明治大の投手コーチ、西嶋一記のノートにはあの日の日付がしっかり記されていた。

「2013年3月18日です。マイナーのコーディネーターに呼ばれて『お前を起用する場所がない』って言われたんですよね。メディカルチェックを受けて、翌日に帰国しました」

「隣を見てみろ、そいつらがライバルだ」

 大谷翔平や山本由伸の活躍で注目されるメジャーリーグだが、誰もがそのサクセスストーリーを踏んだわけではない。多くの“夢破れた日本人選手たち”がいる。

 西嶋もその1人だった。2011年にドジャース傘下のマイナーに入団したが、3年目のスプリングトレーニングの最中に解雇を通達された。

「アメリカに行った時はヤベェところに来ちゃったなと。コーディネーターに『隣を見てみろ、そいつらがライバルだ』って言われて。170人くらいはいたと思います。すごい奴らばかりでした」

 そのメンバーには昨季、ワールドチャンピオンに輝いたレンジャーズの中心打者、コーリー・シーガーなどがいた。

「のちに日本でプレーした選手もいました。ヤクルトのマクガフ投手や阪神にいたガルシア投手、巨人のサンチェス投手も。マクガフ投手とは、彼が日本にいるときは連絡をとっていました」

横浜→明治大、ドラフト指名漏れを経て…

 西嶋とアメリカとの縁は中学時代にあった。シニアの選抜チームで渡米し、現地でホームステイを経験。メジャーへの憧れを抱いた。高校は名門・横浜に進学。3年春に背番号「11」をつけてセンバツ制覇に貢献し、明治大へ進んだ。3年秋に最優秀防御率を獲得するなど活躍。1学年下の野村祐輔(広島)としのぎを削った。

 その明大時代に、西嶋は2度目のアメリカを経験する。4年時に、同大学が野球部創部100周年記念事業としてアリゾナキャンプを実施。ドジャースタジアムで1日練習したのち、ドジャースのキャンプ地、アリゾナへ向かったのだった。

「黒田(博樹)さんがチームにいらっしゃって、エースのカーショウ投手が売り出し中の頃でした。ドジャースタジアムは感動しましたね、いつか、ここで投げたいなと」

 日本のプロ野球を経ていつかはメジャーリーグへ。西嶋はそんな夢を抱いていた。だが、2010年、斎藤佑樹ら早大トリオ、中央大の剛球右腕・澤村拓一(ロッテ)、佛教大の左腕・大野雄大(中日)など豊作世代と言われたドラフト会議で、西嶋は指名から漏れる。その折にドジャースが接触したのだった。

じつは“自由じゃない”アメリカの育成

 渡米後は激しい競争を目の当たりにした。同時に、育成環境の違いに衝撃を受けた。

「日本でもある程度の年齢になると、選手に『練習を任せる』とか『放任する』とか言いますよね。あれ、どういう意味で言っているのかなって思うんですよね。アメリカではスプリングトレーニングの中でも、スターター枠、リリーバー枠というのがちゃんとある。スターターは投げる日があって、翌日はこういうトレーニング、2日目、3日目……と全部組まれているんです。かなり計画的に練習しているんだなと思いました。アメリカは大雑把に見えますが、プログラム化されてるし、その意味では自由ではない」

 メジャーリーガーでいえば10月のプレーオフでどう戦うかまでのスケジュールが綿密に計画されている。マイナーも同様だった。

「投球数いくつ、ブルペンの回数、バッターを立たせて投げるという段階があって、それをクリアしたら次にライブBP(実践形式の打撃練習で投げること)、シートバッティング、紅白戦を経て、オープン戦に入る。きっちり決まっていました。また、マイナーでは毎朝、体重を測ることも義務付けられていた。あまりに痩せすぎている選手は練習を禁止されることもありました。高タンパクな食事を摂ることで体は大きくなりましたね」

 計画的な育成手法があり、その中で結果を残していけば、プロスペクト(若手有望)の枠に入る。体を鍛えていく中で結果を求められるわけだ。

マイナーリーグの現実

 競争から抜け出すためには、実力だけではなくチームの方針も影響する。当時はピッチャーのスピード化が進んでいたため、コントロール重視の西嶋のようなタイプの需要が高くなかった。さらに、1年経てば新しい選手が入ってくる。後に最多勝を挙げることになるフリオ・ウリアスは同じサウスポーだったし、競争は激しくなるばかりだった。結果的にいうと、西嶋はその競争に敗れたわけである。

「(メジャーは)とんでもなく遠いところだなと思いました。こんなに壁が厚いのかと。ドラフトされてすぐ1年目でメジャーにいけるわけないと思いました。日本みたいに開幕一軍のようなことは難しい。どんなにすごい選手であっても1足飛びで出れるほど甘くない世界でした」

 大きな壁に阻まれた西嶋だからこそ、それを乗り越えた選手たちに対するリスペクトは誰よりも持っている。西嶋とはここ数年、野球談義をさせてもらっているが、「日本人選手が苦労している」という話をすると、怪訝な表情で「どれだけすごい世界かわかって言ってますか」と問い返されることもしばしばだ。マイナーを知るからこそ、その壁の高さがわかる。今、メジャーで活躍する選手への尊敬の念は深い。

「マイナーから這い上がられたマック鈴木さん、たず(田澤純一)さんは本当に神のような存在です。(日本に復帰した)筒香嘉智選手がマイナーでもがいているという報道がありましたけど、そりゃそうですよ。考えてみてください。彼は日本で一番のバッターでした。でも、あそこの世界には、俺はNo.1になるんだって連中が集まってくるんですよ。そこで頂点を極めた選手たちがメジャーリーガー。そういう世界なんです。

 そして、その世界で誰もやらなかったことを実現している大谷選手のすごさ。メジャーでNo.1に近いことを平気でやっている大谷選手がどれだけすごい選手かっていうことをもっと感じてほしいなと思います」

 大谷翔平は花巻東高校3年のとき、一度、高卒でのメジャーリーグ挑戦を表明している。2012年のことだ。ドジャース入団がほぼ決定的という報道もあった。仮に、あのまま彼が日本ハムとの契約をせずに海を渡っていたなら、西嶋とチームメイトになっていた可能性がある。

「YouTubeで大谷くんのことを見て、すごい選手が出てきたなと思いました。ドジャースにくるという噂もありましたから、僕は待っていました。おそらく、同じ部屋になっていたんだろうと思いますけど、縁はなかったですね」

会社員&明治大投手コーチに…

 現役を引退した西嶋は今、会社員として働く傍ら、明大で投手コーチを務めている。ドラフト1位の森下暢仁(広島)をはじめ、伊勢大夢(DeNA)、今年のルーキーでは村田賢一(ソフトバンク)、石原勇輝(ヤクルト)などをプロに送り出した。「本人が頑張っただけ」と自身の功績ではないと謙遜するが、横浜、明大、そしてドジャースという野球界の名門を渡り歩いた。

「高校のときからちゃんとトレーニングしておくべきだったなと思います。横浜高校のときからアメリカに行くぞと目標設定して、高校・大学の7年間でちゃんとトレーニングやって、メジャーへの準備をしたかったですね。気づいてからでは遅い。だから今、そういうことを伝えるようにしていますね。トレーニングをしてから投げるというサイクルを大切にしています。昨シーズンが終わってからも、選手には今シーズンに向けてどんなスケジュールで調整していくかも早めに伝えました。その中でどう準備するかは選手らが考えると思うので、僕は管理だけしています」

 マイナーリーグの経験から、西嶋は野球界の生き字引となっている。もっとも西嶋はアメリカにいたからといって、向こうのやり方を押し付けようとはしない。ただ、彼の中に育まれた新たな視点は、野球界の人材育成に必ずや寄与するはずだ。

文=氏原英明

photograph by Nanae Suzuki