妊娠中も強化指定選手としてトレーニングを続け、4月に第1子の桜羽(おとは)ちゃんを出産したパラノルディックスキーの阿部友里香。出産後、改めて産前トレーニングの効果を実感しているという。連載第2回目の今回は、出産直前から分娩、そして産後のトレーニング再開までの様子をお届けする。

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パラノルディックスキー阿部選手が妊娠中もトレーニングを続けた理由

早期復帰を目指して無痛分娩を選択

出産から35日後の5月、阿部を訪ねた。阿部は、生まれたばかりの我が子にやさしいまなざしを向けながら、妊娠期間をこう振り返る。

「トレーニングを続けたおかげで、ストレスのないマタニティ生活でした」と阿部

「改めて、私のマタニティライフはストレスとは無縁だったなって思います。可能な限りトレーニングを続けられたことの充実感もありましたし、トレーニングのおかげで適正体重を保てて、大好きなオムライスや魚類も思いっきり食べられましたから」(阿部)

主治医として、産前産後を通してサポートを続けている西別府病院スポーツ医学センター長の松田貴雄医師も、産前トレーニングの意義をこう説明する。

サッカー女子日本代表に帯同した経験もあるスポーツ医学センター長の松田医師。婦人科系の悩みや不調を診てもらうおうと全国から多くの選手が訪れる

「筋トレをすると、筋肉からマイオカインというホルモンが分泌されて、脳の神経細胞を活性化したり、全身の血流を促したり、精神的な安定をもたらしたりします。つまり、妊娠中の筋トレは、母体にも胎児にも良いことなのです。阿部選手は、臨月になってもお腹が大きく前に出なかったのですが、これも体幹トレーニングや腹筋運動に取り組んでいたことが一因と考えられます。腹筋運動というと、一般的には腹圧がかかるから妊婦は避けるべき、と言われますが、阿部選手はトレーナーの指導のもと、腹直筋ではなく、大腿の前面を利用して行っていたので問題ありません」(松田)

阿部(左)はトレーニングの成果なのか、臨月に入ってもあまりお腹が出ていない

阿部が産気づいたのは、出産予定日の3日前のこと。その日も午後からトレーナーと一緒にパーソナルトレーニングを行う予定だったという。しかし、午前中に破水したため急遽、キャンセル。流れ出る羊水の量が少ない高位破水だったため、夕方まで様子を見た後、病院に電話し入院したところ、破水。陣痛促進剤を入れてすぐに陣痛が始まり、その約6時間後の深夜3時ごろ、無痛分娩で出産した。

無痛分娩というと、まったく痛くないのかと思われがちだが、そんなことはない。実際、阿部も想像より痛くてきつかった、と苦笑する。

「麻酔は陣痛が我慢できなくなってから入れるんです。痛みには強い方だと思っていたんですけど、そうでもなかったみたい。『お産がなかなか進まないのは、骨盤底筋が厚くて産道がゆるまないから』と助産師さんに言われたのですが、最終的には強めの麻酔を入れていただいて、そこから一気に進みました。あんなに痛くて長く感じたのに、周りからは『安産だね』『初産にしては早い』と言われます」(阿部)

産前産後のアドバイスを行った西別府病院スポーツ医学センター長の松田医師(右)と臨月の阿部

無痛分娩を選んだのは、松田医師のアドバイスがあったからだ。

「麻酔をしない、いわゆる自然分娩だと、筋肉や神経がかなりのダメージを受け、体力も削られます。女性アスリートにとってそのデメリットは計り知れず、マイナス面の方が大きい。一方、無痛分娩にすれば、そうしたデメリットを回避して体力を温存し、早期の回復が期待できます。無痛分娩に実績のある産婦人科を選べば、安全性も問題ありません」(松田)

妊娠中も西別府病院で定期的に診察を受けた阿部。「血液検査やホルモン検査などの数値を見てもらいながらトレーニングを続けました」

阿部も無痛分娩の効果を実感したと言う。

「お産は長く感じたものの、疲れはしませんでした。出産から2、3日後には普通に歩けましたし。回復はかなり早い方だったかもしれません。産後2日目の夜から母子同室になったのですが、この時が一番つらかった。数分ごとに泣く我が子を前にどうしたらいいかわからず、睡眠時間も細切れで。でも、なんとか乗り切れたのは、トレーニングと無痛分娩のおかげで体力があったからだと思います」(阿部)

出産する20日前、日本障害者スキー連盟から派遣された渡瀬トレーナー(右)と地元でポールウォーク

育児中心の生活も、トレーニングを徐々に再開!

出産直前までトレーニングに励んでいただけに、産後のトレーニングの再開時期が気になるところ。

「恥骨や骨盤のゆるみ、筋肉の損傷などについての評価基準をクリアすれば、すぐにでも可能です。目安の一つは、片足立ちができるかどうかです」(松田)

阿部の場合、産後2日目には片足立ちができたというから、ここからも回復の早さが伺える。

なお、母体の回復のために、産後1ヵ月間はゆっくり休むほうがよい、といわれることがあるが、これは昔からの慣習が残っているに過ぎない、と松田医師は説明する。

「悪露が出ている間は、細菌に感染して腟や子宮、卵巣が炎症を起こしやすくなるから、というのがその理由だったのですが、それも医学が未発達で衛生状態も良くなかったころの話です」(松田)

出産することはアスリートにとっていいこともたくさんある。情報不足の中、発信することで誰かの役に立ちたい思いもある

退院するころには産前とほぼ同じ体重まで戻ったという阿部。トレーニングは、産後3週間目にピラティスからスタート。産前からサポートを受けている国立科学スポーツセンター(JISS)提供の産前産後用メニューを行うとともに、関節の可動域を広げるためにパーソナルトレーニングやウォーキングも始めた。さすがに腹筋は落ちていたというが、EMS機器などを利用しながらトレーニングすることで、取り戻しつつあるという。本格的なトレーニングの再開は、6月半ばに行われるJISSでの産後1ヵ月評価の結果が出てからとなる。そのため、今は保育園探しの真っ最中だ。

今後は、日本障害者スキー連盟が行う遠征や合宿にも強化指定選手として参加予定というが、決して復帰を焦っているわけではない。

「産前までは自分の時間を自由に使っていましたが、いまは娘中心の生活になりました。娘のためにできることを一番に考えたい。そんな思いが自然と湧いてきて、『私も母になったんだな』と実感しています。バイクは自宅で、とか、パーソナルトレーニングは娘同伴で、など、工夫しながらトレーニングしていければ」(阿部)

松田医師も、活動再開の時期の早さは重要でない、と指摘する。

「産前トレーニングで妊娠前には得られなかったものが得られ、その成果が現れたときこそ、女性アスリートとして妊娠・出産が成功だった、と言えるのではないでしょうか」(松田)

遠征の多い冬季競技ではとくに子育てをしながら競技を続けるハードルが高い。阿部の挑戦は続いていく

左手に障がいのある阿部は、「片手での育児は思っていた以上に大変」と漏らす。普段は夫が沐浴や寝かしつけを担当するなど、夫婦で協力して育児をしているものの、夫の出張時はどうするかなど、課題もあると言う。しかし、そう語る表情は、どこまでも穏やかで明るい。

日本において女性パラアスリートの妊娠・出産は、まだまだレアなケースだ。それだけに、先駆者としての阿部のチャレンジは、これからも続く。阿部が、そして、妊娠・出産を望むすべての女性パラアスリートが、当たり前のように妊娠・出産とキャリアを両立できるようになるために、社会全体の理解が進むことを願ってやまない。

阿部友里香|パラノルディックスキー
岩手県出身、福岡県在住。出産事故による左上腕機能障がいがある。クロスカントリースキーとバイアスロンの選手。2021年3月に結婚、2023年4月に第一子を出産。2026年開催のミラノ・コルティナ冬季パラリンピック出場を目指す。日立ソリューションズ所属。

text & photo by TEAM A