1995年5月2日、野茂英雄がメジャー初登板を果たしてから29年が経つ。ポスティングシステムもない当時、プロ6年目に突入する野茂が1995年も日本でプレーすることは当然と目されていた。一体、近鉄のラストシーズンに何が起きていたのか。第3回に引き続き、近鉄時代の番記者が1994年12月からスタートした近鉄と野茂との「契約更改交渉」を振り返る――。【連載第4回/初回から読む】

キーとなった「複数年契約」

 後に聞けば、野茂はその第2回交渉で、代理人交渉をまず要求。球団の同意も得ぬままに、代理人の団野村が登場したという。

 当時、日本球界では「代理人交渉」は認められていなかった。だから「エージェント」という存在が世間に認識されるきっかけとなったともいえるだろう。

 それから野茂は再び「複数年契約」を要求したとも伝えられた。

 それが認められないと分かるや、今度は「メジャー行き」を主張。それでも交渉が平行線となれば、「任意引退」――。

 これが、野茂と団野村が研究し尽くした、野球協約の“盲点”を突く交渉術だった。

 日本球界への疑問。首脳陣との確執。やりたいことがやれない。自分が正しいと思うことを、認めてもらえない。そんな野茂の苦悩を、真正面から受け止め、タッグを組んで球団側との交渉に立ち会ったのが、団野村という「代理人」だった。

「任意引退」の意味

 その団野村とともに、野茂はプロ野球選手の身分を規定している「統一契約書」を徹底的に調べ上げた。野球協約を熟読すれば、日本の「任意引退」は、元の球団の同意がなければ他球団への移籍はできないことが分かる。しかし、米国は日本の野球協約の適用外だった。

 つまり、日本の「任意引退」は、米国では「フリーエージェント」と解釈され、日米間でその覚え書きも存在していた。日本の野球協約は“国内法”に過ぎないのだ。

 契約更改交渉の席上、複数年契約を要求した野茂と単年契約を提示した球団側は決裂。その時、野茂は球団側から差し出された「任意引退同意書」にサインしたという。

 何とも聞き慣れない書類の名前に、その真偽が取り沙汰されたのも事実だ。

「任意引退」をした先輩の近鉄選手がいた

 ところがこれは当時、若手選手が米球界へ留学の形で派遣されるときなど、いったんこの同意書にサインするケースがあったという。

「俺もなあ、書いたことあると思うで」

 そう教えてくれたのは、94年に12勝を挙げた右腕・山崎慎太郎だった。

 山崎は、プロ2年目の1986年、米ルーキーリーグへの野球留学を経験している。アメリカでプレーするために、近鉄からいったん“リリース”された状態にする必要があり、その手続きとして「任意引退同意書」にサインしたのだという。

 だから、この同意書の効力を知る球団と野茂とのやりとりは、こう読み取れるのだ。

 球団側からすれば、契約交渉に際しての一貫した姿勢を見せ、強硬な野茂側へのいわば“ブラフ”のつもりで「任意引退」を突きつけた、と。

 こちらの言い分をくみ取ってもらわなければ、近鉄はおろか、日本の他球団でもプレーができないという、いわば忠告の意味合いも含まれているわけだ。

両者の「視点」は、完全に違っていた

 しかし、両者の「視点」は、完全に違っていた。このままでは、野球ができなくなると考えるのは、日本だけを見た発想に過ぎなかった。米国では関係ないのだ。

 近鉄の球団社長・前田泰男は、野茂からの「任意引退同意書」を受け取った後、コミッショナー事務局に問い合わせていた。そこで初めて、アメリカに渡れば、野茂はフリーエージェントとなることに気づくのだ。

 まさしく、野茂と団野村の“思惑通り”のシナリオだった。

1月9日の会見場には全国メディアが集結

 慌てた球団は、複数年契約という野茂側の“表向きの要求”を呑むという譲歩案を携え、年明けの1月7日に野茂と非公開の会談をセット。東京や大阪では記者に感づかれると考え、近鉄系列のホテルがある名古屋を選んだ上で、極秘の残留交渉をしていたのだという。

 その席で野茂は「メジャーに行かせてください」の一点張りだったという。「任意引退同意書」という“言質”の前に、球団側はもはやなすすべなしだった。

 1995年1月9日、それが公的には3度目の契約更改交渉だった。

 大阪市内のホテルの一室が、会見場に設定された。普段は関西の新聞、テレビ各社の近鉄番記者を合わせても、10人程度しか出席しない。だから、宴会場のような広いスペースではない。そこに、全国から記者たちがどっと詰めかけてきた。

 そのとき、私は近鉄番記者の「幹事社」を務めていた。球団広報に、報道陣側の要望をまとめて伝えたりする橋渡し役で、通例は年ごとの交代制。だから、この日の野茂の会見が事実上の“初仕事”だった。

『野茂マリナーズ入り 大リーグ武者修行に』――。(スポーツ報知1月9日大阪版 一面)

 その日の朝、スポーツ報知が一面で報じた大ニュースが全国を駆け巡っていた。

ロッカーに貼られたMLB選手たちのカード

 1994年シーズンは野茂の二軍調整が続いていたことで、私にも二軍の取材機会が増えた。ある日、藤井寺球場のロッカー内で、別の選手の取材を行う機会があった。普段は立ち入り禁止のスペースだが、他の記者がいなかったこともあってロッカーに入って話を聞いたのだ。

 そこから、出るときだった。

 ふと、野茂のロッカーに目が行った。一人一人のロッカーを区切る白い柱。そこに、野球カードが何枚も貼られていた。すべて、メジャーの一流選手たちのカードだ。

 いつか、この世界に行く。この選手たちと対戦するんだ。カードを毎日見つめながら、その思いを固めていったのだろう。

 その「ベースボールカード」と、上智大のシンポジウムでの「大リーグに行きたい」という宣言。さらにもう一つ、私はある“貴重な証言”も聞いていた。

メジャー挑戦発表前日にあった証言

 3度目の契約更改交渉前日となる1月8日、野茂は親しい球団関係者の結婚披露宴に出席するため、大阪市内のホテルに姿を見せた。

「任意引退? してないです」

 自らの“手の内”を一切明かさなかった野茂の盟友、石井浩郎も同じ披露宴の席にいた。

「どっちに転ぶことになっても、僕らは野茂を応援していますよ」

 その意味深な言葉に、私は問いを重ねた。

「何、話したんですか」

「内容は僕と野茂のこと。だから、言えないですよ」

 どちらに、転んでも……。

 交渉決裂、近鉄から移籍。球団がその方向で動けば、国内でのトレードは実現できるだろう。メジャーなんてありえないというその“前提”から、この期に及んでも私はまだ抜け出せなかった。

 これまでの取材、そして石井からの“最後のヒント”を得て、私が考え、導き出した結論は“近鉄から他球団へ”止まりだった。

『近鉄出たい 野茂移籍希望』――。(サンケイスポーツ1月9日大阪版 一面)

会見場から外される近鉄球団旗

 会見に先立って行われた野茂と球団との最終交渉で、野茂への説得を球団側が最終的に断念し「近鉄退団、メジャー挑戦」が決まったのだろう。

 球団の会見場に広報担当が入ってくると、会見席の背後にある球団旗を外し始めた。

 それが、もう“答え”だった。

 会見場には多くの報道陣が集結した。椅子が邪魔になって、部屋に入り切れないほどの人だかりができたほどだった。他社の番記者とも話し合った上で、記者クラブ側の総意として、私は広報に「会見場内の椅子を、すべて取り除いてほしい」とお願いした。だから、野茂の会見の際、野茂の前にいた私たち記者団は、椅子ではなく、部屋のフロアに座り込んでいた。

 幹事社だった私が、最初の質問を投げ掛けることになった。

「はい」という答えが出ないのは、分かっていた

「サインはしましたか?」

 契約更改交渉の、お決まりの第一声。「はい」という答えが出ないのは、分かっていた。

「今日の交渉で、僕自身、大リーグに挑戦したいということで、球団からも『行ってこい』という形になりました」

固定観念が、判断を狂わせた

 会見後、スポーツ報知のベテラン記者に、ふと呼び止められた。

「惜しかったな。お前、半分、合ってたんやけどな」

 もう一歩、踏み込めなかった。固定観念が、判断を狂わせた。

 あれから30年近く。幸いなことに、今もなおプロ野球取材の現場に立たせてもらっている自分にとって、あの一連の取材で得た教訓は、決して忘れることはない。

 野茂、メジャー挑戦へ――。

 新たな歴史の扉が開かれたその瞬間に立ち会えたことを、今は感謝している。

<初回とあわせてお読みください>

文=喜瀬雅則

photograph by JIJI PRESS