「ダービーに手が届くかもしれない」――若き武豊が初めてそう意識したヤマニングローバルは、かつて憧れた名馬たちの血を引く“ゆかりの馬”でもあった。生命を脅かされるほどの骨折によってクラシック制覇は幻に終わるが、脚にボルトを入れた同馬は、不屈の闘志で復活を果たす。長く競馬界を見つめる筆者が、ファンに鮮烈な印象を残した「消えた天才」の蹄跡を振り返る。(全2回の1回目/後編へ)

ヤマニングローバルが武豊にとって“特別”だった理由

 1989年の秋、武豊を背に新馬戦から無傷の3連勝を飾り、騎手デビュー3年目だった武に、初めてダービーを意識させた旧3歳馬がいた。

 ヤマニングローバル(牡、父ミスターシービー、栗東・浅見国一厩舎)である。

 武がヤマニングローバルに惚れ込んだのは、そのレースぶり以外にも、いくつか大きな理由があった。

 ひとつはこの馬の血統である。ヤマニングローバルの父方の祖父は、1970年代に活躍し、その頭文字から「TTG三強」と呼ばれた3頭のうちの1頭、トウショウボーイだった。

 トウショウボーイは池上昌弘の手綱で1976年の皐月賞を制し、ダービーで2着、菊花賞では福永洋一を背に3着となった。つづく有馬記念で、武の父である武邦彦が乗って優勝している。

「ダービーをはじめとするクラシックの意味を理解して競馬を見るようになったのは、あのころからでした」

 武はそう話している。トウショウボーイが2着になったダービーで、武は父が乗ったテンポイント(7着)を応援していた。小学2年生のときだった。父がトウショウボーイに乗るようになると、もちろんそちらを応援した。

 このように、武にとって特別な存在だったトウショウボーイと、同じ新馬戦で走った牝馬シービークインとの間に生まれたのが、ヤマニングローバルの父、ミスターシービーである。

 ミスターシービーは、1983年、史上3頭目のクラシック三冠馬となった。中学3年生だった武は、この馬が勝った菊花賞を京都競馬場で観戦していた。

 その6年後、武は、ミスターシービーの初年度産駒であるヤマニングローバルと出会ったのだ。

「初めて見たとき、毛色こそ異なるものの、顔や皮膚やたてがみなどが、あまりにミスターシービーに似ているので驚きました。それに、すごくカッコいい。乗ってみると、まるで芸術品というか、『ああ、サラブレッドだなあ』と思わされました」

 トウショウボーイ、ミスターシービー、ヤマニングローバルとつづく父系が、武にとっていかに特別だったかがわかる。

新たな勝負服「エアロフォーム」日本初の実戦投入

 ヤマニングローバルに関してもうひとつ、武にとって大きかったのは、管理調教師が浅見国一だったことだ。浅見は、競走馬の当日輸送や、ゴム腹帯の導入などを日本で初めて実施した伯楽として知られている。

 武は、武田作十郎厩舎の所属騎手としてデビューしたのだが、よく「ぼくには師匠が2人いた」と話していた。ひとりは武田で、もうひとりが浅見だった。

「武田先生は、『誰からも好かれる騎手になりなさい』ということ以外は、何も言わない人だった。浅見先生は、はっきりと厳しいことも言う怖い先生でした」

 武田は1992年2月限り、浅見は1997年2月限りで定年を迎える。調教師として晩年を迎えようとしていた2人に、武は可愛がられ、育てられたのだ。

 ヤマニングローバルは、1989年9月17日、阪神芝1400mで行われた旧3歳新馬戦でデビューし、3馬身差で勝利をおさめる。

 実は、この日は、武と浅見にとって、いや、日本の競馬界全体にとって、特別な日となるのだった。武は、その少し前、8月の終わりから9月の初めにかけて、初の海外遠征に出ていた。アメリカのアーリントン国際競馬場(当時の名称)である。そこで彼は、以前からアメリカの競馬雑誌を見て気になっていた、騎手の体のラインがはっきり出る勝負服を試着させてもらった。利点を訊くと、伸縮性のある生地を用いて肌に密着させるのは空気抵抗を軽減するためで、「エアロフォーム」と呼ばれていることを知った。

 帰国後、それを勝負服の業者に話しても動いてくれなかったが、浅見に言うと、すぐアシックスに話を通し、製作に取りかかってくれた。そうして完成した日本初のエアロフォームは、「ヤマニン」の冠がつく馬の水色の勝負服だった。

 武が実戦で初めてエアロフォームを着たのは、ヤマニングローバルがデビューした日の第1レースだった。

「ヤマニンノッカーという馬に乗って、ダート1800mの未勝利戦に出ました。それほど人気してなかったのに(3番人気)、ポンと勝っちゃった。同じ勝負服で臨んだ第4レースのヤマニングローバルも馬なりで楽勝だったんです」

 本邦初のエアロフォームは2戦2勝。当時の日本の勝負服はパタパタと風にはためくものばかりだったが、この日を機にエアロフォームを採用する厩舎や馬主が増え、やがてそちらが主流になっていく。

 そうしたエポックメイキングな日に颯爽と登場した新星が、ヤマニングローバルだったのだ。

「ダービーに手が届く感じがして、ゾクッとしました」

 ヤマニングローバルは2戦目の黄菊賞(京都芝1600m)も完勝した。

「皐月賞やダービーといったクラシックが、自分のなかで手の届くところに来たような感じがして、ゾクッとしました」

 武は、胸にずしんと来る強烈なものをこの馬から感じた。

 そして3戦目、11月11日のデイリー杯3歳ステークスを好位から抜け出して完勝。2着コニーストンは翌年初戦でオープンを勝ち、3着ロングアーチはダービー後に武の手綱でGIIIの中日スポーツ賞4歳ステークスを制し、4着ダイタクヘリオスは2年後からマイルチャンピオンシップを連覇。5着イクノディクタスは牡馬相手に重賞を4勝する女傑という、とてつもなく強いメンバーが揃ったなか、最後の数完歩は流すようにして1馬身3/4差で快勝した。3連勝のすべてが単勝1倍台の圧倒的支持に応えたものだった。

 武は、その前年、スーパークリークで菊花賞を勝ち、GI初制覇を遂げていた。そしてこの年の春は、シャダイカグラで桜花賞、イナリワンで天皇賞と宝塚記念を優勝。シャダイカグラは「意図的な出遅れ」で大外枠の不利を克服し、天皇賞では恐ろしく掛かるイナリワンを見事に折り合わせ、「天才」の名をほしいままにしていた。

 そんな彼にとっても、ダービーだけは遠いタイトルだった。初騎乗だった前年のコスモアンバーは「何もできずに」16着、この年はタニノジュニアスで10着。

 ――だが、このヤマニングローバルなら、ダービーを現実的なターゲットとして狙うことができる。

 そう感じたのだが、しかし、デイリー杯のゴール後に右前第一種子骨を複雑骨折。予後不良になっても不思議ではない重傷で、ボルトで骨をつなぐ手術が行われた。長期休養を余儀なくされ、武が夢見た翌年のダービーのタイトルは、幻となった。

脚にボルトを入れながら復活…讃えられた陣営の手腕

 ヤマニングローバルは、旧5歳時、1991年の洛陽ステークスで1年2カ月ぶりに復帰し、4着。復帰8戦目まで武が騎乗していたが、次走からは別の騎手が乗り、復帰10戦目の91年アルゼンチン共和国杯(横山典弘が騎乗)で2年ぶりの勝利を挙げ、翌92年の目黒記念(河内洋が騎乗)も優勝。脚にボルトが入ったままでの復活は話題になり、浅見の管理能力と、持ち乗り調教助手・井義信の手腕も大いに讃えられた。

 ただ、そのころ武の中・長距離のお手馬にはメジロマックイーンがいたため、なかなかこの馬に乗る機会はなく、復帰9戦目以降は1993年のマイルチャンピオンシップ(10着)、翌94年の平安ステークス(8着)に騎乗しただけだった。

 ヤマニングローバルは94年の阪神大賞典で10着に終わったのを最後に現役を退き、種牡馬となった。

 しかし、種付け頭数は毎年ひと桁にとどまり、これといった産駒を残すことはできなかった。サンデーサイレンスをはじめとする輸入種牡馬の全盛期だったことに加え、GIの勲章がなかったことが、良質の交配相手に恵まれない要因になったと思われる。

 言ってもせんないタラレバではあるが、怪我をせず、クラシックをひとつでも獲ることができていれば、種牡馬としての将来は大きく変わっていただろう。そうなれば、トウショウボーイの父系は、今もつながれていたかもしれない。

<つづく>

文=島田明宏

photograph by Yuji Takahashi