高校野球界の“横綱的存在”である大阪桐蔭高校。そのキャプテンを務めた人物は今――。プロを目指した経緯を持ちながら、現役生活を終えてから起業した水本弦さん(29歳)に、社会人生活と西谷浩一監督のチーム作りの極意について聞いた。(全3回の第1回/第2回、第3回も配信中)

 ごく限られた選手だけが味わえる歓喜も、夢を断念する挫折も経験した。ユニホームを脱いで3年。野球に没頭した時間が現在につながっている。

高校時代、藤浪と森の強烈な記憶

 2012年、大阪桐蔭は史上7校目となる甲子園春夏連覇を果たした。後にプロ入りする藤浪晋太郎投手(現メッツ傘下3A)、澤田圭佑投手(現ロッテ)、森友哉捕手(現オリックス)ら個性の強い選手が集まっていたチームをまとめていたのが、主将の水本弦さんだった。

「我の強い選手ばかりだったので、縛らずに自由にやらせておけば問題ありませんでした。役割に対して強い責任感を持ってくれるので、その日の掃除といったちょっとしたことでも役割を与えるようにしていました。劣勢の試合展開でも『自分がいれば勝てる』という気持ちの強い選手が多く、チーム一丸になった時の力はものすごかったですね」

 同級生の藤浪は入学当初から球が速かった。ただ、チームには他にもスピードを武器とする投手がいたため、飛び抜けた印象はなかったという。また、コントロールが定まらなかったことから、水本さんは「ポテンシャルは高くてもプロに行くのは難しい」と思っていた。

 見方が変わったのは高校3年生になる頃だった。荒れ球ではあったものの、藤浪の投球にまとまりが出てきたと感じた。球速に加えて、球の強さも増していた。

「試合ではフルカウントになってばかりでしたが、失点は少なかったです。肝が据わっていましたね。3年生の時、藤浪はプロに行くと思うようになりました」

 1学年下の森は入学当初から別格だった。衝撃だったのは、チームに加わったばかりのフリー打撃。聞いたことのない音がグラウンドに響いた。今も水本さんの記憶に刻まれている。

「チームには色んなメーカーの金属バットがあり、バットによって音に特徴がありました。でも、森だけは、どのバットを使っても音が違うんです。バットを振り切らなくても逆方向にすごい飛距離を出していましたし、確実にプロに行くと思いました」

大学で「次元が違う。勝負にならない」

 石川県の中学校から大阪桐蔭に進んだ水本さんもプロを目指していた。

 高校トップレベルの選手たちと一緒に練習することで、向上心やモチベーションを高く保ったまま3年間を過ごした。

 大阪桐蔭を卒業した水本さんはプロ野球選手を多数輩出している亜細亜大学に進学し、1年春からレギュラーに定着した。「戦国リーグ」と呼ばれるほど争いが熾烈な東都大学野球で新人賞とベストナインを受賞。大学1年生で唯一、日米大学野球の日本代表に選出され、プロへの階段を着実に上っているように見えた。

 だが、光栄だったはずの場で夢をあきらめる決断をした。日の丸を背負う大学生となれば、ドラフト候補になる逸材ばかり。その中で選考合宿などで2人の選手のフリー打撃を見た時、水本さんは愕然とした。

「次元が違う。あんな選手たちとは勝負にならない」

山川と吉田の打撃を見て埋められない差を感じた

 今までに見たことのない飛距離で打球を次々と飛ばしていく。しかも、普段通りといった涼しい顔で。バットを握っていたのは富士大学の山川穂高選手(現ソフトバンク)と青山学院大学の吉田正尚選手(現レッドソックス)だった。水本さんより学年が上とはいえ、到底追いつけないレベルだと悟った。

「自分は足や肩が突出しているわけではないので、外野手として勝負できるのは打撃だと考えていました。ところが、2人の打撃を見て、埋められない差を感じました。プロに入ればパワーを武器にする外国人選手もいます。自分にはプロは無理だとあきらめました」

 山川と吉田の打撃を見てから、水本さんは目標を修正した。プロ入りや個人タイトルに興味はない。目指すのは仲間と分かち合う喜びだけだった。

「高校で経験したように、もう一度日本一になりたいと思いました。チームの結果にこだわって、日本一になるために自分は何をすれば良いのかを突き詰めました」

社会人で野球部に所属していた頃は営業を担当していた

 その言葉通り、大学在学中は5度のリーグ優勝を果たし、日本一も2度達成した。4年生の時には主将も務めている。

 亜細亜大学卒業後は、社会人野球の強豪・東邦ガスに進んだ。ここでもチームとしての結果にこだわったが、怪我もあって思うように貢献できなかった。2021年、26歳で野球人生に幕を下ろした。

 東邦ガス時代、現役中は硬式野球部に所属する社員のため、活動がない時間はサラリーマンとして働く。現役引退後は、朝から夕方まで他の社員と同じように勤務した。

 野球部に所属していた頃は営業を担当していた。シーズン中は午後から練習だったためスーツを着るのは午前中に限られたが、シーズンオフは1日中、外回りをした。若手社員に敬遠されがちな飛び込み営業も苦にならなかったという。営業を楽しむゆとりもあり、契約も取っていた。

野球部の主将と通じるところがありました

「どのようにお客さまに説明すれば良いのか、どんな声のトーンなら話を聞いてもらえるのかなど、野球部の主将と通じるところがありました。課題への取り組み方や監督の要求に応える方法を考える習慣も生きたと思います」

 挨拶や体力といった営業マンの基本となる要素も野球で備わっていた。一方、現役を退いてサラリーマンに専念してからは思わぬ苦戦を味わうことになった。

<つづきは第2回>

文=間淳

photograph by Hideki Sugiyama