30周年を迎えたJリーグの軌跡に刻まれたブラジル人選手や関係者。彼らに当時のウラ話、そして引退後の今を聞いていく。今回は柏レイソル黎明期を支えたFWカレッカ。2度のW杯出場を果たし、ジーコやマラドーナといった名手らとともにプレーした現役時代や、当時と今のJリーグ、日本代表への印象を聞いた。(全3回の第2回/#3へ)

 当時、世界最高峰だったイタリア・セリエAのナポリで天才マラドーナとコンビを組んだ世界トップクラスのストライカーが、1993年後半、柏レイソルへ加入――。このニュースは日本のフットボール関係者とファンに衝撃を与え、興奮させた。

 そんなカレッカに当時抱いていた日本という国へのイメージや来日後の秘話、2023年は天皇杯決勝進出を果たす一方で、J2降格危機のシーズンとなった古巣への提言、そしてカレッカと同じくレイソルに所属していた伊東純也(ランス)、三笘薫(ブライトン)や久保建英(レアル・ソシエダ)らがヨーロッパで活躍する近年の印象を聞いた。

ミズノのモレリアというシューズを愛用していて…

――柏レイソルへ移籍した経緯は?

「サンパウロFCで一緒にプレーした元ブラジル代表左ウイングのゼ・セルジオが(1888年から90年まで)日立(当時ジャパン・フットボールリーグ=JFL。レイソルの前身)でプレーした後、柏レイソルを指導していた。彼から熱心な誘いを受けて、移籍を決めた」

――当時、日本と日本のフットボールについてどのようなイメージを持っていたのですか?

「日本と日本人については、非常にポジティブなイメージを持っていた。というのは、サンパウロFC時代からミズノのモレリアというシューズを愛用しており、ミズノの担当者を通じて日本人が誠実であり、細部に徹底的にこだわる素晴らしい人たちだと知っていたからだ」

――そもそも、いかなる経緯でミズノのシューズを履くようになったのですか?

「サンパウロFCにはミズシマ(注:水島武蔵。1975年、10歳でサンパウロFCのアカデミーに入り、1984年にトップチームへ昇格した)がいて、彼がミズノと契約していたことから、我々ブラジル人選手もミズノのシューズを使用する機会があった。1985年に開発されたモレリアというモデルを試したところ、革が非常に柔らかく、足に吸い付くようで、非常に感触がいい。とても気に入ったので、以後、使うことにした。

 このシューズを開発したヤスイさん(安井敏恭)が何度もブラジルへ来てくれたんだけど、彼はとても誠実で有能なプロフェッショナルで、私が出す細かい要求に誠心誠意、応えてくれた。彼の仕事ぶりを見て、『日本という国、日本人は素晴らしい』と思うようになった。

 1985年にミズノと契約を結び、以来、引退するまでモレリアしか履かなかった。他のメーカーからミズノを上回る条件で契約を申し込まれたが、契約金ではなく品質でミズノを選んだ。ディエゴも、モレリアを履いたことがあるよ」

レイソルにブラジル人ホペイロを紹介したよ

――ええっ、どういうことですか?

「私は1986年ワールドカップ(W杯)でモレリアを履き、ナポリへ移籍してからもモレリアひと筋。そんな私を見てナポリのチームメイトも同じモデルを試すようになり、ディエゴも非常に気に入った。彼はプーマと契約していたが、練習ではメーカー名とモデル名を隠して、密かにモレリアを履いていたことがあった。ただ、プーマとの契約の関係上、試合では使えなかったようだけどね(笑)」

――当時の柏の練習施設をどう思いましたか?

「チーム専用のピッチがなく、一つのグラウンドを他のスポーツチームと共有していた。ユニフォームは自分で洗うことになっており、ホペイロ(用具係)がいないから、シューズは自分で手入れをしなければならなかった。アマチュアチームそのままだった。これでは困るから、チーム関係者にブラジル人ホペイロを紹介し、雇用してもらった」

自分の力でJFLからJに引き上げよう

――柏のチーム力については?

「もちろん、ナポリとは大きな差があった。でも、MFシモダイラ(下平隆宏)、右SBサワダ(沢田謙太郎)ら向上心に溢れた若手はいた。チーム力の差以上に大きなショックを受けたのは、ナポリではいつも8万人以上の観衆で埋まったスタジアムでプレーしていたのに、レイソルの試合の観客は数百人程度だったこと。これは寂しかった」

――当時、柏はJリーグ準会員。1993年後半に行なわれたJリーグカップでベスト4に入ればJリーグに加盟できることになっていましたが、その目標を達成できませんでした。

「自分としてはベストを尽くしたが(注:6試合で4得点)、残念な結果に終わった。レイソルの社長からは、『あなたほどの経歴を持つ選手を日本の2部でプレーさせるのは申し訳ない。1年間、ブラジルのクラブでプレーしますか』と聞かれた。しかし、ゼ・セルジオらとも相談し、『自分の手でレイソルをJリーグへ引き上げよう』と考えて、JFLでプレーした」

――1994年、柏はJFLで2位となり、翌年のJリーグ昇格を決めた。1995年、初めてJリーグでプレーしたわけですが、当時のレベルをどう思いましたか?

「各チームに優秀な外国人選手が在籍しており、日本人選手も伸び盛りで意欲に満ちていた。レベルは、JFLよりずっと上だった」

カレッカ加入後、全員のプロ意識が高まった

――そのような状況で、サンパウロFCとセレソン(1986年と1990年のW杯)であなたと一緒にプレーしたFWミューレルが柏に入団します。黄金コンビ再結成とあって大いに期待されたのですが、彼はわずか2カ月で退団。一体、何があったのでしょうか?

「本人と家族が、日本の生活や文化に適応できなかったようだ。彼と一緒ならJリーグでもトップクラスの攻撃陣になる、と思っていただけに、残念だった」

――この年、あなたはJリーグで30試合に出場してチーム3位の10得点。柏は、前期こそ最下位でしたが、後期は5位と躍進。年間順位は14チーム中12位でした。

「クラブの練習環境が徐々に整備され、優れた選手が加入してきた。また、チーム全員のプロ意識が高まり、食事、休養などに気を配るなど、体調管理ができるようになってきた」

――ただし1996年、あなたは故障が多く、Jリーグで5試合の出場(2得点)に留まります。

「筋肉系の故障を何度も起こしてしまい、良いコンディションでプレーできない期間が長かった。チームに貢献できず、自分としても非常に残念だった」

カズ、ナカヤマ、ナカタ、アキタが記憶に残っている

――この年を最後に柏を退団したわけですが、Jリーグで対戦した選手の中では誰が印象に残りますか?

「アタッカーでは、ドリブラーのカズ(三浦知良、当時ヴェルディ川崎)、いつも闘志むき出しでプレーするナカヤマ(中山雅史、当時ジュビロ磐田)、素晴らしいパサーのナカタ(中田英寿、当時ベルマーレ平塚)ら、DFではヘディングが抜群に強かったアキタ(秋田豊、当時鹿島アントラーズ)らだね」

――その後、柏は概ねJ1の中位を保っていたのですが、2005年に16位に沈み、入れ替え戦で敗れてJ2へ降格。2009年にもJ2へ落ちましたが、翌年、J2で優勝してJ1へ復帰。翌2011年にJ1で初優勝するという快挙を成し遂げました。しかし、その後は中位が多く、2018年にまたしてもJ2へ降格。しかし翌年、またJ2で優勝してJ1へ復帰しています。

「鹿島アントラーズのように、ほぼ毎年、優勝争いに加わり、何があってもJ1に踏みとどまるようなクラブにはなれていない(※今季も最終盤まで残留争いを強いられた)。クラブとしての一貫した方針、哲学といったものが必要なのではないかと思う。レイソルの選手育成は、Jリーグの中でも優れている。今後、さらに優れた選手をさらに多く育成して、常に優勝争いにからむようなクラブになってもらいたい」

イトウのスピード、クボ、ミトマ、カマダも素晴らしい

――現在、多くの日本人アタッカーが欧州でプレーしています。

「ミトマ(三笘)のドリブルは驚異的で、決定力も向上している。そしてイトウ(伊東純也)のスピード、クボ(久保)のテクニック、カマダ(鎌田大地/ラツィオ)のインテリジェンスも素晴らしい。日本人選手は、私がレイソルでプレーしていた頃と比べると格段に進歩している」

――日本がさらに優れたアタッカーを輩出するためには、何をすべきだと思いますか?

「クラブでも代表でも、世界トップレベルを肌で知っている指導者が自分の経験を伝える必要があると思う。また、日本人選手は技術的にはかなりの水準に達しているが、精神的な逞しさがまだ物足りない。Jリーグで選手としての土台を作り、欧州の厳しい環境でさらにもまれて、どんな状況でも自分の力を発揮できる強くて逞しい選手になってもらいたい」

日本代表の成長スピードは予測を上回っている

――2022年W杯のグループステージで日本がドイツ、スペインを倒すと予想していましたか?

「私は日本にとても愛着があるから、国際大会ではいつも日本を応援している。しかし、正直に言うと、あの2つの勝利は予想していなかった。日本代表の成長のスピードは、どうやら私の予測を上回っているようだ(笑)」

 日本で過ごした約3年半の間に感じたこと、またその後も日本のフットボールを見ていて気付いたことを、包み隠さず語ってくれた。彼の率直さは、マラドーナにも通じる気がした。そんなカレッカは、どのようにブラジルの地でストライカーとしてのマインドを育んでいったのか――。

<第3回に続く>

文=沢田啓明

photograph by Masashi Hara/Getty Images,Takao Yamada