いまから2年前のセンバツ甲子園。大きな話題となったのが、出場校の“不可解な選出基準”だった。東海大会で4強止まりの大垣日大が選ばれ、決勝戦で惜敗した準優勝校の聖隷クリストファーが落選したのだ。一見すれば、明らかに理不尽な逆転現象。当時の高校生たちは、そんな異常事態をどう受け止めたのだろうか。「衝撃の落選」を経験した、当時の主将に話を聞いた。《NumberWebインタビュー第1回/後編に続く》

 春のセンバツが始まった。

 低反発バットの影響か、「ボールが飛ばないなぁ」と思っていたら、豊川のモイセエフ・ニキータが見事なホームランを放った。

 この豊川は東海地区から選出されたのだが、2カ月前の選考委員会で、「えっ、また」と感じたことがあった。

 選考発表の中継をCS放送で見ていて、最初に東海大会優勝の豊川の校名が挙がり、2番目にベスト4の宇治山田商の校名が挙がった。準優勝の愛工大名電は3番目だった。そう、逆転現象だ。

 翌日のある新聞には「豊川高校を相手にした時の比較というところを注視して検討させてもらった」という選考委員会の説明が載っていた。

 今年の東海地区は出場枠が1校増えていたが、今までの2校のままなら準優勝の愛工大名電は選ばれない可能性があったわけだ。

2年前のセンバツ…聖隷クリストファーの「悲劇」

 これは2年前の準優勝校、聖隷クリストファーが選ばれなかった時と同じではないか。

 この時はダルビッシュ有(パドレス)や里崎智也(評論家・元千葉ロッテ)がSNSなどで私見を述べたり、国会でも取り上げられるなど、各方面で物議を醸した。

 しかし、主催側は「(選考についての)詳細な内容は公開になじまない」「当該校にもこれ以上の説明を差し控えたい」との方針を発表しただけだった。

 当時、筆者はある雑誌のセンバツ展望号の事前取材で、聖隷クリストファーを訪問していた。

 1月の中旬だっただろうか、同校の浜松市郊外のグラウンドでは選ばれることを疑わずに溌溂とした雰囲気で練習が行われていた。

 校長も兼ねる上村敏正監督は、初出場となる責任を果たした安堵の笑顔でカメラマンと筆者を迎えてくれた。

 この時、主将の弓達(ゆだて)寛之投手にもチームのキーマンとして15分ほどのインタビューをした。ヒジのケガも回復してセンバツでは投げます、と約束してくれた。

 しかし、だ。聖隷クリストファーに吉報は来なかった。

 選考から数日たった週末、筆者はグラウンドを再訪して上村監督と話した。ただ、それは原稿にしない個人的な会話で終わった。弓達ら選手とは接することができなかった。まだ動揺が収まらないであろう高校生への監督の心配りがもちろん、あった。

 2時間ほどの練習は行われたがやはり、元気はなかったし、遠州の空っ風の冷たさは半端なかった記憶がある。

 あれから2年が経って、弓達はこの4月から首都大学リーグの武蔵大学野球部の2年生になっていた。短髪ではなくなって、体格もガッチリして大学生らしくなっていた。

 まずは、あの日のことから尋ねた。

「なんでも、聞いてください」というと弓達は記憶を掘り起こすように話し出した。

 日大三島との東海大会の決勝は3-6。実力に大差があると言われる敗戦でもない。選ばれると信じ切っていた、という。

「自分たちはグラウンドで練習をしていて、“選ばれました”と(上村)先生が出てくるのを待っていました。ザワザワしてるな、とは思いました。遅いな、とかトラブルかな、とか」

「選ばれなかったという事です」…頭が真っ白に

 上村監督が出てきて選手みんなを集めて、話しだすのだが、その一連の流れは覚えていないという。

「頭、真っ白だったんで。先生の第一声は『電話が来なかった』と言ったと思います。『選ばれなかったという事です』という言葉だったと思います」

 当時の新聞報道では、上村監督は「夏に向けてしっかりやろう」と選手に言ったという。

「先生は『夏に出よう』と言ってくれて、それから、練習の続きをしようとなったんですよ。でも、練習も力が入らず、ひどかったです(笑)」

 今から思うと、よく練習ができたなと苦笑いする。

「気持ちが揺れてました。目的が消えて何をもって練習すればいいのか。全国優勝を狙っているわけではないですが、甲子園に出ると名前が知られて、あとのチーム力も上がっていくじゃないですか。やっとその一歩が踏み出せると。そう、思ってたんですけど」

 さすがに翌日の練習は休みだったという。センバツのためにそれまで、休日返上で練習を続けていた。雨の日も重なって5日間ほど休みが続いた。

 いつも練習が終わると、監督とキャプテンは1対1で話すのだという。

「その日は、先生のショックがわかりました。『納得できるか』と最初に言われました。納得はできないですが、主将という立場もあって、『納得しないといけないと思います』と言ったと思います」

「ほんとにそうなのか」と上村監督はさらに、そう言葉をつづけた。「個人的には納得いってないです」と弓達は返した。

「普段は私情は一切なしで話してましたが、この時の1対1は一個人として初めて話した気がします」

 具体的に言葉で言われたわけではないが、本心を出していいんだぞ、そう促された気がしたという。

 ただ、そこでやり取りは終わった。

 それ以上、お互いの感情をぶつけ合ったら、興奮が収まらなくなる。高校生の心では抱えきれない状況になるかもしれない。

「気を遣ってそれ以上、先生は聞かれなかったと思います。先生が配慮してくださったと」

現実を受け止められない…経験したことのない感覚

 弓達は落選の報から数時間は、それまで経験したことのない初めての感覚だったという。現実を受け止められない、とはしばしば、表現としては聞くが、わが身に降りかかることはそうそう、ない。でも、聖隷クリストファーには現実に起きている。

「悲しみを超えてました。感情の表現、泣くという行為を忘れていた。何が起こったかわからないから、何もできないっていう……」

 ただ、弓達はこの夜の自分を褒めたいという。

「2、3人、泣いてる選手はいました。でも、自分は感情を抑えられた。ふさぎ込んだりしたら翌日以降にも響くし、逆に怒りを爆発させたらみんなも戸惑うので。それは先生がふだんから強い忍耐力を養うように指導してくださったからです」

 その夜、両親とは「何を言ってもしゃあないと思うけど、とりあえず頑張りなさい」という程度の会話をした。気を遣われるのもつらい。さらりとしていて、助けられた。

 中学時代のシニアの監督には自分から報告の電話をした。「残念やったけど夏もあるわけやからしっかり頑張れ」と言ってもらった。

 高校の先輩、地元の友達からは電話、メール、ラインなど50件以上の連絡があった。全員に「ありがとう」と返した。

 それでも2月に入って練習を続けた。退部する選手もいなかった。でも、仲間を鼓舞する言葉は言いづらかったという。

「いつもは、そんなんじゃ通用しないぞ、とか言うんですが。自分もやっぱり乗らないし。他の選手もなんのためにやってきたのか、っていう気持ちが消えていないわけですから」

 3月、練習試合が解禁されて、何試合かこなした。そして、目を覚まさせられる出来事はライバルとの公式戦だった。春季、地区大会の初戦で常葉大菊川にコールド負けしてしまうのだ。

「モチベーションも落ちていたし、もやもやしながら大会に入ったのも確か。でも、恥ずかしいというか、選ばれなくて当然と言われても仕方ない敗戦でした。もう、見返そう、やってやろうと思った。ターニングポイントになりました」

 そこから、夏に向けて練習の質、濃さが変わった。必死だったという。

「集中力が高まって厳しくなった。自分たちは弱いんだと再認識した。練習の最中に言い合いになるようなこともあった」

 自分たちの心の強さもチーム力も上がった、と確信したという。

最後の夏は「県大会ベスト4」

 春から夏まではチームも再生し充実した練習を重ねた。しかし結局、夏の大会はベスト4止まり。よくぞ、そこまで復活したという思いもあるが、センバツ落選の雪辱はならなかった。

 0-3で敗れた準決勝は「勝てた」と思うことがあるという。

「ワンアウト満塁というチャンスがありました。ヒットでなくても高いバウンドのゴロ、外野フライで1点が入る。でも初球の難しいボールを打ってゲッツーで終わっちゃった。外野に打つつもりなら手を出してないボールでした」

 バッターは経験の浅い下級生ではあったが、突き詰めていなかった。上村野球が出来なかった、と悔やむ。

「先生の野球が最後にできなかった。能力がないチームだからホームランなんて打てないし、みんな走れるわけでもない。フォアボールのランナーをバントで送って食らいつく。内野ゴロでも外野フライでも1点を取って守り勝つ。うちらはそういう戦法じゃないと勝てないんで」

 自身の3年の夏は投げられなかった。春に肩痛が癒えていて、登板回数が増えた。それが逆にたたって静岡大会前にヒジの痛みが再発した。

 最後の大会、3回戦ではファーストで4番。4打数3安打と勝利に貢献したが、突如、発熱してしまう。コロナの疑いもあって、チームから離れて実家に戻った。体調不良で済んだが復帰は準決勝になった。代打で出る準備をしていたが、ネクストバッターズサークルでゲームセットの瞬間を迎えた。

「自分にとっては波乱の夏でした。迷惑しかかけていない(笑)。キャプテン不在で何試合かは勝ってくれた。実家でネット中継を見てました。負けたら終わりの緊張感のなか、不思議な気持ちでした」

 大会が終わってすぐ、神戸の病院に行くと、尺骨肘頭部分の骨折と尺骨神経損傷という診断で直ちに手術を勧められた。

「精密検査を受けると、レントゲンでは骨がついてるように見えるけど、ヒジの骨の中がボロボロだった。神経も骨から飛び出していて、ちょっと動かしただけでも痛い。全身麻酔で気が付いたら手術は終わってました」

 こうして、弓達の高校野球は終わった。

 そして今、次のステージ、大学で野球に励んでいる。武蔵大の野球部は自分に合っている、という。

<次回へつづく>

文=清水岳志

photograph by KYODO