだ数少ない1人が、かつてナポリで一緒にプレーしたマラドーナだそうですね。

「彼はいつも僕を(カレッカではなく)アントニオと呼び、僕は彼をディエゴと呼んだ」

――生前、マラドーナはあなたのことを「僕にとって最高のチームメイトであり、最高の友人」と語っていました。彼と最初に会ったのはいつですか?

「1986年の末、FIFAがパリのリド(注:有名なキャバレー)で1986年W杯メキシコ大会で活躍した選手を表彰した。ディエゴはこの大会で優勝してMVPに選ばれ、僕は5得点をあげて得点王ランキングの2位(得点王は6得点をあげたイングランド代表FWゲーリー・リネカー)で、2人とも招かれて出席した。そして、たまたま同じテーブルに座ったんだ」

――どんな話をしたのですか?

「ディエゴが『W杯での君のプレーは素晴らしかった。ナポリに来る気はないか』と聞いてきた(注:マラドーナは、1984年からイタリア・セリエAのナポリでプレーしていた)。僕もW杯で彼のプレーに魅了されていて、いつか同じチームでプレーすることを夢見ていた。ただ、当時はサンパウロFCの選手だったから、『ぜひ一緒にプレーしたいね。ただ、今のクラブとの契約があるから、確約はできないが……』と伝えた」

ディエゴは子供がそのまま大きくなったような

――マラドーナの人間性についてどう思いましたか?

「とても純粋で、裏表がない。思ったことをハッキリと言う。子供がそのまま大きくなったような人物で、選手としてのみならず人間としても大好きになった」

――当時、あなたはブラジルの名門サンパウロFCのエースストライカー。1986年W杯で活躍し、この年のブラジル選手権で優勝して得点王に輝き、MVPにも選ばれた。シーズン終了後、複数の欧州ビッグクラブからオファーが舞い込んだようですね。

「レアル・マドリー、アトレティコ・マドリー(いずれもスペイン)、ナント(フランス)、そしてナポリ……。一番条件が良かったのがレアル・マドリーで、移籍金も年俸もナポリの約2倍。当然、サンパウロFCは私がレアル・マドリーへ移籍することを望んだ。でも、私はどうしてもディエゴと一緒にプレーしたかった。そこで、欧州クラブへ移籍する場合、移籍金の25%を受け取れることになっていたが、『私の取り分の25%はいらないから、ナポリへ行かせてくれ』と会長に直訴した。それでもサンパウロFCは損をするが、私のクラブへの貢献度を考慮してナポリへの移籍を認めてくれた」

――そのときの気持ちは?

「世界一の選手と一緒にプレーする夢が叶う、と思って興奮した」

ひしと抱き合った。まるで恋人のように(笑)

――当時、ナポリはマラドーナ効果で大騒ぎでした。1986-87シーズン、クラブ史上初めてセリエAを制覇し、イタリア杯でも優勝して市民は狂喜乱舞。そして、翌シーズンからあなたが加入するとあって、さらに大変な騒ぎに……。あなたの加入を知ったマラドーナの反応は?

「ナポリのクラブハウスで私の姿を認めるや否や、子犬のように走ってきて、感極まった表情で『アントニオ、本当にやって来たな。君は最高の男だ』と叫んだ。私は『世界一の選手と一緒にプレーするためにね』と答え、ひしと抱き合った。まるで恋人どうしのようにね(笑)」

――その後のことは、世界中のフットボールファンが知っています。マラドーナがあの超人的なドリブルと完璧なパスで決定機を作り出し、自ら決めたりあなたのゴールをアシストしたり。あなたも、マラドーナへ決定的なパスを送ってゴールを決めさせた――。「世界最高のコンビ」と呼ばれ、1988-89シーズン、クラブにとって初の国際タイトルであるUEFAカップ(注:現在の欧州リーグ)を獲得すると、1989-90シーズンにセリエAで2度目の優勝を遂げました。天才マラドーナとプレーして思ったことは?

「完璧なテクニック、驚嘆するしかない状況判断、そしてチームメイトと観衆の全員を巻き込む巨大なパッション——。あんな選手は、未来永劫、出てこない。自分が『是が非でもこの男と一緒にプレーしたい』と熱望してナポリへ来たのは正解だった、と毎日思っていた」

お互いの家を行き来して、家族ぐるみの交際

――ピッチ外でも親しく交流したそうですね。

「ナポリでは、私もディエゴも外出するとすぐ群衆に取り囲まれてしまうから、家族と一緒にレストランへも行くことすらままならなかった。そこで、お互いの家を行き来して、家族ぐるみで交際した。

 私の家ではシュラスコ(注:串刺しした肉を炭火で焼いたもの)、フェイジョアーダ(注:肉と豆を煮込んだもの)などのブラジル料理をふるまい、彼の家ではアサード(注:肉の塊を炭火で焼いたもの)などのアルゼンチン料理をご馳走になった」

――そんなときは、どんな会話をしたのですか?

「フットボールの話はほとんどしなかったな。お互いの家族の話とか、イタリアとナポリ、ブラジルやアルゼンチンの話が多かった」

純粋でお人よしのディエゴは、利用されたのだと思う

――1990年のW杯ラウンド16で、セレソン(ブラジル代表)はアルゼンチンと対戦。代表であなたとマラドーナが対戦した唯一の試合で、終盤、彼の絶妙なスルーパスをFWクラウディオ・カニーヒアが決めてアルゼンチンの勝ち。セレソンは痛恨の敗退を喫します。このとき、彼と何か話をしたのでしょうか?

「試合後、ディエゴが我々のロッカールームへ来てくれた。私は彼と抱き合い、アルゼンチンの勝利を祝福し、『我々の分まで頑張って、ぜひ優勝してくれ』と伝えた(その後、アルゼンチンは勝ち進んだが、決勝で西ドイツに敗れて準優勝)。

――その後、マラドーナはナポリの地元マフィアとの黒い交際、薬物使用、女性問題といった数々のトラブルが報じられるようになります。なぜ彼はあのような状況に陥ったのでしょうか?

「実際に何があったか、詳しいことは知らない。でも、彼の名声、立場、富を利用したい奴らが大量に押し寄せてきた。純粋でお人よしのディエゴは、彼らに利用されたのだと思う。彼を守り、問題を回避させるスタッフが必要だったと思うが、そういう人がいなかったようだ……」

“お前がナポリにいる限り他のクラブへ行かない”と告げたが

――マラドーナは、1991年にドーピング検査で陽性反応が出てイタリアサッカー協会から15か月間の出場停止処分を受け、1992年にセビージャ(スペイン)へ移籍。あなたとのコンビは、4シーズンで終わりました。

「私は『お前がナポリにいる限り、絶対に他のクラブへ行かない』と彼に告げていた。また『将来、お互いの心のクラブであるサントスとボカ・ジュニオルスで1年ずつ一緒にプレーしよう』と約束していた。それが実現せず、残念だ」

――マラドーナとは、その後も交流を続けたのでしょうか?

「セビージャの彼の家にも行ったし、引退後は彼が(カンピーナスの)私の家へ来たり、私がブエノスアイレスの彼の家へ行ったりした」

――ここカンピーナスでも、彼と一緒に外出したのでしょうか?

「ああ、どこへでも出かけたよ。彼はブラジルとブラジル人が大好きでね。ファンからサインや写真を頼まれると、いつも気さくに応じていた」

彼の早すぎる死は、悔やんでも悔やみきれない

――2020年11月にマラドーナが60歳で亡くなったとき、あなたは「神様、私の兄弟ディエゴがあなたのもとへ旅立ちました。両手を広げて、温かく迎えてださい」という気持ちがこもったメッセージを発しました。

「私と彼は同い年で、しかも同じ月の生まれ(注:2人とも1960年10月生まれで、カレッカが5日、マラドーナが30日)。アミーゴを通り越して兄弟のような間柄だった。彼の早すぎる死は、悔やんでも悔やみきれない」

 ナポリで1987年から1993年までプレーした後、1993年後半、カレッカは柏レイソルへ。Jリーグは創設2年目を迎えていたが、当時、柏はJリーグ準会員で、Jリーグ昇格を目指していた。<第2回に続く>

文=沢田啓明

photograph by Alessandro Sabattini/Getty Images