アンジェ・ポステコグルーは横浜F・マリノスをどう変革し、日本のサッカー界に何を残したのか。トッテナム・ホットスパーの監督としてプレミアリーグで活躍する名将の素顔を、選手、コーチ、そして経営者の証言によって掘り下げていく。第2回は、アタッキングフットボールの“肝”を支えたGKコーチの松永成立が、指揮官との「緊張感に満ちた信頼関係」を語った。(全3回の2回目/#1、#3へ)※文中敬称略

松永成立が語る第一印象「大変そうな監督が来たな…」

 松永成立が55歳のころ、3歳年下のオーストラリア人指揮官はやってきた。

 日産自動車サッカー部の黄金期を支え、日本代表でも活躍した横浜F・マリノスのレジェンドは、GKコーチとしてもその手腕を発揮していた。2007年から古巣に戻って指導にあたり、独自で編み出すトレーニングメニューの「質」、居残りまでとことん付き合う「量」ともに一切、妥協はしない。情熱的な指導によって育て上げた榎本哲也、飯倉大樹らF・マリノスのGKは、1試合(90分換算)の平均失点数を表す「防御率」において常にJリーグでトップクラスの数字を叩き出してきた。10年以上実績を積み上げてきたベテランコーチにとって、アンジェ・ポステコグルーとの出会いがまさかこんなに大きなものになるとは思いもしなかった。

「最初は、何か大変そうな監督が来たなって。GKコーチとしてある程度確立してきたものもあったから、乱されたくはなかった。口数はそんなに多くない人。でも知らず知らずのうちに自分の質を上げてくれたし、うまく(考えが)整理されたというか、乗せられた感じがありましたね」

 ベテランコーチはそう言って、口もとに笑みを浮かべた。

 ボスというニックネームが、ピタリと合うと思えた。

「最初に会って次の日から練習が始まるので、GKとフィールドプレーヤーが融合するメニューではどういったものをやるのか聞きにいったら“明日になれば分かる”の一言だけ。それからずっとそんな感じで、あんまり余計な話はしない。トレーニングメニューをヘッドコーチが考えて、アンジェはそれを確認してOKを出す。そして実際のトレーニングも、ヘッドコーチに陣頭指揮を執らせて“大将”として全体的に見ていく。日産時代の加茂(周)さんみたいなタイプだなって思いましたね」

「シゲ、どう思うんだ」明確な答えを求めた指揮官

 ただ、ボス体制に移行した直後はそんな悠長なことを言っていられなかった。ハイライン&ハイプレスのアタッキングフットボールを実現するにあたり、GKに求められる役割が増えた。ハイラインの裏にある広大なスペースをカバーし、ビルドアップでも高い位置を取って、出発点にも経由地にもなる。つまりセービング、ポジショニング、クロス対応といったGKの基本スペックのみならず、単に「足もとの技術」というニュアンスを超えた攻撃センスや、広範囲という表現では収まらないカバー能力を求められたからだ。

 日産自動車時代がハイラインだったためイメージを掴むことはできたものの、厄介なのは監督が正解を言おうとしないことだった。

 練習試合の翌日にはスタッフ全員が集められてフィードバック作業が細かく実施され、GKのポジショニングやプレーなども検証された。修正を重ねながら2018年シーズンの開幕を迎えて、試合があるたびにボスは質問という形で松永に迫ってきた。

「やっぱり特殊な戦術を取っているんで、アンジェはGKに対して一つひとつのプレーにうるさい。なぜここのポジションにいるんだ、なぜ頭を越されるんだ、なぜこのタイミングでパスを出すんだ、みたいに。彼のなかではおそらく答えがあるのに、それを言わないわけですよ。なぜ、の後に“シゲ、どう思うんだ”と。

 アンジェは曖昧な答えを何よりも嫌うので、たとえば試合を夜9時に終えて深夜に自宅に戻っても、そこから試合の映像を必ずチェックして“GKのこういう判断でこういったプレーになった”ということを頭のなかで整理したうえで、何を聞かれてもいいようにしておきます。徹夜になってしまったときもありましたよ。彼の質問に対してすべて答えられるよう準備しておけば、自分の頭も整理できるし、トレーニングのアイデアも浮かぶ。すると必然的にコーチングの質も上がっていく。大変な作業ではあるんだけど、それはアンジェもほかのスタッフも一緒。それくらいきっちり仕事をやりたい人なんだって思うと、リスペクトする気持ちが強くなっていきましたね」

 守備時、ボールの位置によってどのポジションを取っていることが多いのか、映像で調べて最適解だと思われる位置を割り出していく。ビルドアップ時のポジショニングもそうだ。時間という時間を費やした。決してアバウトにはせず、シチュエーションによって細かく設定できるまでになった。GKにも映像で示しつつ、じっくりと落とし込むことが可能になった。

飯倉大樹への感謝「アイツのおかげなんです」

 ここまで徹底するのは、ボスに目を向けていたからではない。

 チームのためであり、そして何よりもGKを守るためであった。2018年シーズン、F・マリノスのゴールマウスを守ったのが飯倉大樹だ。広大なエリアを守るため、GKとしては異例となる7km以上の走行距離を誇った。ポジションを高く取るため、ひとたびボールを奪われてしまえば無人のゴールを狙われる。相手方のそのアクションは、いつしか「飯倉チャレンジ」として広まるようにもなった。得点が増えたとはいえ、リスクを取る以上失点もハイペースで増えていった。

 松永はそんな飯倉に感謝する。

「Jでトップクラスの防御率を誇ってきて、プライドを持ってゴールキーピングをやってくれている。大樹は“この戦術好きだし、失点は気にしていないです”と言ってくれたけど、それでも結構堪えたとは思うんです。でも大樹が果敢にやってくれて、(失点にも)耐えてくれて、僕も彼のプレーを見て、これはやってもいい、これはダメっていう基準をつくることができた。アイツのおかげなんです。

 自分はGKを守る立場でもある。GKが悪くなくとも、そのプレーが悪いっていう判断をされたら“それは違う”と言わなきゃいけない。そのためにはアバウトじゃなくて、理路整然と説明する必要がありました」

 ボスの意見と食い違ったこともある。その場合はスタッフミーティングの席ではなく、1対1の状況をつくりあらためて自分の考えを伝えるようにした。信念を持って意見をぶつけ合うことが、ボスの信頼を深めることにもなった。

 ハイラインの対処やビルドアップという重点事項が増えたとはいえ、日々のトレーニングの時間は限られている。シュートストップ、クロス対応、フィジカルなど基本をきちんと押さえつつ、試合状況を想定しながら新しいメニューを毎日更新しながら取り入れた。

「ビルドアップのときにボールを奪われた場合、高い位置から戻りながら1対1で対応しなきゃならなくなるし、中途半端なポジションからクロスの対応もやんなきゃいけない。そういう状況を考えて、メニューに取り入れる作業は楽しかったですよ」

 決まった時間を、最大限に活用する。取り組まなきゃいけないことが多い分、GKコーチとしてはそこが腕の見せどころでもあった。飯倉以降、朴一圭(パク・イルギュ)、高丘陽平、一森純らを次々とこの戦術にフィットさせていくのだから、松永のトレーニングがいかに効果的だったかは言わずもがなである。

 松永は守備時のセットプレーも担当し、職人気質ゆえにやるとなったらとことん追求した。相手側の映像を隅々まで見て頭に叩き込み、パソコンを使って守備のオーガナイズを作成してボスに説明するのがルーティンとなった。

 初心者に近かった映像の編集作業も数をこなしていくことで随分とうまくなり、図解入りの練習メニューを作成して活用するなど、腕前を上げている。

朴一圭の覚醒、そして15年ぶりのリーグ制覇へ

 ボスの就任2年目となる2019年シーズン、J3のFC琉球から朴がやってきた。無名に近いGKを育て上げるミッションが新たに加わったのである。

「最初にパギ(朴の愛称)を見たとき、この戦術に本当にフィットできるのか不安しかなかった。キックも両足蹴れると言っても、ミスが多かった。ただ、背後のスペースに対する判断は凄かった。予測と身体能力の高さもあって、守備範囲の広さは飛び抜けていましたね」

 松永の熱心な指導によって、朴は29歳ながらグングンと上達していく。飯倉に代わってゴールマウスを守るようになると、松永は試合の映像を朴に見せながらマンツーマンでディテールを修正。課題をトレーニングに落とし込んで克服していく作業を、1シーズン通して行なっている。

「安心してパギのプレーを見ることができたのは、最終節のひとつ手前の川崎フロンターレ戦。戦術の落とし込みを含めて身につけさせるには、やっぱり時間と労力が要りましたね。ある意味、犠牲を払いながらアンジェの戦術に適応しなきゃいけないんで、ウチのGKは最初どうしても悩むし、苦労する。ビルドアップやハイラインでああしなきゃいけない、こうしなきゃいけないというのがあって、頭がそればかりになると自分の本来のストロングポイントを忘れてしまいがち。でもそこを超えてくると自信が出てきて、すべてのプレーが良くなるんです」

 朴の貢献もあって、チームは15年ぶりのリーグ制覇を果たす。日産時代に多くのタイトルを手にしてきたが、選手、指導者として長年在籍したF・マリノスでは初めて。歓喜の日産スタジアムで男泣きした。

「あの雰囲気が僕はたまらなく好きでした」

 ボスから労いの言葉を掛けられたことは記憶にないという。微妙な関係性を想像しがちだが、まったくそうではない。松永を認めていたからこそ、ボスは朴を起用できたと言える。松永もまた3歳下の指揮官へのリスペクトを一層、強めていた。

「グラウンドレベルではかなりの緊張感が欲しい。僕はそういうタイプです。アンジェはミーティングでもドッカンと怒るときがあるし、ハーフタイムで気を引き締めたら後半の内容がガラッと変わる。本当にボスですよ(笑)。グラウンドに入る前、あの人が歩いてくるのをみんなが目で捉えた瞬間からチームにピンとした緊張感が走る。あの雰囲気が僕はたまらなく好きでした」

 ボスはどうしてアタッキングフットボールにここまで傾注するのか。ミーティングでこんな話が出ていたという。

「アンジェはよく言っていました。みんな子供のころ、ボールを触るのが好きだっただろうって。だったらみんなでボールをたくさん触ったほうがいいに決まっている。90分間攻めっ放しでも、GKが一人でポツンと立っていたらつまらない。だから後ろからつなぐし、だからハイラインも敷くんだ、と」

「アンジェはリスクなんて言葉を使わない」

 松永は知っている。

 11人がそれぞれ役割を果たしてチャンスをつくったシーン。それを映像で繰り返し好んで見ていたことを。全員で奏でるアタッキングフットボール。攻撃でもGKが抜け落ちてはいけなかった。自分が目指すフットボールを純粋に追求しようとしていた。その一途な姿勢に感服した。

「ビルドアップで引っ掛かったり、ハイラインの裏を突かれたりして失点したら、人は“ほら、リスクがあるじゃないか”って言うんです。僕はそれが嫌いでした。ミスをあら探しするより、この先に何があるのか探らなくていいの、と。ミスがあっても向上させようっていう意識がまず湧くじゃないですか。だからアンジェはリスクなんて言葉を使わない。だってこういうサッカーがやりたいっていう思いが先にあるから。コーチングスタッフも同調していたし、僕らにも意地があった。それによって指導者としての質を上げてもらった。あの人、あれこれたくさん言わなかったのは、ファミリーとして僕らのことも考えてくれていたからじゃないですかね」

 自分の信じる道へ、リスクとせずにタスクとせよ。

 それこそがボスから学んだ指導者として最も大切な姿勢であった。

<#3「黒澤良二前社長が語るポステコグルー」に続く>

文=二宮寿朗

photograph by Etsuo Hara/Getty Images