三重県の前身・伊勢津藩の初代藩主である藤堂高虎。次々と主君を変えるものの藩主に上り詰めた生き様は地元で愛され、「津まつり」では「高虎時代絵巻」という武者行列も行われている。
築城の名手としても知られる高虎はどんな人物で、どんな行列だったのか? 前回の記事「武功の鬼・藤堂高虎」に引き続き、歴史家・乃至政彦さんに伺いました。

合理の人か情緒の人か

藤堂高虎を祀った高山神社 写真/フォトライブラリー

藤堂高虎といえば、七度も主君を変えたことで、合理性ある冷徹な現実主義であるかのように見られることが多いが、寛永2年(1625)8月2日、世子・高次へ伝えた訓戒書に「孔子之道を心に懸」けるよう説いている。「孔子之道」の参考書は『論語』であるから、高虎の愛読書に『論語』のあったことが読み取れる。

同書は、同世代の上杉景勝も愛読して、やはり息子にこれをしっかり読んでおけと伝え残している。『論語』の内容は、具体的な教えを体系化して説くものではなく、孔子の断片的な言葉と所作のみを編纂した読み物で、一個の人間の中身を学ぼうとするテキストである。

ゆえにその解釈は無限大で、ここから人格陶冶に繋げていくことが、当時の読書人を育成する上で重要な役割を果たした。この時代、人文とは、論理の錬磨や知識の蓄積で上下を作るためのもの(またはそこで上位に立とうとするもの)ではなく、テキストとの対話で感受性と人間性を向上させていくものであった。

高虎が「孔子之道」に何を学んだか、詳らかなことはわからないが、その片鱗は高虎の逸話から想像することができる。

今回は高虎の人柄や試行錯誤が読み取れる逸話をいくつか拾い出してみよう。

黒田長政を嫌うも悪口を好まず

黒田長政像

藤堂高虎は、加藤嘉明および黒田長政と不仲であった。その理由は不明だが、「高麗(への遠征)以来確執アツテ」と朝鮮出兵に原因があったと伝わっている。

ただし2人と親密な細川忠興とは仲が良好で、その細川家に残されている書状(元和6年3月26日付)には、「藤いつミ(藤堂高虎)と黒筑(黒田長政)間、むかしのことくあしき由」と、長政との不仲ぶりが確かめられる。

周囲の大名も知るほど長年の緊張関係にあったのである。

ある時、その高虎のもとへ客人があり、「長政はひどい人で」と高虎の前で長政を散々に批難した。すると高虎は顔色を変えて、「確かに私は黒田長政とは仲が悪い。けれどな、私は内心にある思いを言わずにいる。それなのに私の前で長政を批難すれば、私が喜ぶと思っているのか」と尋ね返した。

すると客人は自身の行いをその場で謝罪した。

また、加藤嘉明についても逸話がある。

加藤嘉明像

徳川家光の治世において、家光は会津が幕府にとって重要な地であるため、これを高虎に与えようとした。ところが高虎は固く辞して、「私はすでに老いたる身。武勇に傑出した者をおかれませ」と進言した。家光がお前をおいてそのような人物を探し出せようかと問うと、高虎は険悪の仲であるはずの加藤嘉明を推薦した。

すると家光は、両人の不仲を知っていたので、なぜそのようなことを言うのかを尋ねると、高虎は「我らの不仲は私事です。いくら私が愚かであろうとも私怨から筋目を曲げるわけには参りません」と答えた。こうして会津43万石は加藤嘉明のものになったと言う。

高虎の義心が知れる逸話である。

織田信澄への恩義

安土城にある伝織田信澄邸跡(左)

藤堂高虎は、かつて織田信澄に母衣衆(側近の精鋭兵)として仕えていたことがある。だが本能寺の変の騒動で信澄が戦死すると、豊臣秀長・秀吉に仕えなおし、大出世を果たした。

だが高虎は旧恩を忘れたわけではなかった。

父の死後、不遇を託つ遺児・昌澄を探し出すと、これを家臣に迎え入れて、厚遇したという。しかし、高虎が豊臣家を去ったあと、残された織田昌澄は秀吉に仕え、さらに秀吉亡きあとは豊臣秀頼に仕えた。大坂の陣では、豊臣軍の一員として徳川幕府軍と戦った。高虎も幕府軍の中にいた。

戦後、普通なら昌澄は斬刑に処せられてもおかしくはなかったが、高虎の働きかけにより、一命を保ったばかりか2000石の禄を与えられ、徳川秀忠の旗本として仕えたという。

こちらは高虎の情味を彷彿とさせる逸話である。

政治的打算

徳川頼宣像徳川頼宣像

大坂の陣が終わって5年になろうとする元和5年(1619)、徳川頼宣(徳川家康の息子)は駿河から紀伊・伊勢志摩(約55万5千石)に転封された。

伊勢には紀伊藩の鷹場が設置されていた。19世紀の藩史『聿脩録』や18世紀の藩史『宗国史』によると、鷹狩好きの頼宣は、紀伊は最上級の獲物とされるツルがあまり渡来しないので、どうせなら摂津の大坂がよかったと不満を漏らしていた。

これを聞いた伊勢津藩(推定32万石)の藤堂高虎は、「かつて私がおりました紀伊は、確かにツルが少なかったです……。ですが大坂は、徳川家が滅ぼした者たちの『怨気』が残っている不吉な場所ですよ」と頼宣をなだめるとともに、「鶴尤多し」と言われる「伊勢半州」を鷹場として提供することを申し出た。

以後、紀伊藩は藤堂の津藩領内で鷹狩を実行することを公認された。これにより高虎は徳川御三家のひとつである紀伊和歌山藩の信頼を勝ち得たのである。

高虎の優れた政治的感覚が知れる逸話である。

これらの逸話から高虎の人柄をイメージして、史実の実績や様子を見直してみると、浮かびあがるものもあるだろう。

藤堂高虎の男色禁止令

徳川幕府のもと一統された天下泰平の時代がくると、大名たちは自領の安定に専念する。伊勢津藩の藤堂高虎も例外ではなかった。

元和3年(1617)「正月吉日」、高虎は家臣たちに触書「御家中御条目」を発して、家中の男色を禁じた(『高山公実録』)。

そこに男色を禁じる一文がある。

「そばに召し遣う大小姓(元服済の側近少年)・小小姓(元服前の側近少年)ともに、衆道(男色。成人男性による少年への性的関係)の結びつきを求めた場合は、妻子ともに成敗することとする」

男色は、当時よくあることではあったが、あまり褒められたものではなかった。なぜなら恋愛結婚という習慣のない武士にとって男色の契りは、またとない色恋の事件となる。血気盛んな武士は自然と取った取られたで刃傷沙汰になりやすい。したがって男色は治安を乱す一因と見られていたのである。

それに身分ある大人が、格下の少年相手に交わりを求めるのは、多くの少年たちにとって性的指向の違いや、病気のリスクから考えても迷惑な出来事だった。不本意な関係を強いられる者を気の毒に思う人々がいて、批難する声も少なくなかった。

ゆえに高虎は、家中の男色を禁止したのだが、よく見ると禁止しているのは、小姓たちに対する関係のみである。春を売る男娼や、武士ではない稚児への接触までは禁じていないことに注意したい。つまり、男色そのものを根絶する意志はなく、秩序を乱さない範囲で、社会的合意を得られる形なら許容されていたと考えていいだろう。

必ずしも順風満帆に出世したわけではない高虎の人生経験がここに滲み出ているように思える。

四公六民への統一

津まつり「高虎時代絵巻」 写真提供/津まつり実行委員会

高虎は、津藩の初代藩主となった時、筒井領だった伊賀と富田領だった伊勢の年貢がバラバラで不平等だったので、これを一律「四公六民」にまとめなおさせた。

さらに、自分の私有する知行の年貢で収入を確保していた武士たちの土地に代官を置き、年貢は津藩が徴収して、そこから家臣たちに相応の給料を支払う近世方式に改めさせた。

他にも村娘への悪行、百姓の強制徴用、そして猪・鹿・牛・犬の肉食を禁止(当時、肉食は野蛮視されていた)するなど、戦国の気風を一掃するべく善政に努めた。

こうした法令は、武功至上主義の人物では、うまく組み立てられないであろう。乱にあって治を忘れず。平和へのビジョンなくして近世の大名は務まらない。高虎が乱世を生き抜いてきたのは、腕っぷしの強さのためだけではない。常に新しい時代への適応を考えながら、未来へと歩みを進めたためである。

藤堂高虎が歴史に残る偉人となるまでに、なにを考え、なにを望んだのか。自身が身を落ち着けた津藩で、領民たちとどのように絆を育もうとしたのか。そしてその成果のひとつが、現在三重県で行なわれている「津まつり」として現在に伝えられている。この祭りは、今回紹介した高虎から訓戒書を託された高次が、その10年後(高虎が亡くなって5年後)の寛永12年(1635)に八幡宮の氏神祭としたことに起源がある。

高虎や高次の思いが、今もここに生き続けている。