40歳での鮮烈なFA宣言、巨人へ電撃移籍した落合博満……1993年12月のことだった。
あれから30年。巨人にとって落合博満がいた3年間とは何だったのか? 本連載でライター中溝康隆氏が明らかにしていく。連載第19回(前編・後編)、“メークドラマ”に向け、絶好調だった42歳・落合博満。しかし、夏の終わりに危険な死球で骨折してしまう。【連載第19回の後編/前編も公開中】

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落合博満「ただのパフォーマンスではない」

 松井が40本塁打を打てば巨人の大逆転Vも可能になる――。その「メークドラマ予言」に背中を押されるように背番号55は、7月に打率.361、5本塁打、15打点で月間MVPを獲得。チームは7月を13勝5敗と大きく勝ち越した。長嶋監督の発言をマスコミやファンに向けたリップサービスと取る向きも多かったが、落合は長嶋流マネジメント術の一種と見ていた。

「惜敗すれば敵の守護神を称え、胸がすくような逆転劇には人一倍の喜びを表現する。これが長嶋さんのキャラクターだと思っている人は多いと思うが、私は、こうしたパフォーマンスの裏には深い意味があると感じている。(中略)これは、メディアに対する発言のようでありながら、実は自軍の主力選手に向けた檄なのである」(プロフェッショナル/落合博満/ベースボール・マガジン社)

 今思えば、長嶋監督の言葉にマスコミやファンだけでなく、巨人ナインも乗せられていたわけだ。8月は6日から5連勝、11日の中日戦で野口茂樹にノーヒットノーランを食らい勢いが止まるかに思えたが、そこから再び6連勝の快進撃。ついに20日の横浜戦に逆転勝利すると、2位広島と0.5差ながら、単独首位に躍り出る。絶好調のチームを支えていたのは、20歳差の3・4番コンビだった。

「10〜12時間は寝ています」

 42歳の落合は腰部筋膜炎で8月6日から3試合スタメンを外れたが、9日の中日戦で「4番一塁」に復帰する。静岡・川根町から自宅に温泉の湯を運び込み入浴時に使用。夏場の睡眠時は家族とは別室で、クーラーをかけずに10時間から12時間の睡眠をたっぷり取り疲労回復に努めた。なお、令和の大谷翔平が「(ナイターが続く場合は)10時間から12時間くらいは寝ています」(Number1035号)と発言して話題になったが、平成の大打者・落合も同程度の睡眠時間を確保していたのである。根性論が幅を利かせていた時代から、打撃の状態が悪くなったら、無茶な猛練習よりも「一も二もなく、休養を取る」のがオレ流だった。

「栄養の充分な食事をきちっと摂って、ひたすら疲労回復に励む。疲れが抜けてくるのに従って、睡眠も取れるようになるだろう。体力が回復してくれば、失いかけた技術を取り戻すことも容易となる。このほうが、合理的な対応策だと思える」(勝負の方程式/落合博満/小学館)

松井秀喜「落合さんはすごいですよ」

 寝坊や遅刻癖でしばしば紙面を賑わせた22歳の松井は、8月17日のヤクルト戦で吉井理人から東京ドームの右中間スタンド上段まで運ぶ特大の第30号アーチ。巨人では1988年に31本塁打の原辰徳以来の大台到達だった。背番号55は自身初のホームラン王争いに挑み、後ろを打つ背番号6は打点王を射程圏内にとらえていた。「落合さんはすごいですよ。あの年齢まで現役をやってるだけじゃなく、あれだけ打ってるんですから」と松井は大先輩の技術と体力に驚いてみせた。

「僕が四番を打てるようになれば、落合さんはもっとラクにプレーできるだろうし……。四番を打てる資格を、早く手に入れないとダメですね。だれもが認めてくれるような数字を残して、四番に座ってからもそういう数字を残せるようにならないと。落合さんによく言われるんですよ、『お前、早く四番打てるようになれ』って(笑)」(週刊ベースボール1996年7月29日号)

 8月27日、首位攻防の広島戦。7対0から同点に追いつかれた直後の8回表二死一、二塁のチャンスで、4番落合が白武佳久からライト線へ決勝タイムリーを放った。「勝てばいいんだよ。ガルベスと斎藤(雅)が投げる試合は、負けるわけにはいかないんだから」と安堵のコメントを残すオレ流だが、この打点が史上7人目の通算1500打点だった。落合自身ものちに「完璧な打ち方」と自画自賛する会心の決勝打である。

 なお、この試合で落合は21号ソロを含む3安打2打点。松井も場外に150メートルの34号特大アーチを放つなど3安打4打点の大活躍。相手バッテリーは絶好調の背番号55の後ろに4番落合が控えているため、勝負を避けることはできない。「3番松井・4番落合」のMO砲は結成3年目にして最高の状態にあった。

“シーズン絶望視”のデッドボール事件

 当然、ライバルチームは、巨人打線の中心にいる4番を潰そうと厳しい攻めが続く。確かに、危険な予兆はあった。そして、8月31日、夏休み最後の夜のナゴヤ球場での中日戦を迎えるのである。

 4対3と巨人1点リードの7回表、マウンド上の野口茂樹は二死二、三塁で4番落合と対峙する。その時点の打撃成績は打率.301、21本塁打、86打点。前の打席でも中前タイムリーを放っている天敵に対して、中日バッテリーは初球から容赦なく内角を攻めた。野口の投じた144キロのストレートが、落合の頭部付近を襲うのだ。体を捻って必死にそれを避けるも、ボールは左手を直撃し、打席に倒れこむ背番号6。苦悶の表情で左手小指付近を抑えて立ち上がれない主砲の元に、ベンチから長嶋監督も心配そうに駆け寄った。

「ちょうどいい場面だよな。俺の前に松井が凡退して、あとは俺に打たれなきゃいいわけだから、ぶつけにくることもあるなと想定して打席には入ったんだよ。だから心持ち後ろに立ったんだ。でも、まさか本当に当たるとは思っていなかった。もうちょっと慎重になっていれば良かったな、と後で思った。そうすればぶつかっていなかった」(不敗人生 43歳からの挑戦/落合博満・鈴木洋史/小学館)

「指を1本折るほうがマシ」

 落合は5年間ともに戦った星野仙一が率いる中日のケンカ野球を誰よりも熟知していた。だからこそ、警戒して打席に入ったが、それでも避け切れないビーンボールが投げ込まれた。それは一歩間違えば、選手生命すら脅かす危険な一球だった。

「テレビの解説者が『落合は打ちにいったからぶつかった』みたいなことを言っていたらしいけど、何にもわかってないね。打ちにいったんじゃないよ。打ちにいって(多少でも踏み込んで)いたら、頭か顔に当たっているんだ。打ちにいっていないから手でよけられたんだ。(頭に当たって)蝶々が飛ぶより、指を1本折る方がずっとましでしょ」(不敗人生 43歳からの挑戦/落合博満・鈴木洋史/小学館)

 左手小指中手骨の亀裂骨折――。当初は全治2週間の診断も、シーズン中の復帰は絶望視される重傷だった。ペナントを20試合残して、絶対的な存在感で巨人打線を牽引してきた背番号6が無念の戦線離脱である。

「ドラフトで泣いた男」

 その自軍の4番が死球に倒れ、途中退場した絶対に負けられない試合で、9回に勝負を決める左翼への決勝タイムリー二塁打を放ったのは背番号55だ。長嶋監督も「今の松井は不可能を可能にするパワーがあります」と絶賛した若きスラッガーは、8月も打率.392、11本塁打、34打点と勢いは衰えず2カ月連続の月間MVPを受賞する。8月を19勝7敗の首位で終えたチームは、その後も広島や中日と一進一退のデッドヒートを繰り広げた。

 長嶋巨人が歴史的な逆転劇に向けて戦い、4番落合が離脱した1996年夏の終わり――。白熱するペナントレースの行方とは別に、自身の去就に悩む、パ・リーグのひとりのスター選手がいた。11年前のドラフト会議でジャイアンツ入りを熱望するも、夢やぶれ悔し涙を流した、巨人軍に死にたいくらいに憧れた男。

 西武ライオンズの清原和博である。

<前編から続く> ※次回掲載は5月26日(日)予定です(月2回連載)。​

文=中溝康隆

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