史上3人目となる日米通算200勝を達成したダルビッシュ有(37/サンディエゴ・パドレス)。20年にわたる紆余曲折のキャリアと数々の記録、本人の「データ活用、取り組み方の変化」を追って、野球人としての成長ぶりをあらためて見つめ直す。<全2回の第1回/第2回も配信中>
200勝達成時、中継を放送したNHKのインタビューで、ダルビッシュ有は「プロに入った時にいろいろあって、ファイターズや日本全体が優しく育ててくれた。それが自分のもとになっているので、その感謝を忘れずにずっとやっています」と切り出した。
今でもダルビッシュが入団直後に喫煙、パチンコで謹慎処分を食らったことを覚えているファンは多いだろう。でも多くの人は「別に言わなくていいのに」とも思ったはずだ。
記念すべきインタビューの場で、自分から口にしたダルビッシュの謙虚さに感銘した。
彼はプロ入り以後、肉体、技術だけでなく、人間としても大きく成長した。今も成長し続けているから、この大記録が達成できたのだ。
“いろいろあった”200勝までの軌跡を振り返る
あらためて、彼の200勝までの輝かしいキャリアを振り返ろう。
東北高から2004年ドラフト1位で日本ハムに入団したダルビッシュは、前述の謹慎もあって二軍スタートとなるが、5月にイースタン・リーグで実戦デビューし、6月には一軍デビューを飾った。
実は1年目は奪三振(52)と与四球(48)が拮抗するなど、制球に難があった。しかし2年目以降は急速に改善され、成績は急上昇する。3年目の2007年に最多奪三振のタイトルを獲得。この年から未曽有の成績を残している。
2007年/26登15勝5敗207.2回 率1.82(2位)
2008年/25登16勝4敗200.2回 率1.88(2位)
2009年/23登15勝5敗182回 率1.73(1位)
2010年/26登12勝8敗202回 率1.78(1位)
2011年/28登18勝6敗232回 率1.44(2位)
5年連続で防御率1点台を記録したのだ。
金田、稲尾でも「4年連続」までだった
1950年の2リーグ分立後、規定投球回数以上で防御率1点台を記録した投手は延べ140人いる。
最多は400勝投手・金田正一で7回、西鉄の稲尾和久も6回記録しているが、連続記録で言えば両投手とも「4年連続」だった。25歳でマークした5年連続防御率1点台は、NPB史上1位の大記録である。大投手が君臨した昭和中期ならともかく、21世紀のNPBでこの記録を達成したのは驚異というしかない。
防御率1位2回、最多奪三振3回、沢村賞1回、MVP2回。最多勝のタイトルこそ同期、同学年のライバルだった当時西武の涌井秀章に2度阻まれるなどして獲得できなかったが、圧倒的な成績を残した。
日本での無双のち、約39億円でのポスティング
以下はダルビッシュがNPBにいた2005年から11年までの7シーズンで、700イニング以上投げた投手の防御率5傑。
ダルビッシュ有(日)167登93勝38敗1268.1回1250振 率1.99
田中将大(楽)125登65勝31敗930回886振 率2.61
杉内俊哉(SB)177登89勝42敗1268回1331振 率2.62
武田勝(日)159登57勝41敗832回515振 率2.68
前田健太(広)107登42勝36敗734.1回568振 率2.73
ダルビッシュは唯一の1点台、勝利数もイニング数も1位、奪三振は杉内に次ぐ2位。ずば抜けた成績を残した。NPB7年目の2011年には「NPBではもうやることがない」ような状態になった。この時期、ダルビッシュは、相手チームの主力打者から「お手柔らかに頼むよ」的なことを言われて、がっかりしたと語っていたこともある。
ダルビッシュは、ポスティングシステムでレンジャーズに移籍。日本ハムには5170万3411ドル(当時のレートで38億8000万円)のポスティングフィーが入った。
レンジャーズに入団してダルビッシュの各種の数字は落ちた。防御率は前年の1.44から3.90に、被本塁打は5本から14本に、与四球は36から89になった。
MLBの打者はただパワーがあるだけではなく、選球眼もあって、手ごわい打者ばかりだった。しかしダルビッシュはMLBに来て、レベルの高い相手との対戦に手ごたえを感じ、やりがいを感じるようになったようだ。
ダルと田中将大が同時期に経験した“ヒジの故障”
メジャー2年目の2013年5月、タイガースのスラッガー、ビクター・マルチネスにファウルで粘られたダルビッシュは自身のブログでこのように発信した。
〈何球投げれば終わるの?みたいな
何投げてもファール。
僕もビクターも目あうたび笑ってましたよ!
まだ2年目の選手にそういう対応をしてくれて、一緒に勝負を楽しんで貰えたのが凄く感動しました
打席で人柄まで伝わりましたよ
毎回タイガースに投げたいわ(笑)〉(以上原文ママ)
それでもダルビッシュは3点前後の防御率をキープし、この2013年には最多奪三振のタイトルを獲得した。しかし翌2014年の8月に右ひじの炎症で戦線離脱。同年の7月にヤンキースの田中将大も右ひじ靱帯の部分断裂でDL(故障者リスト)入りしていた。
年齢もプロ入りも2年遅れの田中は、NPB時代からダルビッシュの最大のライバルだった。
そしてMLB移籍も2年遅れとなったが、ほぼ同時期に右ひじ靱帯を損傷した。ダルビッシュは翌年3月にトミー・ジョン手術を受けたが、田中は手術はせずに自身の血漿濃縮物を患部に注射するPRP療法を選択した。
苦しんだ時期にも「野球の学び」は進化していった
ダルビッシュは2015年を全休。一方の田中は以後も投げ続け、6年連続で2けた勝利を挙げる。明暗を分けた形となった。ダルビッシュは2016年に復帰したが、素晴らしいパフォーマンスを見せるときもあるが、シーズン通じては満足いく結果が挙げられない時期が続いた。
こういう逆境に立たされれば、日本復帰を考える投手もいるだろう。しかしこの時期から、むしろダルビッシュの「野球の学び」はさらに進化していった――。
<つづく>
文=広尾晃
photograph by Hideki Sugiyama