日本最大の人口を擁する市、横浜。観光地としても有名なエリアだが、開港以前の歴史をいまに伝える道、戦争の傷跡、アメリカが息づく場所、路地裏の名店...といった知られざる"ディープヨコハマ"も数多く存在する。
今回は、映画館や書店を通して、"興業のまち"伊勢佐木町の昔といまを振り返る。
※本稿は、佐野亨著「ディープヨコハマをあるく」(辰巳出版)より、内容を一部抜粋・編集したものです。
興行のまち、伊勢佐木町
伊勢佐木町の名は、この地の道路造成の資金を提供した伊勢屋中村治郎兵衛、佐川儀右衛門、佐々木新五郎の名前を組み合わせたものである。1880年(明治13年)に観世物興行場に指定されたことで寄席や芝居のまちとして発展した。
現在の伊勢佐木町三丁目付近はかつて賑町(にぎわいちょう)といった。両国座、勇座、賑座などの芝居小屋が軒をつらね、1899年(明治32年)に関外大火に見舞われたのちも再建されて横浜における興行の中心地となった。なかでも両国座再建後の喜楽座は、はじめて日本人によるジャズの演奏がおこなわれた場所として知られる。
興行を打ったのは、松旭斎天勝(しょうきょくさいてんかつ)率いる天勝一座で、1925年(大正14年)、アメリカからの帰朝公演において4人の日本人娘が登壇し、サキソフォンでガーシュインの「サムバディ・ラヴズ・ミー」などを演奏したという記録がのこっている。
日本初の洋画封切館が開館
1900年代に入ると、芝居小屋に加えて映画館も増えていく。浅草で日本初の常設映画館が開館してから5年後の1908年(明治41年)にはMパテー商会活動電気館(のち敷島館)、さらに1911年(明治44年)には喜楽座の向かいに日本初の洋画封切館となるオデヲン座が開館する。
オデヲン座の創業者はドイツ人貿易商リヒァルド・ウェルデルマンで、第一次大戦開戦後、ドイツが日本の敵国となったことに配慮して夫人の弟にあたる平尾栄太郎が経営を引き継いだ。栄太郎は、谷崎潤一郎が当時の横浜での交友を綴った随筆『港の人々』にも名前が登場する人物で、平尾商会を介して多数の洋画を配給した。
震災後、サイレント映画の伴奏楽団を率いていた六崎(むつざき)市之介が経営を引き継ぎ、第二次大戦後は進駐軍専用のオクタゴン劇場、さらに横浜松竹映画劇場となったが、市之介の死後、1970年(昭和45年)に次男の彰が権利を買い戻し、オデヲンビル(のちニューオデオンビル)として改築した。
僕の学生時代には先生堂古書店という品ぞろえのよい古本屋が入居していて、重宝したものだ(その後、市道の反対側に移転し、伊勢佐木書林と名前を変えたあと閉店した)。
映画「私立探偵濱マイク」のロケ地となった横浜日劇
伊勢佐木町五丁目裏、京浜急行黄金町駅に近い若葉町の一角には、1952年(昭和27年)に横浜名画座、翌53年に横浜日劇が開館し、「洋画は日劇、邦画は名画座」の謳い文句で親しまれた。
1990年代には横浜名画座が改装されてシネマ・ジャック&ベティとなり、日劇は林海象監督による映画「私立探偵濱マイク」シリーズのロケ地(永瀬正敏演じる主人公の探偵が日劇の2階に事務所を構えている)として使用された。
2005年(平成17年)に経営元の中央興業の解体にともない、二館とも閉館したが、シネマ・ジャック&ベティは同年のうちに運営を引き継いだ会社により営業を再開、2007年(平成19年)からは現在の経営元であるエデュイットジャパンが運営をおこなっている。
「2006年頃から黄金町のまちづくりに参画するようなかたちでアプローチをしていたんです。ちょうど、黄金町の大岡川沿いで横浜市主導のアートを取り入れたまちづくりがはじまっていて、われわれも小規模店舗の一軒を借りてアートスペースを運営していた。
そんなときに前の運営会社からお話をいただき、映画館をにぎやかにして、まちに貢献できればと、シネマ・ジャック&ベティの運営を引き継ぐことになりました」(支配人・梶原俊幸さん)