“スターダムのアイコン”岩谷麻優をモデルにした映画『家出レスラー』が公開される。最大の見どころは、主人公マユを演じる平井杏奈の“岩谷麻優ぶり”だ。ふとした表情や口調、仕草が岩谷本人にしか見えない瞬間が何度もある。

 歴史上の人物なら、人物像の解釈に幅をもたせることができる。だが岩谷はリアルタイムで活動している。描かれる彼女の半生は近い過去。ここ十数年の出来事だけに“あれが違う、ここが違う”が気になりやすい。にもかかわらず、平井は岩谷に見える。

 引きこもりの少女が一念発起、家出して新団体スターダムに入門する。デビューにこぎつけてもスタミナは3分しかもたず、それでいて練習嫌いの天才肌。岩谷とスターダムの歴史を手際よく整理して、映画は“ポンコツ”から“アイコン”への軌跡を辿っていく。

「麻優より麻優を理解してくれてる」

 平井の役作りは減量から。プロレスラーとしては細身の岩谷を演じるにあたり、撮影前にはプロレス特訓をしながら1カ月弱で体重を13kg落としたそうだ。

「移動中は音楽じゃなく、記者会見や配信動画で岩谷さんが話すところをずっと聞いてました。3カ月続けて、岩谷さんの声のトーンや喋り方が自分に入ってきましたね」

 レスラーを演じる役者たちは、自身も出演するトップ選手・朱里の指導で基礎からプロレスの練習に取り組んだ。平井は「ドラゴンスープレックスがカウント2で返された時のブリッジの崩れ方」まで聞いて岩谷を驚かせた。

「一度お会いできませんかって誘われて、食事したんですよ。杏奈ちゃんは減量してたからほとんど食べてなかったですけど。スマホのメモ帳に質問がギッシリ書き込んでありました。“この時はこの選手をどう思ってましたか”とか“ファンの人たちをどう思ってますか”、“入場する時の気持ちはどんな感じですか。ルーティーンはありますか”みたいに細かく。もう“尋問”でしたね(笑)。

 それが終わると台本を見せてくれて。セリフ一つひとつに細かい説明、心情が書いてあるんですよ。それも“違うところがあったら教えてください”って。でも全部合ってました。麻優より麻優を理解してくれてるなって思ったので“杏奈ちゃんが思う麻優を演じてくれたら大丈夫”と伝えました。撮影現場を見に行った時も、直すところは何もなかったですね」

危険な技の場面では岩谷本人がスタントを担当

 プロレスラーの日常を体感するために、1日中ジャージで過ごすこともあったという平井。岩谷麻優という存在を探求する中で、プロレスそのものにも惹かれていった。

「会場で試合を見させてもらって感じたのは、選手それぞれにドラマがあるということ。ただ闘っているだけではないんですね。それに同じ技を出しても、選手によって個性が出る。だから余計に、岩谷さんらしい技の掛け方、受身の取り方を意識しました。今は会場に行けない時はPPVを買って見るくらい、プロレスが好きになりました」

 劇中の試合の撮影では、危険な技などの場面で岩谷が平井のスタントを担当したそうだ。岩谷を演じる平井の代わりに岩谷が技を出す。つまりその瞬間は岩谷が岩谷を演じていることになる。そうした、リアルとフィクションの境目も映画の面白さだと言っていい。

「あの“事件”があって、女子プロレスが野蛮だと…」

 朱里が演じるのは岩谷のライバル・羅月。岩谷と同じスターダム1期生・東子役のゆきぽよ(木村有希)も好演している。それぞれのモデルが誰なのかは、プロレスファンならすぐに分かるはず。映画はあくまで“事実をもとにしたフィクション”だが、やはり現実の出来事、リアルな感情は欠かせない。

 たとえば「東子」が対戦相手の顔面を拳で殴りつけた、凄惨な喧嘩マッチ。これは実際にもあったものだ。ネガティブな意味で大きな話題になってしまい、スターダムは存続の危機を迎える。岩谷も、キャリアの中で最もきつかった時期だと言う。

「あの“事件”があって、選手の大量離脱もあって。変な意味で女子プロレスが野蛮だと思われてしまうような出来事でした」

 筆者はこの試合の翌日、他の選手のインタビューでスターダムの事務所を訪れた。取材中も事務所の電話が鳴っていたのを覚えている。留守番電話に吹き込まれるのは批判、クレーム。あるいはそのレベルを越えた言葉だ。叩いてもいいと判断した相手には容赦がないのは、SNS時代以前も同じだった。

 岩谷は“加害者”となってしまった選手に寄り添った。

「一番仲のいい同期でしたから。その子のメンタルがどうだったかも見てるんです。だから本当にきつかった……」

「自分もメンタルをやられた時期があります。でも…」

 スターダムは2019年、上場企業ブシロードに事業譲渡。そこから飛躍的に売上と知名度を高めた。しかし1期生として見て、経験してきたスターダムの歴史は「平凡でも順調でもなかったです」と岩谷。

「ズタボロだったんですよ。いろんなことを乗り越えての今なので」

 スターダムの1期生であること、アイコンと呼ばれることに誇りがあるのも「ズタボロ」の時期を知っているからだ。

「ただ長くいるだけじゃないんです(笑)。自分もメンタルをやられた時期があります。でもなんとかなるんですよ、人生って。本当にいろいろ乗り越えすぎて、何があっても“なんとかなる”って思うようになりましたね。なんとかなる精神。それはロッシーイズムでもあるんですけど」

 ロッシーとはスターダム創設者、ロッシー小川氏のことだ。小川氏をモデルにした人物は、映画にも登場する。演じるのは竹中直人。ところが、映画の公開を前に小川氏はスターダムを去った。今年2月、エグゼクティブ・プロデューサー就任期間中に新団体設立に動いたことで契約解除となったのだ。

 昨年12月には新社長が就任。2月に小川氏の契約解除、3月は5人の選手が退団した。さらに小川氏の新団体旗揚げが発表され、スターダムも春から新たな出発。創業者のいない新体制だ。『家出レスラー』は、そういう時期に公開されることになった。

「いる人間が変わっても、ドラマを見せるのがスターダム」

 偶然ではあるが、それも意味のあることなのかもしれない。スターダムは、まさにリスタートの時期にある。だからこそ「いろんなことを乗り越えた」歴史を振り返るのは悪いことではないだろう。

「最近ファンになった人たちは知らない頃の話が映画になったんですもんね。中には自分しか見てない、表に出てなかった場面もあって。不思議な感じがしますね。最初は手作り感満載だったんです、スターダム。遠征の時はみんなでグッズとか荷物を車に載せて、小さい車で移動して。なんでも選手、スタッフみんなでやったんです。

 今は試合に集中できるし、いいお給料をもらえるようになりました。でも、お金のためだけでやってるわけじゃないっていうのは昔と同じですね。みんな頑張ってるから、そこにいろんなドラマが生まれるんです。だからお客さんに熱中してもらえる。いる人間が変わっても、そのドラマを見せるのがスターダムなんだと思います」

誰よりもプロレスを楽しんで

 現在、岩谷はIWGP女子王座を保持。朱里、Sareeeとの防衛戦は名勝負となった。新たなスター候補が次々と登場するスターダムにあって、岩谷にしかできない試合、岩谷にしか作り出せない空気があるのは間違いない。団体旗揚げ戦でのデビューから13年あまり、現在も「めちゃくちゃ調子がいいです」と言う。

 5月18日のビッグマッチでは、過去に因縁のある他団体の藤本つかさ&中島安里紗と対戦。パートナーは19歳の新鋭・羽南だ。トップ選手に混じって、成長著しい羽南がどんな暴れっぷりを見せるかも試合のポイントになるだろう。次世代を育てるという意味もあっての羽南抜擢なのか。そう聞くと、岩谷はあっけらかんと答えた。

「育てる気持ちもありますけど、まず大事なのは自分ですね(笑)。自分が目立ちたいって気持ちが一番です」

 それでこそ、と思うファンは多いだろう。団体が大きくなっても、半生が映画になっても“ベテラン”として一歩引くつもりなどまったくない。誰よりもプロレスを楽しんでいるのが岩谷麻優なのだ。

文=橋本宗洋

photograph by Norihiro Hashimoto