昨年10月、立教大学の陸上競技部男子駅伝チーム監督を解任された上野裕一郎。監督自身が走りアドバイスしていくユニークな指導法で同校を55年ぶりの箱根駅伝出場に導いた男は、選手に専念する形でトラックに戻ってきた。異例の復帰までの道のりを聞いた。(Number Webインタビュー全3回の第2回/初回「解任の真相」編はこちら)

断ち切れなかった陸上への思い

 監督を解任された上野裕一郎は、ホテルで数日間、過ごした後、友人宅のマンションに移り、ハローワークに通う日々を送った。

 今は、売り手市場で職を選ばなければ仕事に就くことができる。だが、今ひとつ職探しに集中できなかったのは、陸上関係者から連絡が入っていたからだった。

「やっぱりもう一度陸上をやりたい、陸上をやって失った信頼を取り戻したいという気持ちがありました。だからハローワークで陸上以外の仕事をやると決めきれませんでした。こんな状況でやらせてくれるところがあるのかなって思いながら、相談をもちかけていく中でひらまつ病院を始めとした実業団から奇跡的に声をかけてもらえたんです」

 12月、ひらまつ病院からは入部を打診されたものの、決断できずにいた上野。しかし、1月の箱根駅伝で懸命に前に進み続ける学生たちの走りが目に焼き付き、決意を固めた。正式に加入が発表されたのは1月15日だった。

どこに行ってでもやります

 ひらまつ病院陸上部は、2011年に設立された。活動場所は、九州の佐賀県小城(おぎ)市で、今年のニューイヤー駅伝は過去最高24位、来年はさらに上位を目指している。部員は22名で、メンバーには、10000m27分44秒74の自己ベストを持つ荻久保寛也、同28分00秒49の栃木渡、マラソンで2時間09分のタイムを持つ福田穣らがいる一方で介護の仕事を行いながらニューイヤー駅伝に出場した選手もいる。選手のレベルにより契約は異なるが、上野の場合、病院での日中の勤務は免除されており、プレイヤーとしての結果を求められている。

「(チームの拠点が)九州は初めてだったのですが、どこに行ってでもやりますという覚悟でいました。自分が指導するというのも、あの問題があってすぐに指導なんてできるわけがないと思っていたので、プレイヤーとして求められているならそこで結果を出すしかないと思っていました。『もう38歳でしょ』という声もあると思うんですけど、こんな状態の中、拾っていただいた自分ができることは、チームから求められていることをやり遂げて、結果で恩返しすることです」

パパはあなた一人しかいないんだから

 家族には、正式に決まった後に連絡をした。妻からは「もう1回陸上できるんだから頑張って。私はいいから子どもたちを守ってあげて。パパはあなた一人しかいないんだからしっかりして」と言われた。

「ものすごい心の傷を負っているはずなのに、うちの妻からは『子どものことを優先し、大事にしてほしい』と何度も言われました。改めて、妻の気持ちを大事にしつつ、自分自身しっかりして、家族を養えるように陸上で結果を出していくしかないと思いました」

上野が涙した、あるメッセージ

 上野のひらまつ病院加入は、さすがに歓迎ムード一色とはならなかった。ニュースとして報じられると、SNS上では再起に期待する声と同時に、「禊も済んでないのに、もう復帰かよ」「なんで、また陸上やってんの」など、ネガティブで厳しい声が飛んだ。そうした負の矢印は、当然、ひらまつ病院にも向けられた。その時、上野は病院側から、こう言われたという。

「うちは何を言われてもいい。こうなるのは分かって採っているから。理事長や部長、監督が盾になる。その代わり必死に頑張ってくれ」

 上野は、その言葉に涙がこぼれたという。

こんな僕を温かく迎え入れてくれた

「普通は、問題を起こした人とか面倒がいやだから採ったりしないし、逆に辞めさせたいと思うじゃないですか。でも、ひらまつ病院は、温かく僕を迎え入れてくれたんです。それでも最初は、病院内で『ほら、あの人だよ』って言われたり、指を差されたりすることはあるだろうと覚悟していたんです。でも、そんなことも一切なくて、病院内ですれ違うみなさん、笑顔で『こんにちは』『がんばってください』と声をかけてくれて……。人の温かさというか、優しさを改めて感じることができました。この人たちのためにも自分はやらないといけないと強く思いました」

 陸上部の福田穣もSNS上で「禊がなんだって言ってる人いるけど、自分が悪いとはいえ、急に職失って、家族もいて次の仕事探すの必死になるに決まってんじゃん」と上野を擁護する声を上げた。しかし、それが火に油を注ぐことになり、福田からは「炎上してしまってすいません」と、上野のもとに謝りの連絡が来た。上野は、「意見してくれてありがとう。巻き込んですまない。今は俺に触れない方がいい。何も良い影響がないから」と伝えた。上野は、自分が復帰したことでひらまつ病院、女子部員や部員たち、そして家族に迷惑が及ぶことを恐れた。

「ひらまつ病院に対して、『何だよ』と思う人もいたと思いますし、女子部員の保護者も『うちの娘に手を出しておいて、もう復帰か』と思ったかもしれません。そこで僕に批判の矢印が向けばいいんですが、それが病院や女子部員や部員、家族に飛び火することがすごく心配だったんです」

 上野の懸念とは裏腹に、彼らに誹謗中傷の波が押し寄せるようなことはなかった。

立教大選手に再会して告げられたこと

 先日は、嬉しいことがあった。

 あるレースで卒業生の中山凜斗(西鉄)に会った。中山は、上野が監督時代、直接スカウトして来てもらった1期生であり、エースとしてチームを牽引した選手だった。あんな形で部を去ることになり、きっと恨まれているだろうなと思っていたが、中山は嫌な顔ひとつせず、「また一緒に陸上やれますね」と再会を喜んでくれた。中山の両親も来ており、厳しい言葉も掛けられたが、嫌な顔は見せずに最後は「がんばってよ」と励ましの言葉をかけてくれた。

「中山だけではなく、金栗記念のレースでは山本(羅生・4年)や馬場(賢人・3年)、國安(広人・3年)、青木(龍翔・2年)、高田(遥斗・2年)が僕を見つけて、パッと集まってくれたんです。みんなには『申し訳なかった』と謝ったんですが、みんな何事もなかったように接してくれて、大人になったなと思いました。こういう場で、みんなに会えたことはすごくうれしかったです」

上野が走りで証明する「正しさ」

 彼らが上野を囲んでくれたのは、監督としての手腕を認めていたからだろう。陸上部を4年で箱根駅伝に導き、個々のレベルを一緒に走りながら押し上げて、チームを成長させた。女子部員との関係は問題だが、かといって指導そのものが全否定されるわけではない。彼らに上野の指導は、確かに届いていたのだ。

「みんなに『体を戻して、維持できるんですか』って聞かれたんです。その時、『トレーニングはみんなに出していたメニューと同じことをしている。みんなとやってきたことが正しかったということを僕は結果で示していくから』と伝えたんです。これから部員は、高林(祐介)監督が作ったメニューで頑張っていくと思うんですが、僕は昨年までみんなに課した練習を今のチームの若手に伝え、一緒に頑張って行こうと思っています」

 その言葉通り、上野はいま、選手として着実に結果を残している。<つづく>

文=佐藤俊

photograph by Takuya Sugiyama