「野村監督が生きてらしたら…」ヤクルト・高津臣吾監督が語る“野村克也の本質”「ID野球は令和でも通用するのか」今も残る“野村の教え”
Number Web6/16(月)17:01

「野村監督が生きてらしたら…」ヤクルト・高津臣吾監督が語る“野村克也の本質”「ID野球は令和でも通用するのか」今も残る“野村の教え” photograph by Tamon Matsuzono
約35年前に起きた革命の中心地はヤクルトだった。名将の影響はその後、海を渡って韓国にまで届く。なぜなら作戦や技術が進化する中でも圧倒的な普遍性を持っていたからだ。そんな野村イズムの現在地とは。
発売中のNumber1121号に掲載の〈[生誕90年没後5年]野村克也「ID野球は令和でも通用する」〉より内容を一部抜粋してお届けします。
高津監督が語る師・野村克也の思い出
「もし、今も野村監督が生きていらしたら、いろいろなことを相談して、僕の野球脳はもっと良くなっていたんじゃないかな……」
野村克也が天に召されて5年が過ぎた。今も存命であれば90歳になる。かつての師である野村の思い出を尋ねると、ヤクルト・高津臣吾監督はしみじみと言った。
「……現役のときには《監督と選手》という立場でいろいろ指導していただいたけど、今度は《監督と監督》という立場で、“こういうときはどうしていましたか?”とか、“こんなときには何を考えていたんですか?”と相談したかったな」
2020年、高津が監督に就任した年に野村が亡くなった。死の直前に監督就任の報告をしたのが、師との別れとなった。監督在任6年目となる。'21年に日本一、'22年にはリーグ連覇したものの、'23年、'24年と5位に沈み、今シーズンも故障者が続出する中で苦戦が続いている。
「今でもヤクルトには野村の教えは残っているのか?」
高津に尋ねたのは「今でもヤクルトには野村の教えは残っているのか?」という質問だった。'90年、ヤクルト監督就任時に野村が掲げた「ID(データ重視)野球」という革命は、令和の現在では多くの野球人が知る戦法となった。監督就任時、高津は「野村監督の教えを継承するのも私の役目です」と口にしている。野村の教え子たちが、各球団で指導者となっている今、その本流であるヤクルトには「野村の教え」が脈々と息づいているのだろうか?
「僕はもちろん、ヘッドコーチの嶋(基宏)も楽天時代に監督と選手という立場で野村さんと接していますから、今でもヤクルトには色濃く残っていると思います。バッティングコーチの大松(尚逸)は直接、野村監督の指導は受けていないけど、ヤクルトでは打者に対して、“彼はA型で、この選手はB型だ”という会話が普通に行われているし、合計81マスのチャート表を使って、今でもミーティングをしています」
生前の野村は、打者のタイプをAからDまで4つに分類して、それぞれのタイプに応じた対応策を講じていた。ストレートにタイミングを合わせながら変化球にも対応できる天才タイプのA型、外角か内角か、あるいは直球か変化球かと大まかな狙いを持って打席に挑む無難タイプのB型など、野村は詳細な分析を行っている。
そして、ストライクゾーン、ボールゾーンを「9×9」の合計81マスに分割したチャート表を採用し、配球に対する考え方をバッテリーに指導したのも野村だった。
「右打者のインコースギリギリが30ラインで、アウトコースが70ライン。インコース低めギリギリのストライクが31。例えば(内山)壮真のような若い選手に、“さっきのボールは31だった”と言ってもきちんと会話が成立する。それは野村監督時代から一貫して変わっていません」
現役時代の高津は、'04〜'05年はMLBに所属し、'08〜'12年は韓国、台湾、そして独立リーグ・新潟アルビレックスBCと、各地でプレーしている。
「新潟時代には久しぶりに野村野球に触れられて色々なものを思い出しました。アルビレックスBCはヤクルト時代にチームメイトだった橋上秀樹さんが監督を務めていて、野村野球を継承していたからです」
資料はすべて81マスのチャート表
'90〜'98年にヤクルトの監督だった野村は、翌'99年から'01年までは同一リーグである阪神の監督となった。その後、社会人野球・シダックスの指揮官となり、'06〜'09年はパ・リーグ、楽天の2代目監督を務めた。「野村の教え」はNPB両リーグはもちろん、独立リーグ、さらにはアマチュア球界にまで広く伝播している。
ヤクルト時代にID野球を学び、後に日本ハムを経て、野村がチームを去った後に阪神に移籍したのが野口寿浩だ。
「阪神に移籍したのが'03年で、すでに野村監督から星野仙一監督になっていた頃のことでした。それでも、当時の阪神には野村さんの教えは残っていました。先乗りスコアラーが持ってきた資料を見ると、それはまさに野村流でしたから」
ここで野口が口にしたのが、高津同様「81マスのチャート表」だった。
文=長谷川晶一
photograph by Tamon Matsuzono












