2023ー24年の期間内(対象:2023年12月〜2024年4月)まで、NumberWebで反響の大きかった記事ベスト5を発表します。スポーツ総合部門の第5位は、こちら!(初公開日 2024年3月14日/肩書などはすべて当時)。

 1998年8月8日、七冠制覇をその2年前に達成した羽生善治を瞠目させた棋士が29歳で早世した。「消えた天才」の村山聖八段(追贈九段)である。その壮絶な棋士人生について、公式戦で対局経験のある田丸昇九段が振り返る。第1回は難病にかかって死と隣り合わせの少年時代、名人を目指して奨励会に入会するまで――。※敬称略。棋士の肩書は当時<全3回の第1回/第2回、第3回も配信中>

 村山聖は1969年(昭和44)6月15日、父親の伸一、母親のトミ子の第3子の次男として、広島県安芸郡府中町で生まれた。父親は尊敬する聖徳太子の一字を取り、聖(さとし)と命名した。

 村山は両親と兄姉の愛に育まれ、幼少期を健やかに過ごした。野山で遊ぶのが大好きだった。ところが、4歳の頃から原因不明の高熱にたびたび襲われた。近所の医者の診断は風邪で、通院して薬を服用すると治った。その1年後、父親は村山の顔が膨れ上がっていることに驚いた。

 広島市民病院に村山を連れていくと、医者に「ネフローゼ症候群」と診断された。腎臓の濾過機能の異常で蛋白が尿に排出され、血液中の蛋白濃度が低下することで、顔や手足がむくむ病気である。重症になると呼吸困難に陥って死の危険もある。

 74年7月、村山は同病院に緊急入院した。安静にすると元気になったが、活発な性格なので遊びまわっては体力を使い果たし、また発熱して体調を崩した。その後、入退院を繰り返した。

聖は将棋を覚えたことによって変わりました

 村山は2年後の76年4月に府中小学校に入学したものの、病状は一進一退だった。2年生になると主治医の判断で、広島県の国立療養所原病院の施設に入った。再生不良性貧血や白血病などの難病を抱えた子どもたちが多くいた。昨日まで一緒に過ごした仲間が翌日に亡くなることがあり、死と隣り合わせの状況だった。

 原療養所の生活は6時の起床から21時の就寝まで規則正しく、自由時間は計3時間ほどあった。村山は子どもたちと将棋を指したり、父親が差し入れた棋書を読んだ。小学1年のときに将棋を教えた父親は、このように語っている。

「聖は将棋を覚えたことによって変わりました。あれほど動き回っていたのに将棋に熱中し、我が儘もなくなりました」

 そして村山の日記には《今日もしょうぎのれんしゅうを六、七時間しました》《しょうぎのせめ方という本をべんきょうしました》など、将棋に打ち込んだことが毎日のように書かれていた。

 村山が外泊許可(月に3日)を得て実家に帰ると、近所のアマ三段の人と指したり、広島将棋センターに行って指したりした。それまでは療養所で初級者の子どもたちと指しただけなのに、すでに有段の実力がついていて大人たちを負かした。毎日10題を必ず解いた詰将棋(王手の連続で玉を詰ます問題)によって、特に終盤の寄せが強かった。

 将棋を指して療養所に帰った夜、「もっと強くなりたい」「名人になりたい」と心の中でつぶやいた。

後の中井女流に負けて「東京はすごいもんじゃ」

 81年5月、村山は父親に連れられて東京に初めて行った。千駄ヶ谷の将棋会館で行われる小学生名人戦に参加するためだった。

 全国から246人が集まった大会前日、同年齢の女子と練習で指すと負かされてしまい、「東京はすごいもんじゃ」と驚いた。

 北海道から来て同年の小学生名人戦で準優勝したその女子は、後年に多くの女流タイトルを獲得した中井広恵女流六段だった。なお村山は4回戦まで勝ち進み、佐藤康光(現九段)に敗れた。1学年下の小学5年の羽生善治(現九段)は準々決勝で敗退している。

 翌82年4月、村山は府中中学校に進学した。その3カ月前には、数年間を過ごした原療養所を出て実家に帰った。成長して体力がつき、薬で症状を抑えられるようになったことで7月には東京で行われた中学生名人戦に参加できたものの、準々決勝で敗退した。

谷川を負かすには今しかない。行かせてくれ

 敗戦後、村山が悔しい思いで都内のある将棋クラブに寄ると、何人ものアマ四段を連破した。帰りがけに顔を出したのは、アマ棋界の英雄だった小池重明である。小池は80年と81年のアマ名人戦で連続優勝し、A級棋士を平手の手合で破るなど「プロ棋士キラー」として名を馳せていた。

 その小池と村山の対局が行われ、激闘の末に村山が勝った。小池は「僕、強いんだなあ」と言って称えた。この一局が村山にとって大きな自信となり、棋士になりたい思いはますます募った。

 やがて村山は「奨励会(棋士養成機関)に入りたい。大阪へ1人で行く」と言い出した。

 父親は、息子には好きなように生きさせたいと思ったが、体調面の不安があって逡巡していた。

 そこで82年9月に親族会議を開き、反対してもらおうと考えた。実際に親族たちはおおむね反対だった。しかし村山は必死の思いで「谷川(浩司・当時20歳のA級八段)を負かすには今しかない。行かせてくれ」と頭を下げて頼み込んだ。

父親の義弟が賛同したことで棋士への道が…

 すると、中学校の校長を務める父親の義弟がこう切り出した。

「中学1年生で自分の人生を決められる者はなかなかいない。うちの学校にもこんな生徒がほしい」

 彼が賛同したことで、その場の空気は一変した。結局、村山の希望は承認されたのだった――。
<つづきは第2回>

文=田丸昇

photograph by 日本将棋連盟