2011年5月20日、メジロ牧場の名前が馬主名簿から消えた。オーナーブリーダーの雄として多くの駿馬を輩出した名門には、黎明期から連綿と受け継がれてきた名牝の血脈があった。クインからはじまり、ボサツ、ラモーヌ、ドーベル―。競馬史に残るメジロの偉大な足跡と“これから”を追った。発売中のNumberPLUS「名馬堂々II 競馬ノンフィクション選集」より、特別に転載します。(初出:2011年11月22日発売のNumber794号 メジロ牧場「女たちがつなぐDNA」より)

 2011年の5月、メジロ牧場が44年に及ぶ歴史に自ら幕を下ろした。個人のオーナーが自分で馬を作り、自分の勝負服の騎手を乗せて走らせるオーナーブリーダーの時代は終わりつつあるのかもしれない。白地に緑のラインの目にあざやかな勝負服の騎手を戴いて疾走した馬たちの名前が浮かんでくる。武豊とメジロマックイーン。横山典弘とメジロライアン。メジロ牧場の馬たちは決して華やかな血統を誇ったわけではない。マックイーンもライアンも父は国産だった。父仔三代の天皇賞制覇は重厚な3200mが舞台だった。ダービーではあと一歩届かず、2着が4回ある。力強いがどこかあか抜けない男の牧場。

 しかし、メジロにはますらおぶりと対照的な牝馬の系譜、たおやめぶりともいうべき流れがあることも忘れてはならない。メジロ牧場には美しく、繊細で芯の強い牝馬たちと、それをうしろで支えた母のような女性の存在があった。

メジロクインからはじまった大きな血の流れ

 メジロ牧場の馬で、現在のGIに相当するレースを勝った最初の馬が牝馬だったことは知られてよい。メジロボサツは浦河の冨岡牧場の生産馬だったが、母はメジロ牧場の創設者、北野豊吉の所有馬であり、メジロボサツもメジロ牧場の馬としてデビューし大活躍した。400kgにも満たない小柄な身で、牡馬のクラシック候補たちを向こうに回し1965年の朝日杯3歳ステークス(現在のフューチュリティステークス)を勝った。

 メジロボサツは難産で、母メジロクインはメジロボサツを産み落とすとそのまま息を引き取った。馬名のボサツは、母が仏になったことからつけられたといわれる。メジロボサツが強いのは仏になった母の加護があるからなどとささやかれた。桜花賞、オークスは健闘しながらあと一歩及ばなかったが、朝日杯のほかに函館記念などの重賞を勝ち、母になっても弥生賞などを勝ちクラシック候補といわれたメジロゲッコウなどの活躍馬を送り出した。メジロボサツの母メジロクインからはじまる血の流れはやがてメジロ牧場を支える大きな川になっていく。しかし、そのほとりに大きな花が開くのはまだだいぶ先のことだった。

 メジロ牧場を作った北野豊吉は立志伝中の人物である。関東大震災の年、大阪から上京してきた北野は19歳のとび職だった。度胸自慢のとびのアニキとして売り出し、人が集まり、33の年に北野建設を起こす。戦後は大手ゼネコンの傘下で日本初の超高層ビル、霞が関ビルをはじめ高度成長期のシンボルのような高層建築を手がけた。「世界一のとびになる」が若いときからの口癖で、海外に出かけてもまず摩天楼に目が行く男だった。

 道楽は馬。戦前から馬主になったが、戦後になると次第に道楽の域を脱し、本職に匹敵する生きがいになった。1961年のダービーで、北野の持ち馬、メジロオーは僅差の2着に敗れる。勝ったのは戦前からの大馬主、西博のハクショウだった。「ハクショウのハナ」は僅差のたとえとして長く使われた。この惜敗が負けず嫌いの北野に火をつけた。本腰を入れて強い馬を手に入れることをめざす。ついには1967年、北海道にメジロ牧場を開いた。

北野は「国産一辺倒」の狭量な男ではなかった

 生産牧場には牧場の骨格を形作る基礎牝馬が要る。基礎牝馬になるのは長く日本で活躍馬を出しつづけてきた血統か、海外で高い評価を受けた血統の馬のいずれかである。メジロボサツを生んだメジロクインは戦前からの伝統的な日本血統だった。勇み肌のとびの親方が伝統的な日本血統を愛する。これは分かりやすいストーリーである。

 だが、北野は国産一辺倒の狭量な男ではなかった。世界の高層ビルを見て歩いたように、積極的に海外からも血を求めた。メジロボサツが朝日杯を勝った1965年、メジロ牧場はアマゾンウォリアーを輸入した。母方から大種牡馬マンノウォー、父方から英国の至宝ハイペリオンの血を受け継ぐアマゾンウォリアーはメジロ牧場が新たな基礎牝馬にと期待をかけた馬だった。そして、その期待に応えてアマゾンウォリアーは京都新聞杯を勝ち、菊花賞、有馬記念で3着になるなど活躍したメジロイーグルの母になる。しかし、あと一歩でGI級に届かないのはメジロボサツの血統と共通するもどかしさだった。

 アマゾンウォリアーの娘、メジロヒリュウは平地の特別戦を2勝した中級馬だったが、繁殖牝馬になっても、やはり失格とはいえないものの、一級馬を出すまで行っていなかった。そのメジロヒリュウにモガミを種付けして生まれた牝馬がいた。顔に長い流星の入った青鹿毛は美しかったが、かといって同い年の中で際立った気品や動きを見せるわけでもない。ごく中級といった感じの馬だった。

 美浦の調教師、奥平真治は1984年、1歳になったメジロヒリュウの娘を牧場で見た。

「2頭見せてもらった。いいほうを持って行きなさいっていわれてね。迷った末に中の上といった感じのメジロヒリュウの産駒を選んだ」

 奥平は40代の中堅調教師だったが、すでに天皇賞馬を何頭も送り出し、ブランドになりつつあったメジロの馬は預かったことがなかった。

「前からウチの馬をやってみないかと北野会長からはいわれていたんだけど、なかなか機会がなくてね。そのときがはじめてだった」

牧場の総帥になったのは妻のミヤだった

 だが、メジロヒリュウの娘を見に行ったとき、すでに北野豊吉は世を去っていた。いわば遺品のような形で奥平はその馬を預かることになる。

 北野豊吉のあとを継いで牧場の総帥になったのは妻のミヤだった。和服にめがねでいつも豊吉とともに競馬場にやってくるミヤは競馬の世界での有名人のひとりで、関係者からは親しみを込めて「メジロのばあちゃん」と呼ばれていた。「穏やかだが怒ると怖い」「男勝りで度胸は先代以上」などという人もあった。ミヤははっきりした目標を持っていた。ひとつは3200mの天皇賞を勝つ馬を出すこと。もうひとつはクラシック制覇。特にクラシックはダービーの2着やオークスの2着はあったが、まだ勝利は手にしていない。それを豊吉の墓前に捧げるのがミヤの目標だった。

 奥平の許に預けられた「中の上」の牝馬、メジロラモーヌは順調に成長してデビューの年を迎えたが、最初はクラシックなどは期待されていなかった。

「ところが調教が進むと速い時計が出る。当時は本馬場で追いきったりするんだが、動きのバランスが抜群なんだ。これは走る。ただ走る馬ほど故障しやすいからね」

 脚を気遣い、デビューは負担の少ないダートが選ばれた。1985年10月の東京のデビュー戦。メジロラモーヌは2着に3秒1もの大差をつけて快勝した。1秒差がついたら大勝といわれる競馬で3秒あまりの差は異次元の生き物である。クラシック候補の声が沸き起こった。

文=阿部珠樹

photograph by Seiji Sakaguchi