織田信雄(のぶかつ)は信長の次男として、1558(永禄元)年に生まれています。幼名ははじめ、茶筅(ちゃせん)、のち、三介と称しました。父・信長が伊勢の北畠具教(とものり)と戦ったとき、戦いで決着をつけられなかった信長は講和を申し入れ、信雄を具教の娘と結婚させました。養嗣子(ようしし)となることで北畠家の乗っ取りを謀ったのです。そのため、信雄は一時、北畠具豊(ともとよ)と名乗りましたが、信長と信雄はその後、北畠一族を粛清しています。

信長と秀吉の怒りを買う

 1579(天正7)年9月、信雄は父・信長に無断で伊賀に攻め込みましたが、逆に敗れ、重臣の柘植(つげ)三郎左衛門らを討ち死にさせるという大失態を演じてしまいます。信長から叱責され、一時、勘当同然の身となりました。ただ、信長としても、信雄は長男・信忠を支える織田家の重要な一員でもあるので、2年後の「天正伊賀の乱」では信雄を総大将に任命し、伊賀平定後、そのほとんどを信雄に与えています。

 1582年6月2日の本能寺の変のとき、信雄自身は伊勢にいて、すぐに近江まで出陣、信長の居城だった安土城に入っています。実はそのとき、イエズス会宣教師の書いた記録では、信雄が安土城天主に火をつけて焼いたとしています。安土城天主を信雄が焼く必然性がないので真偽は何ともいえませんが、そうした説のあることは注目すべきではないかと思います。信雄にやや軽率な行動があったことは確かなのでしょう。

 本能寺の変、そして、山崎の戦いを経た後の清洲会議で、織田家の家督は信長の長男・信忠の子でわずか3歳の三法師に決まりました。本来なら、長男・信忠亡き後、次男の信雄に順番が回ってくるところですが、三男・信孝を柴田勝家が推していて、それを巡る確執があり、次男でありながら信雄は家督を継ぐことができませんでした。

 このことが2年後の1584年に繰り広げられた小牧・長久手の戦いの伏線となります。信雄は徳川家康と組んで、秀吉の織田家簒奪(さんだつ)の動きを食い止めようとしますが、秀吉からの単独講和の申し入れを受け入れてしまいます。信雄としては本意ではなかったかもしれませんが、何とか保身を図ることができました。ところがその後、転落の人生が始まります。

 秀吉による小田原攻めの論功行賞で、それまで、駿河・遠江・三河・甲斐・信濃の5カ国を領していた家康が関東の北条氏遺領に移され、その空いた5カ国への転封が信雄に命じられたのです。それまで、信雄は尾張・伊勢の2カ国でしたので、5カ国への栄転ということになるのですが、信雄は「このままで結構です」と転封を辞退してしまいます。信雄は遠慮しての辞退のつもりだったのかもしれませんが、秀吉はこれを「転封拒否」と受け取りました。

 結局、下野への追放を申し渡され、捨て扶持(ぶち)として2万石を与えられるだけになってしまったのです。信長の息子にしてはお粗末な結果というしかありません。秀吉への甘えがあったように思われます。

乱世を巧みに生き抜く

 追放された信雄は剃髪(ていはつ)して常真(じょうしん)と号し、出羽、さらに伊予と各地を転々とします。秀吉も見るに見かねたのかもしれません。旧主・信長の次男である信雄に救いの手を差し伸べています。1592(文禄元)年、秀吉は信雄を在陣中の肥前名護屋城に呼び寄せ、お咄(はなし)衆としたばかりか、その2年後には信雄の子・秀雄を大名に取り立て、越前大野で5万4000石を与えています。

 さらに、秀吉死後も信雄は巧みに泳ぎ回り、豊臣家滅亡後、家康から大和国宇陀(うだ)3万石、上野国甘楽(かんら)・碓氷(うすい)のうちで2万石、合わせて5万石が与えられました。一時は父・信長から勘当同然の扱いを受け、秀吉には国持ち大名の座を奪われた信雄でしたが、近世大名として生き残り、1630年、その数奇な人生を終えました。