今年2月に行われた卓球の世界選手権。絶対王者・中国をギリギリまで追い詰め、日本でも大きな話題となった女子団体チーム。早田ひな、平野美宇らの主力選手は、いずれも2000年前後生まれの「卓球最強世代」の選手たちだ。

 実は世界選手権から遡ること1カ月――そんな黄金世代の選手のひとりである加藤美優は、全日本選手権の欠場と長期休養という決断を下していた。これまで世界の舞台で活躍してきた名選手に一体何が起きていたのか。本人にその真意を聞いた。《NumberWebインタビュー全2回の1回目/後編を読む》

 今年1月に行われた卓球の全日本選手権は、パリ五輪代表の最終選考対象大会ということから大きな注目を集めた。

 その開幕直前、あるニュースが卓球界に流れた。出場のための推薦枠を持っていた加藤美優が、それを辞退したという一報だった。

 世界選手権をはじめ国内外の数々の大会で活躍してきた加藤は、国内では最高峰の大会をなぜ辞退したのだろうか。

「今まで卓球にちょっと追われすぎて、これからどうしたいのか、どうしていくのかを考える時間もなく何年も過ぎている状況だったので。一度、今後を考えるために休養を選びました」

 東京都内の卓球クラブに姿を現した加藤は、そう言った。

 卓球に追われすぎて――加藤はその言葉の真意を説明する。

「振り返れば、1カ月半くらいずっと日本に帰らないで、何カ国も行ったこともありました。ヨーロッパに行って、帰ってきた次の日にTリーグの試合があるなんてこともあって……」

「シーズンオフ」が存在しない…卓球の特殊性

 卓球の上位選手は基本的に年中、海外遠征を繰りかえす。加えて、国内でもTリーグなどの試合がある。オフシーズンは存在せず、満足に休養がとれない状態が日常なのだ。

 パリ五輪こそ方式がかわったものの、それ以前は世界ランキングで日本代表が決まっていた。世界ランキングは主に海外の大会で結果を出すことでポイントが加算されるため、長期で休めば当然、順位は下がっていく。だから、代表を目指すレベルの選手であれば、ほとんど休むことがかなわない。

「(海外遠征の際は)長時間、飛行機で足が動かせないので、到着後にすぐ試合だと体もキツいです。いい成績を出しているときは『もっと、もっと』となりますけど、ちょっとつまずくと調整が難しかったりして、心配になることもありました。ただ『忙しいな』とは思いつつも『これが普通なのかな』と思ってずっとやっていましたね」

 加藤が卓球を始めたのは、6歳の時だ。

「家族で温泉卓球をやって、そのときに楽しくて始めた感じです」

 両親には「勉強か卓球か、どちらかは真剣にやりなさい」と言われた。

「じゃあ、勉強よりは卓球がいいなと思って」

 そう加藤は振り返る。

「始めたときは1日7時間とか普通にやってましたね。あとは学校終わりに3〜4時間くらいです。練習が苦しかったか? もちろん苦しいこともありましたけど、基本、小さい子って親の言うことは聞くものじゃないですか。だから、自然にできていましたね」

 そんな生活を続けるうち、加藤は徐々に頭角を現していった。

「練習量も多かったと思いますし、毎週毎週いろいろなオープン戦とかをまわると、その都度ライバルが現れるので。その選手に『勝ちたい』『勝つためにはここが足りない』とやっていたら……気づいたら強くなっていたというか」

小学生ながら全日本選手権で4勝を挙げる

 小学6年生だった2011年4月に出場したITTFジュニアサーキットグアム大会のカデット(15歳以下)で優勝。翌年に出場した2012年1月の全日本選手権シングルスではベスト32(5回戦)に進出した。

 小学生が全日本で5回戦まで進むのはあの福原愛以来のことで、加藤は史上最年少で4勝をあげた。2012年には中学1年で世界ジュニア選手権日本代表に選ばれ、団体で準優勝を果たしている。

 高校生になった2015年にはドイツ・ブンデスリーガのチームに加入し、ヨーロッパで腕を磨いた。

「世界で活躍するというのも目標にしていましたし、日本でも順々に世代の大会で優勝してきたので、夢とかじゃなく、普通に世界に行って活躍すると思っていました。大きいことを言い過ぎと誤解を呼ぶかもしれないんですけど、そこまで行くことが当たり前……くらいに思っていました」

 実際、それは加藤が重ねてきた成績を考えれば、自然な言葉だった。

 周囲からの評価も当然、高かった。卓球界からの期待の表れは次のエピソードにも示されている。

 2016年、リオデジャネイロ五輪の閉会式は、2020年東京五輪に開催地を引き継ぐセレモニーの場でもあった。東京の名所などの映像とともに柔道の阿部一二三ら若手アスリートが出演した。その1人として卓球界から参加したのは、東京出身でもあった加藤だった。

 もう8年も前のことだから「頭に残っているかと言えばそうでもないんですけど」と振り返りつつ、こう語る。

「友達や知り合いからはたくさん連絡をいただきました。うれしかったですね」

 2017年には初めてシニアの日本代表として世界選手権に出場し、2019年にも代表に選ばれた。同年の国際大会ではのちの東京五輪金メダリストであり、現在も王者・中国の主軸である陳夢を破り4位になったことも特筆される。

地元・東京での五輪も「一気に4年後は考えられなかった」

 階段を1つずつ上がってきた加藤の前には、地元での東京五輪も控えていた。

「実はそれほど特別な意識は持っていなくて。4年サイクルで考えているというよりも、毎日毎日練習して、毎週毎週試合があって……そこをまず乗り越えていかなければいけない。正直、一気に4年後のことまでは考えられなかったんですよね」

 五輪を最大の目標として、逆算して4年計画で進む他競技の選手も少なくない。そんな中、その言葉は卓球ならではのハードなスケジュールをあらためて痛感させた。

 また、東京五輪はパリ五輪とは異なり、世界ランキングに基づいて選考されることになっていた。おのずと先の大舞台よりも、目の前の国際大会1戦1戦を大切にせざるを得なかった。

 また、代表選考という観点でみれば、加藤の1学年下には、伊藤美誠、平野美宇、早田ひながいた。その3人に限らず、同世代には史上最強と言っていいライバルたちがひしめいていた。その中で戦ってきた。

 そしてそこには、ある種の葛藤もあった。

「ライバルがいなかったら楽だったな、とは思いますね」

 そう振り返りつつ、こう続ける。

「けっこう(ライバル選手に関する)質問をされるんですけど……何て答えたらいいんだろうといつも思いますね。何て答えてほしいんだろうって思っちゃう」

 どんなに強い選手であろうと、他人は他人だ。それについて聞かれても、加藤は答えを持ち合わせていなかった。結果的に「自分にはどんな答えが求められているのかな」と深読みしてしまった。

「『下の世代の3人の選手が強いけどどう思う?』と言われても、『どう思うとは?』『何て答えるのが正解なんだろう』ってなってました。周りからそのことを聞かれるのは……きつかったです」

日本卓球「黄金世代」の間で…葛藤と現実

 そして2020年1月、東京五輪の日本代表が発表された。

 その時点での世界ランキングにおける日本選手の順位は、1位は伊藤美誠、2位に石川佳純、3位には平野美宇、4位に佐藤瞳。そして5位に加藤。6位が、早田ひなだった。1位の伊藤と2位の石川がシングルスの日本代表に、3位の平野が団体戦の代表に決まった。その結果を、加藤は冷静に受け止めた。

「もちろんオリンピックには出たかったんですけど、自分の実力不足なので」

 そして付け加える。

「やっぱり3枠しかないので……難しいところではありますね」

 新型コロナウイルス禍により、東京五輪は1年延期となり2021年に開催された。だが、オフがないほどハードな卓球にあって、それは1つの区切りに過ぎない。「次こそは」と、そこから再スタートを期して進む選手たちもいる。

 一方で、加藤においてはそういうわけにはいかなかった。

 それは長年、休みなく打ち込んできた卓球との向き合い方が変わらざるを得ない状況が起きたからだった。

<後編へつづく>

文=松原孝臣

photograph by (L)Yuki Suenaga、(R)AFLO