元日本代表MF長谷部誠が、偉大なサッカー選手としてのキャリアを終えた。ブンデスリーガで17シーズンもの長期間を一線級で戦い、ドイツ人からも畏敬の念を集める40歳が歩んだ足跡とは――。00年代後半からドイツで取材を続けた日本人ライターが、強く印象に残った思い出を所属クラブ時代ごとに綴る。(NumberWeb引退記念ノンフィクション/第1回も)

 長谷部誠がマイスターシャーレを掲げるところも、CLの先発デビュー戦でオールドトラフォードを埋め尽くした黄金期のマンチェスター・ユナイテッドのファンたちを沈黙させるアシストを記録したシーンも筆者は現地で目撃させてもらった。

 ただ、葛藤を抱えながら、他人の描くイメージと対峙していた長谷部の姿の方が筆者の脳裏には焼き付いている。

「品行方正で清廉潔白」のイメージと『心を整える。』

 1つ目は品行方正で、清廉潔白な人間というイメージだ。

 そのイメージは、日本代表のキャプテンを任されたことに加えて、27歳時に発行された彼の著書『心を整える。』の大ヒットによって植え付けられたものだろう。あの本が発売された2011年は日本代表ブームに沸いていたことに加え、長谷部自身が受け取るはずだった印税を東日本大震災のために全額寄付することを決めたことも追い風に、著書は100万部を超えるベストセラーになった。

 日本ユニセフ協会を通しての寄付の恩恵を受けた筆頭が、寄付金をもとに再建された宮城県の南三陸町のあさひ幼稚園だ。本当に後世に残すべきものはお金やモノではなく、人々の希望である。子供たちが希望に胸を膨らませる機会を提供したことほど尊いものはないだろう。

 そして、そうした一連の行動は、サッカーでの功績と相まって、多くの企業からの広告出演のオファーにもつながった。ピッチの外で培った人脈や財産は、現役でいながら日本でサッカースクールを開校し、現所属のフランクフルトと提携する規模にまで発展させる偉業につながっていると言っても過言ではないだろう。長谷部自身が、あの本に感謝していることを聞いたのも一度や二度ではない。

僕だって、休みの前の日には飲みに行きたい(笑)

 ただ、多くの人の心をつかむのと引き換えに、苦しむこともあった。あの本が出て「長谷部誠」の名前は世間の老若男女に浸透した。当時23歳で抜群の女性人気を誇った、後輩の内田篤人はこう話していたほどだ。

「オレも日本で声をかけられたり、気づかれたりはするけど、長谷部さんはその比じゃないと思うよ。若い人からお年寄りまで、色々な人に知られるようになっちゃったから。日本でオフを過ごすのは大変だろうなぁ……」

 メディアの人間でも「完璧な人間像」を悪気なく期待してくることが多かった。それもあってか、書籍の発売から約3カ月の時点で、葛藤が垣間見えるこんな発言も残している。

〈僕だって、休みの前の日には飲みに行きたい(笑)。結婚していないし。キャプテンは結婚していなきゃいけないとか、家庭持ってなきゃいけないとか、そういうのは嫌〉(出典:別冊宝島「W杯で勝つザッケローニの戦略」/原文ママ)。

 長谷部の生き方は、多くの人に指針を与えた。ただ、書籍という形で100万人を優に超える人たちに自身の在り方を発信した人間にしかわからない葛藤は確かにあった。世に送り出せたことを素直に感謝できるまでには、時間が必要だった。

ピッチ上でも、イメージとのズレに苦しんだ

 本業であるサッカーのピッチ上での戦いでも、周囲が期待するイメージと、自分が目指しているものとのズレに苦しむことが多々あった。

 そのズレの象徴は、起用されるポジションだった。

 2008年1月にボルフスブルクに加入して、第1次マガト政権で優勝する2009年5月までの1シーズン半は、変則的な「4-3-1-2」の右ボランチ(右MF)での出場がメイン。時おり右サイドバックで起用される程度だった。

 それ以降、毎シーズンのように監督が代わっていくなかで、本職以外のポジションもよく任された。ボルフスブルク時代の長谷部を不動のボランチとして起用したのは、2010-11シーズン途中で暫定的に指揮をとった、リトバルスキーくらいかもしれない。日本代表では一貫して中盤の底を任されていたのとは対照的で、チームで良いパフォーマンスを見せているときも、こう語ることもあった。

「今はボルフスブルクで良いパフォーマンスを見せられているけど、本職のボランチでプレーできているわけではないから」

 ターニングポイントが訪れたのは2012-13シーズンだった。

 マガトが10月に解任されるまで、ベンチメンバーにすら入れなかったことは第1回で書いた通りだが、問題はその後だった。実は当初の暫定監督のもとでは守備のバランスを立て直すため、主に右サイドのMFとして起用されていた。

 その後ウインターブレイク中、正式な監督となったヘッキング体制での公式戦19試合のうち、長谷部は16試合に出場している。しかし、そのうちの13試合は右サイドバックでの起用だった。

 本職のボランチでの起用はわずかに1試合。しかも、後半22分からの途中出場という限られた時間だった。

自分の中でもいろいろな葛藤はあるよ。ただ…

 長谷部はその状況に甘んじていたわけではない。むしろ、アクションは早かった。ヘッキング監督就任後すぐに監督の元を訪れている。

「最初の2〜3日の練習で、右のサイドハーフやサイドバックとして見られている感じがして、ボランチの選手として見てもらえる感じはしなくて。やはり、最初が肝心だから……」

 その場で長谷部は監督にこう伝えた。

「もちろん、チームのために全力を尽くしますけど、僕の本来のポジションは6番(*日本でいうボランチ)です」

 監督からはこんな風に返ってきた。

「もちろん、わかっている。キミが日本代表ではいつもそのポジションでプレーしていることも知っている。ただ、キミは右サイドバックだけではなく、その1つ前のポジションでも、あるいはやろうと思えば左サイドでもプレーできる選手だということもわかっている」

 ヘッキング監督のもとで後半戦がスタートしたわけだが――前述の通り、託されたポジションは右サイドバックだった。

「自分の中でも色々な葛藤はあるよ。ただ、中盤の選手がサイドをやることは結構あると思うけど、逆に、右サイドバックの選手が中盤をやることはほとんどないわけで……。今は与えられたところでやるしかないかなと」

シーズン最終盤で起きた痛恨のアクシデント

 シーズンが進むなかで、監督と何度も話をした。

「監督にやりたいポジションを伝えているのに、サイドバックで出されるというのは、チームの状況はあるにしても、中盤の選手としてのアピールがまだまだ足りないというところでもあるだろうから、それはちょっと悔しい」

 当時の右サイドバックが攻撃的なタイプ(その後、ブラジル代表にも名を連ねるファグナー)だったこともあり、このポジションにはしっかりと守備のできる選手を監督は求めていた。バイエルン戦では、相手の左MFだったリベリをマンマーク気味でつかまえるような役割を与えられたりもした。

 そして、痛恨のアクシデントが起こる。

 このシーズンの最終戦で退場してしまったのだ。

 シーズン最終戦の退場で課される出場停止処分は、次のシーズンに持ち越されてしまう。だから、翌13-14シーズン開幕前に置かれた立場は厳しいものだった。開幕戦で出場できないからプレシーズン中の練習では、常にサブ組に組み込まれた。それは仕方がないとしても、サブ組でもサイドバックを任される有様だった。

「監督のなかで(自分を起用する構想として)ボランチではないので。右サイドバックか、オプションが右のサイドハーフなのかな。監督には言い続けているんですけど……難しいですよね」

ボランチでプレーしたのは約26%という悲哀

 サブ組のサイドバックで起用される意味は小さくない。

 サブ組のサイドバック→サブ組のボランチ→主力組のサイドバック→主力組のボランチと、あまりに多くのハードルを乗り越えないといけなくなった。

 長谷部が望むのは、ボランチで出場して、チームの勝利に貢献すること。ただ、別のポジションで起用されても、チームの勝利に貢献するという意志は変わらない。サイドバックで起用され、監督の期待に応え続けたことが仇になった感じすらあった。

 最終的に、そのシーズンの開幕後、長谷部はニュルンベルクへの移籍を決めた。

 ボルフスブルクでは公式戦159試合に出場した。もっとも多かったのは、マガトの変則システムの右ボランチを含めた、右サイドMFが55試合で、約34.6%だった。その他にも左サイドで起用されたり、インサイドハーフやトップ下を任されることもあった。サイドバックとしてプレーしたのは33試合(約21%)。それほど多くはないと思われるかもしれない。

 一方でボランチとしてプレーしたのは42試合で、約26%。全試合の4分の1程度しかなかった。彼がドイツに渡って以来、本職としてきたポジションであることを踏まえれば、あまりに少ない。

 どのポジションでも監督の意図を汲んでプレーを続けた結果、監督にとっては「便利で使い勝手の良い選手」というレッテルを張られてしまったと言えるのかもしれない。勝利のために力を尽くす成果がそこに行きついてしまうのは、人生の悲哀を感じさせるものだった。

長谷部が珍しく怒っていた日とは

 そういえば、ボルフスブルク時代の長谷部が珍しく怒っていたことがある。

 中東でのW杯アジア予選の試合を終えた翌日。ドイツへ戻る前に、空港で待ち構えていた記者に突然、「日本のクラブへの復帰も考えますか?」と聞かれたときのこと。長谷部が急な問いかけに対して答えをはぐらかしたところ、そのやり取りを〈浦和レッズ復帰もありえる〉というテイストで大きな記事にされてしまった。

「あんな形で、俺がボルフスブルクで築き上げてきたものを壊してほしくないわ!」

 どんな状況に置かれようと、自分の信念に沿って、クラブのために全力を尽くしてきた。だから、長谷部はクラブに関わる人たちから評価されてきた。

 筆者の経験を持ち出して恐縮だが、海外で日本人選手のいるクラブで取材をしていると、異邦人ゆえに嫌な思いをすることは多い。

 だが、ボルフスブルクではそんなことは一切なかった。それどころか、日頃やり取りをするクラブの広報担当者から強面の警備員まで、親切に接してくれた。それは長谷部があのクラブで築き上げてきた日本人の良いイメージがあったからこそだろうと考える。

長谷部は勇気をもって、ニュルンベルク移籍を決めた

 それほどまでの足跡を残したボルフスブルクを、長谷部はその後のキャリアについて深く考えた上で、去ることに決めた。

 もちろん、ヘッキンク監督や名GMとして知られるアロフスなど、多くの人たちから慰留されながら。

 このエピソードは、私たちにも大きな学びと共感を与えてくれる。

 会社でも学校でも、自分が望むポジションとは異なるところを任される人は少なくないだろう。優秀な人は得てして、置かれた場所でもめげずに努力したり、組織のために欠かせない役割を果たすケースが多い。すると、それを見た上司などの第三者は「そのポジションこそが最適だ」と捉えてしまうことがある。

 自分が望むポジションや得意だと感じる役割が、現状とリンクしないのであれば……リスクを冒してでも、環境を変えてみるのも一つの解決策かもしれない。当時の長谷部のように。

 果たして、長谷部が勇気をもって踏み出した新たな一歩――ニュルンベルクでの挑戦は何をもたらしたのか。それは続編以降に譲ることにしよう。

<つづく>

文=ミムラユウスケ

photograph by AFLO