「現役引退します」
 3月20日、小松陽平が自身のSNSでリリースした内容は、衝撃的だった。2019年の第95回箱根駅伝では8区区間新記録、大会MVPの金栗四三杯を獲得する走りで東海大初の総合優勝に貢献。昨年と今年と2年続けて実業団日本一を争うニューイヤー駅伝で1区を駆けた。まだ26歳、競技者として、これからまだ伸びる可能性は十分にある。
 なぜ、今、引退なのか――。
 地元の札幌で会った小松の表情は、思いつめたような暗さはなく、むしろ8区を快走した時のように晴れやかだった。(Number Webインタビュー全3回の第1回)

同期はSやAも…僕はCチーム

 小松は、東海大四高(現東海大札幌)から東海大に進学した。陸上部には、鬼塚翔太、館澤亨次、関颯人、羽生拓矢ら、のちに「黄金世代」と称される高校のトップレベルの選手が同時に入部してきた。

「みんな、高校時代から有名で憧れの存在でした。彼らは、最初の練習からSチームやAチームだったんですけど、僕はCチームでぜんぜん一緒に練習できなかった。僕の高校時代はキロ4(1km4分)で12キロがポイント練習(レースに向け選考の目安となる重要な練習)みたいな感じだったんですけど、大学では朝練がキロ3分45秒で16キロとか走るんです。これが朝練? これ、ポイントじゃないのかよって思っていました」

 同期に負けたくない。強くなりたい。その一心で練習に取り組み、前を行く仲間の背中を追いかけた。大学2年の秋、小松は「Aチームに上げてください」と両角速監督に直訴し、ようやく彼らと同じ土俵に立てた。

ハーフの実績がまだ足りない

「2年の時、成長のキッカケになったのが、全日本大学駅伝の選考会です。1組目で僕が1位、郡司(陽大、同期)が7位でいい流れを作れたんです。日本選手権に出る選手もいて、それでチャンスが回ってきたんですけど、それを活かせた。その勢いで夏合宿を乗り切って秋にようやくですが、Aチームに行けた。同期を必死に追いかけていくうちに、いつの間にか僕自身も成長して、同じ練習ができるようになっていたんです」

 全日本大学駅伝選考会を2位で突破し、小松は本大会の出場を狙ったが出走メンバーに入れなかった。その際、両角監督に「予選会を突破できたのは小松のおかげだと思っている。メンバーに入れたいけど、まだ実績など足りないところもある」と言われた。メンバーの基準となる10000mは、多くが28分台のタイムを持つ中、小松の自己ベストは29分15秒だった。箱根駅伝も大会前の合宿に参加したが、最終的に16名の登録メンバーに入ることができなかった。

「その時は、めちゃくちゃ泣きました。監督に『小松が本気になってメンバーに絡もうという姿勢はすごく評価している。だが、ハーフの実績がまだ足りない』と言われたんです。確かに僕はハーフのタイムがなかった。めちゃくちゃ調子がよかったので走れる自信があったんですが、実績と言われると悔しいけど、諦めるしかなかったんです」

本当に箱根を走れるのか不安だったんですけど…

 3年になり、出雲、全日本と出番がなく、小松は東海大の箱根駅伝の選考レースとなる上尾ハーフに臨んだ。63分07秒(16位)で中島怜利、阪口竜平に次いで部内3位となり、箱根駅伝の出場をほぼ手中に収めた。その後、合宿に入り、往路の主力選手には区間配置が告げられていた。小松は、メンバーの顔触れからうっすらと10区かなと思っていたが、最初に言い渡されたのは想定外の6区だった。

「クリスマスの頃、中島が『足が痛い』というので、急遽、6区と言われました。特殊区間で、とても小野田(勇次・青学大)さんみたいには走れないと思っていたら28日になって中島が走れるようになったんです。それで『8区行くぞ』って監督に言われて、29日、二人でコースを見に行きました。車のなかでコースの説明を受けて、最後に戸塚中継所に着いた時、『どうだ、小松、行けそうか』って聞かれたんです。僕は絶好調だったので『行けます』と答えたら『じゃ頼むぞ』と言われました。本当に箱根を走れるのか不安だったんですけど、そう言われた時は嬉しかったですね」

不安だった理由は監督の選考基準

 小松が不安だったのは、両角監督の選考基準がずっと「実績重視」だったからだ。

 前回の箱根駅伝も湯澤舜と西川雄一朗が絶好調だったが、監督は実績がある選手を優先し、総合5位に終わった。それでは勝てないと痛感した両角監督は、このシーズンは好調な選手を積極的に起用する選考方法に変えた。とはいえ、箱根は例外になるかもしれない。だが、両角監督は、選手の調子を見極めて区間配置を決めた。それが箱根で、ハマることになる。前回の箱根で当日変更で走れず悔しい思いをした湯澤が2区で激走した。

青学大はもういい。前の東洋を追って優勝しよう

「湯澤さんの2区は“激アツ”でしたね。うちは大エースがいなくて、2区が鬼門だったんです。その2区で湯澤さんが踏ん張ってくれた(区間8位)。いい流れができて往路終了時点で東洋大と1分14秒差の2位、6位の青学大には大差(4分16秒差)をつけることができたんです」

 往路が終わった後、翌日に復路を走るメンバーを集めて、大学内でミーティングが行なわれた。両角監督は「青学大はもういい。前の東洋を追って優勝しよう」と興奮した声で語り、その場が盛り上がった。

4秒前にいたのは一度負けた相手

 往路5区間でひとつもミスなく戦えた自信が復路にも繋がり、7区で阪口竜平が好走し、東洋大との差を4秒まで縮めた。

「8区の待機所で準備していると両角監督から電話がかかって来て、『たぶん同時スタートになるから最初は相手のうしろについて、粘っていけ』と言われました。東洋の8区の鈴木(宗孝)君は、1年生だけど、上尾ハーフでバトルして負けている。しかも、長い距離が得意そうなので、かなり警戒していました」

 阪口から襷を受けた小松は、すぐに4秒差を詰め、鈴木の背後についた。

鈴木、遅いぞ!!

「うしろについた方がリズムを作りやすいですし、風除けにもなる。上尾ハーフの時よりも自分の調子が上がっていたので勝てる自信はありましたが、監督の指示通り無理せず、力を溜めていました。なにがなんでも優勝したかったので」

 小松は、最初の1キロのラップを見ると2分50秒だった。ちょっと突っ込み過ぎたと思いつつ、3キロで時計を見ると9分ジャストだった。鈴木は強いな、と改めて思った。だが、東洋大の監督車から耳を疑うような言葉が飛んだ。

「鈴木、遅いぞ!!」

 小松は、「えぇ?」と思ったという。

監督からは「お前がいけるタイミングでいけ」

「びっくりしました。これで『遅い』かよって。これは(鈴木の)前に行くべきじゃない。うしろについていこうと思いました」

 給水では同期の羽生から「お前がいけるタイミングでいけ」と監督の言葉を伝えられた。小松は、その声に頷きつつ、羽生に「青学大は、どこまで差を詰めてる?」と聞いた。6区・小野田勇次が区間新、7区の林奎介も区間賞で差をジワジワと詰めてきたので、気になっていた。「大丈夫、まだ3分半ある」と聞いて安堵した。小松は、相手の様子を見ながら最後の勝負所を考えていた。

「最初、9キロ過ぎに一度仕掛けたんですけど、相手が対応してきたので、まだ余力があるな、行くべきじゃないと思い、一度下がったんです。次、どこで仕掛けるか。僕が仕掛けて結局、失速して追いつかれてしまうと『何やってんの』になってしまう。僕が最後まで走り切れる距離で、相手の心を折れる場所はどこか。一番キツい遊行寺の坂の手前で相手に引導を渡そうと思いました」

俺、ヒーローじゃん

 14.9キロ地点で呼吸を整えた。ジワジワと追い抜いていくのではなく、一気にいかないと相手にダメージを与えられない。小松は、ペースアップして、鈴木の前に出るとスピードを上げた。背中にあった相手の気配がどんどん薄くなった。

「俺、ヒーローじゃん」

 そう思うとうれしさがこみ上げてきた。

 途中、両角監督から檄が飛んだ。

「おまえの姿が全国に映っている。そのカメラを見て、行け!」

襷を外すのを忘れていた(笑)

 札幌では、恩師の大井貴博先生(東海大札幌高)らが応援してくれていた。小松の能力を高く評価してくれたのは、大井先生で「小松は大学での伸びしろを潰さないためにもあえて練習量を増やさなかった。黄金世代にはいい選手がたくさんいるが、小松が一番の伸びしろがある。必ず、みんなに追いつけるはずだ」と送り出してくれた。その期待に応える走りを見せることができた。

「ラストは、もうほんとに苦しかった。そのせいか、戸塚の中継所に入る前まで襷を外すのを忘れていたんです。監督の『襷を外せ!!』という声で外したんですが、恥をかくところで、危なかった(苦笑)」

最高に楽しい8区でした

 9区の湊谷春紀に襷を託し、チームメイトに抱えられて待機場所に向かっている途中、箱根駅伝の運営スタッフから「区間新です」と言われた。「嘘だろ」と思ったが、22年ぶりの快挙だった。

「自分が生まれた97年に古田(哲弘・山梨学院大)さんが作った記録を破ることができた。しかもトップで襷を渡せた。疲れたけど、最高に楽しい8区でした」

 大手町では、うろ覚えの校歌をチームメイトと肩を組んで歌い、トップフィニッシュした郡司と抱き合って喜んだ。優勝の味を噛みしめ、大会MVPの金栗四三杯を獲得した。

 小松は、陸上人生で最高の瞬間を迎えた。その後、4年生となった小松に待ち受けていたのは思わぬ“壁”だった。

<つづく>

文=佐藤俊

photograph by JIJI PRESS