岐阜県郡上市の職員が上司からのパワハラを苦にして、自殺していたことが8月31日、報道されました。昨年6月1日、「パワハラ防止法」(正式名称:改正労働施策総合推進法)が施行されましたが、パワハラによる被害はなかなかなくならず、民間企業でも、パワハラを発端にした自殺がたびたび問題化しています。一方で、上司は人材育成のために部下を指導することが責務でもあります。「厳しい指導」と「パワハラ」の境界線はどこなのでしょうか。

「精神的な攻撃」「過大な要求」の定義は?

 厚生労働省によるとパワハラの定義とは次のようなものです。

・職場において行われる(1)優越的な関係を背景とした言動であって(2)業務上必要かつ相当な範囲を超えたものにより(3)労働者の就業環境が害されるもの

 具体例として、「精神的な攻撃」「身体的な攻撃」「過大な要求」「過小な要求」「人間関係からの切り離し」「個の侵害」などが挙げられています。一方、「客観的にみて、業務上必要かつ相当な範囲で行われる適正な業務指示や指導については、職場におけるパワーハラスメントには該当しない」ともあり、その判定は難しいところです。

 身体的攻撃などは比較的分かりやすいので、パワハラか否かで問題になりそうなのはおそらく、「精神的な攻撃」と「過大な要求」です。

 上司が指導する際、期待をしている部下であればあるほど、自然と厳しさが出てしまうものです。しかし、日本人はネガティブフィードバック(否定的な厳しい評価を相手に告げること)を受けるのが嫌いな人が多いこともあり、ミスを叱責することをすべて「精神的な攻撃」と言われ、高い目標を設定することをすべて「過大な要求」と言われて、即「パワハラ」と認定されてしまうこともあるかもしれません。

 もちろん、パワハラは違法なのですが、このようにすべての厳しい指導をパワハラとすることもまた、本質的ではないでしょう。

指導放棄は本末転倒

「何がパワハラなのか曖昧だが、パワハラなら違法」という状況だと「それならば、絶対にパワハラと言われないために厳しい指導をやめよう」という人も出てくることでしょう。「ダメならダメで本人が報いを受ければいい」と部下の育成など放棄してしまう方が楽なのですから。

 期待や愛情から、部下に対してダメ出しをしたり、改善指導をしたりしているのに、それをパワハラと言われてしまえば、気持ちがなえるのも分かりますが、それでも育成放棄は本末転倒で、上司失格ではないかと私は思います。また、部下の方も成長をしたいと思っているのであれば、腫れ物に触るような扱いを受けることを望んでいるわけでもないでしょう。

 では、どうすればよいのか。すべてのハラスメントがそうであるように、パワハラかどうかを判定するのは部下です。もし、部下のために行った厳しい指導がパワハラと思われているようであれば、「それなら指導をやめる!」と単純に反応するのではなく、そもそも、指導意図について、上司側の説明不足がないか検討すべきでしょう。

 上司は部下のことをどう考えているのか、どのような意図で厳しい指導を行っているのか、それらがちゃんと部下に理解されているか反省しなければなりません。人は意味が分からないものには不信感を抱きますし、「疑心暗鬼を生ず」でその裏に悪意=パワハラを感じてしまうものです。

危険な「昔はこれが普通だった」

 しかし、自分では説明をしているつもりでも、部下にパワハラと思われてしまうのであれば、もう一段、基礎的なレベルで、上司と部下との人間関係が出来上がっていない可能性があります。一緒に働く同僚として、上司や部下の間で相互に理解ができておらず、「えたいの知れない人」としてお互いを見ているのかもしれません。

 同じ言葉でも、「誰が言うか」によって捉え方は異なります。「気心が知れた人」からの叱責は愛のムチとされ、「えたいの知れない人」からの叱責はパワハラになるわけです。そうならないためには、上司の方から、自分の性格や価値観について自己開示していくことが重要です。もし、上司部下の間で相互理解の努力も行って、そして、きちんと指導の意図も説明した上で、それでも結局、パワハラと思われてしまうのであれば、それはもうパワハラなのでしょう。

 個々人には「当たり前水準」といって、「どこまでが当たり前(普通)か」の水準が何事についても存在します。その水準が上司と部下の間、会社(経営)と社員の間で大きなギャップがあるということです。その場合、現在の日本社会では、部下や社員がどう思うかが「是」となるわけですから、上司や会社はそちらにレベルを合わせていく必要があります。

「昔の自分はこれくらいが普通だった」ではなく、「今の彼らの普通」に合わせて、マネジメントや経営をしていかなくてはならないのです。