40歳での鮮烈なFA宣言、巨人へ電撃移籍した落合博満……1993年12月のことだった。
あれから30年。巨人にとって落合博満がいた3年間とは何だったのか? 本連載でライター中溝康隆氏が明らかにしていく。連載第9回(前編・後編)、落合博満により四番の座を奪われた“エリート”原辰徳……5歳差の“新旧”四番のキャラクターを比較する。なぜこれほど対照的なのか?【連載第9回の前編/後編も公開中】

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落合博満「そんなことならオレは帰る」

「髪の毛、立ってる? いいよ、女の子のモデルじゃないんだから。オレ、嫌いなんだよ」

 編集者が撮影用に準備したイタリア製カシミア・セーターを差し出すと、無愛想な男は「なにバカなこと言ってんの、着換えないよ。そんなことならオレは帰る」と出口に向かいかける。1994年2月3日発売のNumber333号で、写真撮影に臨んだ40歳の落合博満は、握ったボールを見つめてというカメラマンからの注文にも、「もういいよ。早く話にしよう。プロは一枚、一発勝負よ」なんてカメラの前から逃げようとした。あの星野仙一が「ものすごくシャイな部分と横柄な部分が同居している」と評したように、球場ではあれだけ自信満々にふるまうオレ流も、グラウンドを一歩出ると、照れ屋だった。

クロマティ「原はオシャレだ」

 そんな落合とは対照的な野球人生を送ってきたのが、原辰徳である。1981年に新人王を獲得すると、ピーク時は明治製菓、大正製薬、オンワード樫山といった大手7社とCM契約を結び、ブラウン管の向こう側から日本中にタツノリスマイルをふりまいた。80年代に圧倒的な知名度を誇った巨人軍の中心で光り輝く若大将。その凄まじい人気ぶりには、同僚外国人のウォーレン・クロマティも皮肉交じりに、こう呆れるほどだった。

「原はすごくオシャレだ。カメラマンのためにめかしこんでいるのを、何度目撃したことか。(中略)まだ早い時間で、グラウンドには誰も出ていない。だいいち原はその日、出場しないことになっていた。それでもカメラが待ち構えていると知って、いそいそとグラウンドに出ていくではないか。俺は野次馬根性から後をつけた。原はダッグアウトの最前列に座ってポーズをとる。するとカメラがズームする。まるで映画スターか何かのようだ」(さらばサムライ野球/W.クロマティ・R.ホワイティング共著/松井みどり訳/講談社)

「このまま引退するんじゃないか…」

 しかし、そんな80年代の球界のアイドルも、35歳で迎えた1994年シーズンは、オープン戦終盤に負った左アキレス腱の部分断裂で開幕二軍スタート。自分がいない一軍は、両リーグ20勝一番乗りと開幕ダッシュに成功して、10年間に渡り守り抜いた「巨人の四番」の座も、FA移籍してきた40歳の落合が全試合スタメン出場を続けていた。

 崖っぷちの原はギプスが取れてから、わずか4日目にスパイクを履いての練習を再開。「現場(一軍首脳)は6月でいいから、ゆっくり間に合わせろといってくれてますが、自分ではそんなつもりはないよ。ズバリ5月20日。ここをメドに一軍に戻るつもりだよ」と「週刊ベースボール」の直撃に自身を鼓舞するかのように宣言。しかし、復帰を焦るあまり、飛ばしすぎて5月28日には背筋痛で一軍合流直前に無念の再リタイアだ。当時スポーツキャスターで、少年時代に原に憧れて東海大相模高のセレクションを受けたことのある栗山英樹は、取材中に偶然その瞬間に立ち会い、「このまま引退するんじゃないかというほどひどいと聞いて、すごく心配した」と明かしている。

原への猛批判「プライドもへったくれもあるか」

 結局、背番号8はチームの52試合目、原家の朝食に赤飯が並んだ6月14日の阪神戦に「七番サード」でようやく復帰。すると、第二打席で先発・藪恵市のフォークボールを東京ドームの左翼席にライナーで叩き込んだ。246日ぶりの一発に試合後のお立ち台では、「一番嬉しいホームランと言ってもいいんじゃないですかね」と目を潤ませて大歓声に応える若大将。翌朝のスポーツ報知も「泣けたぜ!! 原1号」と一面で報じた。しかし、ファームでの調整出場を拒否した原に対して、元西鉄の豊田泰光は自身の連載「オレが許さん!」の中で、厳しく批判している。

「6月9日、神宮のクラブハウスで(原は)長嶋監督と話し合った時も『イースタンの試合で調整するつもりはありません』と断ったらしい。入団以来、一度もファームの試合に出ていないというプライドがあるそうなんだけど、いつ引退してもおかしくない、なんていわれてた選手にプライドもへったくれもあるもんか」(週刊ベースボール1994年7月4日号)

 加えて、「これだけ独走していても優勝は? ぶっちぎり長嶋巨人にくすぶり続ける内紛の火ダネ」(週刊現代1994年7月2日号)でも、中畑清打撃コーチが「原は一度二軍で調整したほうがいい」と強く意見したことが報じられた。自身を取り巻く逆風の中で、復帰間もない広島戦で背番号8はキャリア初のセーフティーバントを決めて、「前から一度、やってみたかったんだよね。四番じゃ、こんなことできないから……」と六番や七番で試合に出続けながらも前を向いたが、チームの主役はすでに原や篠塚和典ではなく、20歳になったばかりの松井秀喜と第60代四番打者の落合博満だった。

エラーの夜…“15歳年下”ピッチャーに謝罪

 長嶋巨人は快調に白星を重ね、5月後半から6月前半にかけても第二次長嶋政権初の8連勝を記録。6月18日のヤクルト戦(東京ドーム)では落合が1回裏に先制タイムリーを放ち、斎藤雅樹がこの1点を守りきり164球の完封勝利を挙げた。斎藤は早くもシーズン5度目の完封で、4月22日の阪神戦から負け知らずの8連勝となる9勝目。この試合、9回二死一塁の場面で、マウンド上の背番号11に落合が歩み寄り、こう声を掛けている。

「おい、今日はおまえの試合なんだ。完封の日だ。とにかく高さだけは間違うな」

 落合はエースクラスだけでなく、若手投手や控え選手も気遣った。5月20日の阪神戦(東京ドーム)で、代打・福王昭仁が勝ち越しの1号2ランアーチを放つと、ベンチに戻った福王の頭を長嶋監督がポンポンと撫で、そのミスターのすぐ隣の席が定位置の落合は満面の笑みを浮かべ、福王に右手を差し出しがっちり握手を交わす。己の本塁打には表情ひとつ変えない無愛想な男が、伏兵の殊勲の一打を自分のこと以上に喜んでみせたのだ。

 6月12日の中日戦(ナゴヤ)では木田優夫が先発したが、一塁を守る落合のエラーがきっかけでKO負け。二軍落ちの危機に直面すると、その夜、宿舎で木田の部屋のドアをノックする音がした。扉を開けると、なんと大先輩の姿。落合が自分のエラーを謝りにきたのだ。撮影でセーターの着替えや髪のセットすら嫌がる、気ままなオレ流が、野球のことになると15歳も年下の後輩に頭を下げてみせる。どちらが本当の落合博満なのか、同僚にすら分からなかったが、それは例えば、周囲に対して変わらず、いつ何時も「エリート原辰徳」であることを自らに課しているかのような振る舞いをする原とは、対照的な姿でもあった。

<続く>

文=中溝康隆

photograph by KYODO