多くの登山者を惹きつけて止まない槍ヶ岳。この名峰に関わりの深い人物を紹介する。

播隆上人、穂苅三寿雄、小林喜作の槍ヶ岳

槍ヶ岳開山の祖・播隆上人。

槍ヶ岳を開山したのは、越中国(現・富山県)出身の念仏僧・播隆(ばんりゅう)上人だ。播隆は文政11年(1828)に登頂し、山頂に木像仏を安置。信者が登りやすいよう藁の「善の綱」をかけたが、傷みが激しかったため、天保11年(1840)には鎖が設置されたと伝わる。

宗教的な領域だった山は、明治に入ると測量や調査が行われるようになる。明治25年(1892)には英国人宣教師ウエストンが槍ヶ岳を登頂。近代登山が普及するきっかけとなった。

播隆が天保6年(1835)に描いたと伝わる『鎗ヶ嶽絵図』。父親宛ての書簡に同封されていたという。播隆は二回目の槍ヶ岳登山の後、穂高岳にも登ったという記録が発見されている。

槍ヶ岳にまつわる第二の人物は、明治8年(1875)、穂高牧(現・長野県安曇野市)に生まれた小林喜作だ。17歳から猟師となり、北アルプス一帯の山道を熟知。先輩と槍ヶ岳を登頂して以来、地図作製の測量官など多くの人を案内していた。

喜作はハイマツを刈り、岩を砕き、数年かけて道を整備し、大正7年(1918)に東鎌尾根から槍ヶ岳に至るルートを拓いた。この「喜作新道」は4〜5日かかった日程を1〜2日に大幅に短縮。多くの登山者を集め、現在でも利用されている。

大正9年(1920)頃、槍ヶ岳山頂の小林喜作。「喜作新道」を拓いた翌年、槍ヶ岳直下に殺生小屋(現・殺生ヒュッテ)を開業。しかし同年、喜作は長男の一男と一緒に雪崩で亡くなってしまった。

槍ヶ岳に関わる第三の人物は、松本市の竹細工店の跡取りとして育った穂苅三寿雄だ。大正3年(1914)に23歳で初登頂した経験から、山小屋の必要性を考え始める。さっそく適地調査や資金集めに奔走し、3年後に槍沢のババ平に山小屋を建てた。

山小屋建設に情熱を注いだ穂苅三寿雄(写真提供/槍ヶ岳山荘)。

さらに三寿雄は燕岳に山小屋を開業した赤沼千尋と共同で、槍沢のグリーンバンドに大槍小屋(現・ヒュッテ大槍)を建設。大正10年(1921)に完成するが、雪崩で倒壊してしまう。翌年残材で再建するが、三寿雄は山頂直下の標高3060mに新たな小屋を建てることを決断。大正15年(1926)に肩ノ小屋(現・槍ヶ岳山荘)を開業し、現在に至る。

文/朝倉由貴

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