女性アスリートにとって、妊娠・出産は現役引退とイコール。日本のスポーツ界ではそれが当たり前という暗黙の了解があった。しかし、なでしこジャパンW杯優勝メンバーの岩清水梓さんには「わが子を抱っこして、ピッチに入場したい」という夢があった。出産のち競技という“職場復帰”への奮闘記『ぼくのママはプロサッカー選手: 岩清水梓の出産と子育てのはなし』(小学館クリエイティブ)より一部転載にてご紹介します。(全4回)

 散々、思い悩んで、一度はサッカーから離れる決心をしたり、でもやっぱり子どもを産んでからも続けることにしたり。そのあと、クラブには事実上の産休に入ると報告したり……我ながら、あの時期はなかなか濃密な1、2週間を過ごしたな、と思う。

 クラブにも、チームメイトにも妊娠と産後の復帰の意思を伝え、改めてシーズン途中での離脱を心からお詫びした。そしてその日から、私はチームのトレーニングから離れた。

産前のトレーニングって、どうすればいいの?

 さて、離れたはいいのだけれど、産前のトレーニングって、一体なにから始めたらいいものなのか。

 まだ、別にお腹も大きくなっていない。かと言って、安定期にも入っていない。どこまで動いていいのかな? ゼーハーするまで脈は上げていいの? 重いものって、どれくらいまでなら持っていいの? フィットネスバイクは漕いでもいいのかな? お腹は張る? 張らない?

 ……わからない。まったくもってわからない。クラブのトレーナーさんに聞いても、初めてのケースなのでわからない。なにこれ、どうしたらいいの!

 ひとまずは、以前、捻挫や怪我をしたときに、荷重をかけないようなリハビリメニューを何度か経験したことがあったので、それをおさらいするような形でトレーニングをすることにした。

 そこから、私はとことん調べた。インターネットで、そして本で—そう、つまり自力だ。そもそも、どうやって情報を手に入れたらいいのかもよくわかっていなかったので、気になることがあると、その都度、手当たり次第に調べていた。

“アスリート妊婦”が産後に向けてやっていいことは何?

 しかし、これは私の検索能力も関係するのだけれど、調べても、調べても、出てくる情報は当たり前だが「一般論」ばかりだった。大体は、転ばないように、とか、重いものを持たないで、みたいな常識的な情報になる。「やらないほうがいいこと」はいくらでも見つかるのだけれど、運動において「やっていいこと」がなかなか見つからない。

 もちろん得た情報に準じて気をつけてはいたけれど、その直前まで試合に出てスライディングをしていたような特殊な妊婦には、すべてが「安静」に匹敵するような情報にしか見えなかった。とにかく、情報がない。“アスリート妊婦”が産後を見越してトレーニングをするには、どうしたらいいんだ?

 アメリカの選手はどうしていたんだろう? あんなに子連れの選手がいるんだから、きっと産前プログラムなどがあるはず。それでもやはり、自力の検索ではまったくたどり着けない。また、その当時はSNSもあまりやっていなかったので、それらしき海外などの情報に遭遇するといったこともなく、若干、途方に暮れていた。

孤独だった手探りのセルフトレーニング

 だからと言って、なにもしないわけにはいかない。私には、出産後に戦線に復帰するというミッションがある。運動もせずに普通に過ごしていてはダメなのだ。

 雲をつかむような手探りのセルフトレーニングは孤独だった。

 基本すべてが恐る恐る。妊婦さんならみんな感じると思うけれど、まず「安定期に入るまで安静に」って、どのぐらいのレベルの「安静」なのかがわからない。だからすべてが自己判断だった。

 重いもの持っちゃダメっていう人が、ダンベルを持っていいのだろうかと思いつつ、座ったままなら大丈夫かな、とか。腹筋は使わないほうがいいのかな、とか。できるだけ負荷をかけないで、足首や上半身のトレーニングをするなど、自分の知っている限りの知識をフル稼働させた。そんな恐る恐るのセルフトレーニングは、3カ月ほど続いた。

 今になって思えば、第二子を出産しているような人は、十数キロもの第一子を、妊娠中も抱っこしたりしているわけで、そこまでナーバスになる必要はなかったのかな、とわかる。負荷だって、きっと思っていた以上に余裕だったはず。でも第一子って、本当に、教えてもらえないと、不安だらけで全然わからないのだ。

「あぁ、うれしい!」やっと知ることができた情報

 そんななか、ようやく安定期に入り、妊娠5カ月が過ぎたころ、なでしこリーグの年間表彰式があった。私は光栄なことに「特別賞」をいただいた。そのために式が行われる会場を訪れたとき、そこで、私にとって運命的な出会いがあった。

 女子サッカー日本代表のドクターである土肥美智子先生とたまたまお会いする機会があり、先生から「JISSで、産前プログラムみたいなのがあるから来てみたら?」と声をかけてくれたのだ。JISSとは、日本のアスリートの多くがお世話になっている、国立スポーツ科学センターのことだ。

「産前プログラム!」

 まさかJISSに情報があったなんて。JISSに相談するなんて、頭に浮かびもしなかった。視界が一気に開けた気分だった。ずっと欲しかった情報! あぁ、うれしい!

 後日、JISSにうかがうと、土肥先生から、同じく女子日本代表のトレーナーで、私も以前からなでしこでお世話になっていた中野江利子さんを、産前産後のトレーナーとして派遣してもらえるよう、日本サッカー協会に頼んでみてはどうかという提案をされた。先生の話によると、まだサッカー選手の事例はないが、他競技の選手の事例を参考にできる、とのことだった。

一人でのトレーニングは心細いし、ずっと寂しかった

 そして今後また、サッカー選手からも同じ事案が出るかもしれないことも考えて、中野さんがJISSの先生と相談しながらトレーニングのメニューを作成し、定期的に私のトレーニングを見ることで、モデルケースにもなるから、とも話してくれた。

 すべてを手探りでやっていた私にとって、願ってもない提案だった。まず、識者に頼れることで不安から解放されるのが、本当にありがたかった。しかも、私の経験が誰かの役に立つかもしれない。そう思うと、ピッチを離れていても女子サッカーに貢献できることがあるんだとわかり、幸せだった。でもなにより、一番うれしかったのは、もう一人じゃなくなること。がんばる、とは思っていても、やっぱり一人だけでトレーニングするのは心細いし、ずっと、すごく寂しかったのだ。
<つづく>

文=岩清水梓

photograph by JFA/AFLO