今年4月、1500mでの学生記録を引っ提げ、立教大から名門実業団の積水化学に入社した女子陸上競技の道下美槻。中高時代から全国大会の経験はあったが、大学時代にさらに急成長。名実ともに「学生最速ランナー」だった道下だが、所属していた立教大は決して陸上の強豪校というわけではなかった。彼女が異例の進路を選んだ理由はなんだったのだろうか?<NumberWebインタビュー全3回の1回目/つづきを読む>

「大学では、とにかく楽しく陸上がやってみたくて」

 道下美槻はいま、かつての自身の決断をそんな風に振り返る。

 中学・高校といずれも全国大会に出場し、高校生ランナーの憧れでもある都大路も経験した。多くの大学から声がかかった中で、道下が進学先に選んだのは立教大だった。

 道下入学後にこそ富士山女子駅伝への出場を果たすなど、全国的にも知名度を上げてきた同大女子陸上部だが、いまに至るまでフルタイムの指導者はおらずいわゆる「駅伝強豪大学」とは一線を画す。中高時代に全国的な実績を持つ選手が選ぶ進路としては、いささか異質でもあった。

「気楽に自由にやりたいなというのが大きかったんです。高校時代は『なんでこんなきつい思いをして走っているんだろう』みたいに思うことが多かったので……」

「ダンスのために」はじめた陸上で才能が開花

 道下が陸上競技をはじめたのは中学生のときだった。

 実は、それまで打ち込んでいたのは習い事のひとつとして熱中していたダンス。ただ、入学した中学は部活への加入が義務付けられていた。

「ダンスのために、少しでも体力がつけばいいなぁ」

 そんな気持ちで入部した陸上部で、本人が想像もしていなかった才能が花開く。

 練習は「ほぼ遊んでるんじゃないかってくらいのメニュー」だったそうだが、記録はグングン伸びた。もともとの目的だったダンスは結局中2で辞め、入れ違うように陸上競技に夢中になっていった。3年生の時には800mで全国大会にも出場を決めた。

 期せずして結果を出した道下には多くの高校から勧誘の声がかかった。そんな中から道下が選んだのは、当時、東京都の長距離界でトップクラスの強豪だった順天高校だった。

「個人としての目標のひとつは、中距離種目でインターハイに出て戦うこと。あとはチームとしての一番の目標は、都大路でした」

 そんな目標は早々に1年時から果たすことができた。

 夏のインターハイ路線では800mで全国大会まで進出。結果は予選落ちに終わったものの、秋には国体で800m6位入賞。専門外の長距離を走ることになる駅伝でも、都大会こそメンバー外だったが、都大路では主要区間を任された。

 かように1年目から安定した結果を残した。だが、全国の舞台でさらに上を目指すため「さあ、ここから」というところで、道下の身体に異変が起こる。

「それまでも時々あったんですが、レース前やポイント練習などのプレッシャーがかかる場面の前になると急に嘔吐するようになってしまって」

 そのこと自体は重圧がかかる場面では決して珍しいことではない。多くの人も似たような経験があるだろう。ただ、道下の場合はその頻度が普通ではなかった。

「特に駅伝シーズンになると本当にきつくて……辛かったです。チームのために失敗できない。そう思えば思うほどウッとなってしまって」

 当初は大きな大会前だけだったものが、どんどんその回数が増えていった。

 その内に、普段の練習前にもトイレに駆け込むようになった。そうして、追い込んだ練習がうまくできなくなっていったという。

「結果を出さなければ」という重圧から不調に

 結果を出さなければ。チームに迷惑はかけられない。本当ならできるはずなのに――なまじ高校入学直後の1年目で結果を残してしまったことが、かえって本人の大きな枷になっていた。

「2年目の高校駅伝は都大会で2区を走ったんです。でも、他の選手が全員区間賞だったのに、私だけ区間賞が取れなくて。自分だけ足を引っ張ってしまって、本当に苦しかったです」

 チームは都大路出場を決めたものの、シビアな結果を目の当たりにして負のスパイラルはますます強まっていった。結果的にその年の都大路は、メンバーからも漏れた。

「3年生の時はもう本当に試合の日はレース直前までトイレに籠っているような状態になってしまって。全然、満足な走りができませんでした」

 その理由について、道下は「いま考えると……」と考察する。

「当時は言われた練習しかやってなかったですし、自分の頭で考えるということができていなかった気がします。メニューの設定タイムに対しても、『速くなるためにはこのくらいの強度が必要だから』という考えではなく『何とか先生の期待に応えなきゃ』みたいな感じになってしまっていて。その考え方のせいで、自分で自分にプレッシャーをかけて、悪循環になっていたんだと思います」

 内発的な課題解決のためのトレーニングではなく、外側から与えられたものをこなす。それゆえ自らに重圧をかけてしまう。本来は強くなる、記録を伸ばすための練習のはずが、「やらされる」練習になってしまっていた。そんな状態が続いたことで、楽しかったハズの陸上競技は、どんどん苦しいものへと変わっていってしまった。

 結果的に2年目、3年目はインターハイ路線、駅伝ともに全国の舞台に立つことすら叶わなかった。

大学では「自由に陸上をやりたい」

 そんな高校時代の失意の結果を受けて、道下は思い切った決断をする。

「大学進学では思い切って指導者のいないところに行こうと思ったんです。こうなったら自分で自由にやりたいなと思って」

 そうして道下が選んだのが、前述のように専門の指導者がおらず、学生主体の運営を行っていた立教大だった。

 当時の立教大はスポーツ推薦のシステムこそあったものの、他の駅伝強化校のように競技実績があればほぼフリーパスで入学できるような状況ではなく、合格率も決して高くなかった。そんなハードルを鑑みてもなお、これまでとは違う環境に身を置きたかった。

 なんとか入試に合格し、新たな世界に身を置いたことで、再び道下の走りに変化が起きることになる。

<次回へつづく>

(撮影=鈴木七絵/文藝春秋)

文=山崎ダイ

photograph by (L)Nanae Suzuki、(R)AFLO